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2018年10月

いじめや暴力行為が多い自治体の「いじめ」対策の共通点

 調査結果には表れてこない数字なので,予想を立てるしかないのだが,私の経験上,「外部機関に頼ろうとする姿勢」が強ければ強いほど,「いじめ」を減少させることが難しい自治体だと思われる。

 まず,自治体が教員を信用していないこと。

 こういう自治体では,教員も自治体を信用していない。

 管理職と教員の関係性が悪いこと。

 こういう「大人の仲が悪い」社会では,そのまま子どもたちの仲も悪くなる。

 「施策を打てばそれでいい」という感覚は,私も行政にいたのでよくわかる。

 問題は,施策が「役に立っていない」「そもそも利用されていない」ことがバレないように,自治体がダメな施策を隠蔽していることである。「税金の無駄遣いだ」という批判がこないように,いくらでも「実績」をでっち上げる。

 しかし,「実績がない」ことくらい,当事者だったらわかってしまうものである。

 「いじめ」対策の本当の基本は,「教師」「子ども」「保護者」という三者の関係をどうするかである。

 すべてが密接でなくてもよい。そもそも条件が満たされない子どもはたくさんいる。

 どんな荒れた学校にも,教師がいる。

 教師は,自分の子どもではなく,人様の子どもの教育を職務とする職業である。

 まともな教師がまともな行動をとることが当たり前の場が学校である。

 親の子育てのせいにしたり,いじめた子どものせいにしたり,本人のせいにしたりする「教育を他人事とする教師」は,当然だが「教師」とは呼べない。

 徹底して「教師」を「教師」として育てる機能を果たせる自治体にならないと,すべての施策は無駄になる,というか,そういう機能さえあれば,余計な施策はなくし,行政コストをなくすこともできる。

 どこに資金を投下するか,最初に大きな誤りを犯したのはどこの自治体か。当事者ならその痛さが実感できるだろう。

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道徳教育が成立するための条件とは

 ある中学生が正論を述べている。

 「道徳の授業という枠の中で,綺麗事を考えるのは,忖度できる人間をつくるだけで,害の方が大きい」とのこと。

 確かに,決まった時間にテーマが決められて,そのときだけ「考えたことにする」という時間は,まともな子どもにとっては,どちらかというと罪を犯している感覚の方が強くなる。時間が終わればそんなことに構っていられない現実が子どもにも待っているからである。

 道徳教育で育まれるべき諸能力は,どんな場でも,どんなかたちでも,だれに対しても,いつでも発揮されなければならない。

 道徳の授業という限られた場だけで頭を使わせられるのは,開店前に挨拶の練習をさせられる店員のようなものである。

 だから,道徳の授業は最も道徳教育の成果を発揮しにくい場になっていることの自覚がほしい。

 自分の頭で考える時間が必要だと真剣に考えるのなら,時間も場もテーマも強制してはならない。

 小学校低学年くらいで道徳の授業は「卒業」させることを真剣に考えてみてはどうか。

 いずれにせよ,ろくな授業が行われいないことは,調査をするまでもなく明白なことである。

 それはまともな授業をやろうとすればするほど,ろくでもなくなるという道徳に特有な事情である。

 最も道徳教育が機能している学校とは,道徳の授業の話などせずとも,いくらでも道徳が語れる教師で満たされている学校のことである。

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いじめがない(認知されていない)学校で,いじめがある学校よりもたくさん実施されていることとは?

