ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« なぜ学会への信頼が低いのか | トップページ | 自信をなくす教師たち »

地雷を踏む教員 地雷をばらまく教員

 危険がわかりきった状況なのに誤りを犯して失敗してしまうことを,「地雷を踏む」と表現する。

 カンボジアで実際に被害にあい,義足をつけている人には大変失礼な表現なのだが,他民族の不幸には無頓着の日本人の癖として,許していただきたい。いつもどこかで世界の笑いものになっている日本人だが,国内には本物の地雷を見たことがある人がいないので,同情の余地はあると願いたい。

 教育の世界には,自ら地雷をばらまき,周囲を不幸にする人間もいれば,目の前の地雷に気づかずに,平気で踏んでしまう人もいる。

 対人関係の調整能力がない子どもたちと長年生活していると,使わない能力は退化していくもので,自分も子どもと似たような状況になっていく。

 対人関係調査能力不足の子どもと教師が一緒になると,本当に困ったことになる。

 逆に,忖度が完璧で,教師の地雷をちゃんとよけていってくれる子どももたくさんいる。事故は起こらないのだが,地雷のばらまき方が尋常でなくなっていく。

 「本を読めば全部書いてある」・・・・宗教の正典でもあるまいし,そんな都合のよい書物があると豪語するのも正典を持たない日本人の情けない虚勢だと思っていただきたい。

 今の日本で,たとえで使っている「地雷」を踏むと,もうそこでは生きていけなくなる仕組みになっている。
 
 心の傷を負った山のような子どもと教師たちはどうやったら救われるのだろうか。

 要は簡単な話である。

 自分たちが騙されていたことに気づけばよい。

 そろそろまともな「実証的な反論」が失敗者から出てきてもよいのではないか。

 「教え方」「学び方」ではなく,「考え方」を誤ったのは,実践した奴が悪い,という「逃げ」を封じる方法も考えておいていただきたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

« なぜ学会への信頼が低いのか | トップページ | 自信をなくす教師たち »

教育」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 地雷を踏む教員 地雷をばらまく教員:

« なぜ学会への信頼が低いのか | トップページ | 自信をなくす教師たち »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より