 「平成29年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」で注目したデータがもう1つある。

>いじめの日常的な実態把握のために,学校が直接児童生徒に対し行った具体的な方法

 として特筆すべきは,

>「個人ノート」や「生活ノート」といったような教職員と児童生徒との間で日常的に行われている日記等

 で,いじめを認知した学校と,いじめを認知していない学校の違いは以下の通りである。

 いじめを認知した公立小学校で行っていたのは47.3%,公立中学校では82.8%,

 いじめを認知していない公立小学校では,57.9%,公立中学校では86.0%で実施されていた。

 これを統計的に有意なデータと言えるかどうか,わからないが,毎日子どもが担任教師に向けてのメッセージを送る仕組みがある学校では,「いじめを見過ごしやすい」と考えるより,「しっかり子どもとのコミュニケーションがとれているので,いじめが起こりにくい」と考える方が自然である。

 こういう仕組みは,単純に労働時間を短縮すれば良いと考えるだけの「働き方改革」推進者から見ると,やっかいなものである。家にまで持ち帰ってコメントを書かなければならないようなものは,できればなくしたい(もちろん,適当に判子だけ押して返している教員も多いだろうが)。しかし,教育への熱意に介入すると,「働きがい強奪改革」になってしまう。

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データから見える「いじめ」発見の難しさ

 「平成29年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」では,「いじめ発見のきっかけ」についても詳細なデータが公表されている。

 公立小中学校では,いじめはだれがどのように発見しているのか。

 「学校の教職員」とそれ以外(子ども自身,保護者など)の比率は,

 公立小学校で約7:3,公立中学校では55:45となっている。

 担任教師が発見した割合(全体に占める)は,公立小学校が11.2%,公立中学校は10.3%。

 アンケート等でわかった割合は,公立小学校が57%,公立中学校が38%。

 本人からの訴えでわかった割合は,公立小学校が16.2%,公立中学校が24.0%。

 本人の保護者からの訴えでわかった割合は,公立小学校が9.3%,公立中学校が13.7%。

 このことからわかる「いじめ」の特徴は,9割が教員の見ていないところで行われる,ということである。

 データから少々意外な印象を受けるのは,担任教師といつも一緒に過ごしている小学校でも,担任が気づかないように「いじめ」が行われているということである。ここでは「小学校担任はいじめに気づけない」という意地悪な解釈はやめておこう。

 アンケートをすれば「垂れ込み」がたくさん集まるのが小学校。

 本人が申し出てくれる可能性は,小中いずれも低いが,まだ中学生の方がやや勇気が持てているか,状況がひどくなって申し出がある,といったところだろうか。

 もう一つ意外だったのは,いじめを受けた児童生徒がだれに相談したか(複数回答可)というデータである。

 「友人に相談した」と答えたのは,公立小学校では5.5%,公立中学校では9.6%しかいなかった。

 いじめを受けた児童生徒は,集団から孤立していることも大きな特徴と言える。

 「担任に相談した」と答えたのは,公立小学校では81.4%,公立中学校では74.6%だった。

 私も長年教員をやっていて,「教師としか会話ができない子ども」をたくさん見てきた。「これでいじめを受けていないとしたら,ほとんど集団とはかかわりをもたずに生活しているという意味になる」という心配の仕方をしたこともある。

 スクールカウンセラー等の相談員に相談した児童生徒は,公立小学校では1.3%,公立中学校では4.0%。

 学校以外の相談機関に相談した児童生徒は,公立小学校では0.4%,公立中学校では1.1%にすぎない。

 日本では,いかに「学校の先生」の役割が大きく,「教員以外」の人材が機能していないかがわかる。

 費用対効果を考えて,予算を大幅にカットするという方法もあろうが,日本では「やがて機能する」という神話を信じる人が多いので,状況は変わらないだろう。もちろん,臨床心理士の人の仕事が急になるなるのも気の毒なことである。「いじめ防止に役立っている」というデータをつくれば,何とかなるだろう。だが,いじめの防止に対しても,教員の果たす役割が非常に大きいことは,次に紹介するデータからもわかってしまう。

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1000人当たりの暴力行為発生件数ワースト5は

 文科省が,「平成29年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」を公開している。

 小中高における暴力行為とは,「対教師暴力」「生徒間暴力」「対人暴力」「器物損壊」の4つを指している。

 1000人当たりの発生件数のワースト5は

1位 島根県   15.6件
2位 神奈川県 10.7件
3位 沖縄県   10.0件
4位 新潟県   9.0件
5位 京都府   8.0件

 だった。ちなみに東京都は2.1件。

 人口の少ない地域では,どうしても1人当たりの件数が多く見える問題があるが,神奈川県の場合は言い訳ができない。

 最も発生件数が少ないのは愛媛県で0.5件だった。

 指定都市別に見ると,ワーストの順位は

1位 横浜市  18.4件
2位 新潟市  18.0件
3位 相模原市 13.3件

 の3市が突出して多い。

 高い割合を示しているのは「生徒間暴力」で,横浜市では暴力行為総数4935件のうち,生徒間暴力は3375件で7割弱を占めている。

 校種別では,中学校が最も多い。

 横浜市の公立中学校では,子どもはどのようなストレスを暴力で解消しようとしているのだろうか。

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よい質問が出なければ,よい発表とは言えない

 疑問だらけの発表では聞き手もどうしようもないが,疑問も一切湧かず,質問が出せない発表には意味はない。

 拙い内容であっても,よい質問を引き出せた発表は,よい発表と判断する。

 こういう判断を多くの人や客観的な「評価・評定」に反映することは難しいかもしれないが,「成長」のこつはここにある。

 先日行われた学会の「自由発表」(パネルディスカッション)のような場で,私は将来性のある「学生」「教員」かどうかを確かめる「実験」を行った。

 それは,「自分自身の課題をふり返るゆとりがあるかないか」を評価するためである。

 教員より,学生の方に将来性を感じたのは,私が「良い点を評価するコメント」を多めに出したせいかもしれないが,「人から学ぼうとする姿勢」「人の話を聞く姿勢」が歳や研究を重ねるごとに薄れていく傾向があり,特に大学の教員は「人の話を聞かない」ことに特徴があって,そういう教員に育てられた学生は若いうちに「学習能力」を失う危険性があるので,「被害状況を確かめたかった」という意図もあった。

 一番将来性を感じたのは,内容はほとんどゼロであるにもかかわらず,発表の場に参加していた人だった。

 民間の方とコラボで研究をしているこの方は,教育現場の問題に正面から取り組んでいる。

 大学の研究者の多くは,教育現場をろくにしらないから,教科書の執筆を任されると,ほとんど読めないか全く興味を引き出せないような原稿を出してしまう。学問的に「正しい」ことを書くのは当然だが,「教科書」をどういう子どもが読むのか,どういうレベルの先生が使うのかがわかっていない。

 こういう教科書を読んでも,子どもが何の反応も示さないことに,おそらくは何の疑問も感じていないだろう。

 大学の講義の途中で,矢継ぎ早に質問が繰り出され,追い詰められて答えられなくなる,という経験をしたセンセイはどのくらいいるのだろう。ゼミで学生に対してそういう「いじめ」をしている人はいるかもしれないが。

 質問が出てこない講義に疑問を感じることができるセンセイはどのくらいいるのだろう。

 「この本を読めば全部書いてあるよ」なんていう態度がとれてしまう人が,なぜ生まれてしまうのだろう。

 「教育とは偉い人が訳の分かっていない連中に,情報を垂れ流してあげる仕事」という捉え方が根本にあるのではないか。

 そういう人が消えない限り,教育を「改革」することはできないだろう。

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「いじめ」対策は,日本という国のどんな弱点を象徴しているか

 新しい「いじめ」の定義によると,成績のいい子が近くにいて劣等感を覚えると「いじめ」になってしまうので,もはや「いじめ」の統計は意味をなさない。

 「いじめ」がゼロなんて,おかしいぞ!

 という恫喝をくらう状況だから,認知される「いじめ件数」はまだ増え続けるだろう。

 そのうち,「いじめ」のレベルを「心の震度1」「心の震度7」とか呼び始めて,細かい調査が始まることと思われる。

 「震度3」でも緩い地盤のところは相当揺れるし,「震度7」でも揺れをうまく受け流す柔構造の建物もある。

 不登校にならずに「耐えて」いれば「重大案件」にならない,というのも問題になるだろう。

 
 「いじめ」の根絶という「願い」はもちろん悪いものではないが,個人の言動だけではなく,

 「劣等感」などという,人間と人間が生活する場の「状況」によって生じる精神的な苦痛を根絶することは難しい。

 公立学校では特に,「できること」を隠すことが優れた生存戦略として機能するわけだが,「いじめ」防止のためにこうやって生徒たちは涙ぐましい努力をしているわけである。

 「公正・公平」などという原理や原則に照らしてみるときに,「いじめ」をめぐっては「目には目を」というタイプの要求をしてくる親が増えてくることも予想できる。

 「いじめは犯罪だ!」と声高に叫べば,「犯罪者は罪を背負うべきだ」「犯罪者には,刑罰を与えるべきだ」という主張も当然存在感を増していく。

 いずれ,「いじめ」を装って相手に罰をくらわせるタイプの「いじめ」も増えるだろう。

 学校は,どんだけ生きにくい場所になったんだ,とあきれるばかりである。

 「いじめ」対策は,どんどん「地盤を緩める」方向に流されていないか。

 今の日本では,そもそも地盤の緩い,危険な場所に住んでいる人が多い。

 しかし,「移住による安全確保」という選択肢をとることができない。

 「自分で自分の命を守る仕組み」がつくれない国の弱点が,「いじめ」対策に象徴されている。

 
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孤立・自壊する可能性に気づいた?中国との関係づくり

 昨日は,週刊ダイヤモンドで企画された橋爪大三郎さんの講演に参加してきた。

 四大文明・世界宗教の特徴から,米中関係を考えることがテーマだった。
 
 中国の儒教は忠<孝。だから「腐敗」が防げない。

 日本は儒教のモノ真似をしたが,江戸から戦前にかけて,忠>孝で,自滅した。

 千何百年も書き換わらない「正典」をもつ「文明国家」と,そうではない日本との対照が鮮やかであった。

 「日本は文明ではなく,文化で生き抜いていく国」というメッセージを受け取った。

 橋爪氏の予想は,「中国はやがて孤立する」というものだった。

 今日のニュースを見ていると,「中国がそういう自覚をもつことで,日本との関係づくりの重要度が上がったのか」と感じてしまった。

 中国を追い詰めていくのではなく,「競争から協調へ」という「仲良し路線」をとる戦略は,「外交練度」が低い日本ならではの動きのような気もする。

 「文明国家」ではなく,「文化国家」としての日本の動きは,よく言えば「機動的」,悪く言えば「行き当たりばったり」になる。教育政策やエネルギー政策を見ていると,まさにそんなレベルの国である。

 キリスト圏,イスラム圏,中国,インドとの関係を上手にコントロールしていくために必要な力とは何か?

 これは「歴史教育」による「思考力育成」をおいて他にはない。

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自信をなくす教師たち

 おそらく自分が年齢を重ねたからではなく,もしアンケート調査を本気で実施したら,本当に出てくる傾向だと思われる。

 教師たちは,自信を失っている。

 だから何にでも,ろくでもないものに飛びついてしまうという,「飢餓状態」にあるのではないか。

 自信を失う理由とは何か。

 「だれかに支えられている」という安心感がなくなったからではないか。

 子どもたちとの距離が開き,親たちとの関係性もなくなり,まわりの教師たちとのつながりも薄くなる。

 今から30年前の教師たちには,安心感があった。

 今は管理職ですら,頼りにならない。

 まわりにいる教師たちも,頼りにならない。

 そういう学校で「自信」を維持しているのは,ただの「自意識過剰人間」だけかもしれない。

 うまい「頼り方」を知らない世代は,孤立傾向を強めていく。

 「頼りにできない人」は,「頼られないこと」でますます離れていく。

 自信を回復するための最初の一歩は,「頼ること」である。

 子どもを頼っている人間は,給与の全てを返納してほしい。

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地雷を踏む教員 地雷をばらまく教員

 危険がわかりきった状況なのに誤りを犯して失敗してしまうことを,「地雷を踏む」と表現する。

 カンボジアで実際に被害にあい,義足をつけている人には大変失礼な表現なのだが,他民族の不幸には無頓着の日本人の癖として,許していただきたい。いつもどこかで世界の笑いものになっている日本人だが,国内には本物の地雷を見たことがある人がいないので,同情の余地はあると願いたい。

 教育の世界には,自ら地雷をばらまき,周囲を不幸にする人間もいれば,目の前の地雷に気づかずに,平気で踏んでしまう人もいる。

 対人関係の調整能力がない子どもたちと長年生活していると,使わない能力は退化していくもので,自分も子どもと似たような状況になっていく。

 対人関係調査能力不足の子どもと教師が一緒になると,本当に困ったことになる。

 逆に,忖度が完璧で,教師の地雷をちゃんとよけていってくれる子どももたくさんいる。事故は起こらないのだが,地雷のばらまき方が尋常でなくなっていく。

 「本を読めば全部書いてある」・・・・宗教の正典でもあるまいし,そんな都合のよい書物があると豪語するのも正典を持たない日本人の情けない虚勢だと思っていただきたい。

 今の日本で,たとえで使っている「地雷」を踏むと,もうそこでは生きていけなくなる仕組みになっている。
 
 心の傷を負った山のような子どもと教師たちはどうやったら救われるのだろうか。

 要は簡単な話である。

 自分たちが騙されていたことに気づけばよい。

 そろそろまともな「実証的な反論」が失敗者から出てきてもよいのではないか。

 「教え方」「学び方」ではなく,「考え方」を誤ったのは,実践した奴が悪い,という「逃げ」を封じる方法も考えておいていただきたい。

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なぜ学会への信頼が低いのか

 先日,ある本に寄せた私の内容を引用している人がいると,論文のコピーをもらった。なぜこのコピーが出回ったかというと,どうやら二重投稿の証拠の品であるという。

 問題は,二重投稿であることがわかったのが,雑誌が出された後だという。

 私自身は,ある学会誌の論文の査読を命じられて,二重投稿をすぐに見破って書き直してもらった経験がある。

 二重投稿というのは,みんなよくやってしまっていることなのだろう。

 できれば,すべての論文に目を通している人が査読の役割を果たすべきだろう。

 手渡された論文を読んでも,これが論文として成立しているようには見えなかったが,スルーされて世の中に出てしまうのが「学会」というところのようだ。

 まともな査読者がいない学会の存在意義はどこにあるのだろうか。

 そもそも,せっかく論文を出してもスルーされてばかりでは,学会に所属して数千円から1万円を上納してくれる人がいなくなってしまうだろうから,「仲間としての甘い評価」で世に出るかどうかが決まってしまうのだろう。

 少なくとも,中学校か高校の「国語」の先生のチェックくらいは受けてほしい気がする。

 大学の世界では,論文はどんなレベルの低いものでも,一つ書くことで一つの論文として成立するらしい。

 だから見る角度をちょっと変えただけで,同じ内容のものを二つでも三つでも書くことができる。

 そんな論文の数で就職が決まるのが大学だから,そこで行われる教育のレベルも想像がつく。

 どこかに大学教育を根本的に改革できるヒントはないだろうか?

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「自由の檻」の中で「情報の繭」に閉じこもる大学のセンセイたち

 大学という狭い世界での「政治」を語れる人はいても,それは「世の中」とはほとんど無縁の話である。

 意見の異なる人々との情報交換を拒絶することが自分にとって「得」である,という感覚はよく理解できるが,「それではダメだ」という「世の中」の常識も知っておいてほしい。

 自分の子分たちや,自分と同じようなものを目指している人ばかりとコミュニケーションしている人間を,「自由の檻の中にいる」として批判できる「有識者」が近くにいてほしいものである。

 『#リパブリック』(勁草書房)の書評で橋本努教授が述べている。

自分の好みに合わせて情報環境を作る「情報の繭(コクーン)」社会は,危険である。

 自分とは異なる意見に耳を傾けたり,討議したいと願う「市民」を日本の教育は作ってこなかった。

 だから,「村」の人間たちがますます「村」の中に閉じこもっていく,という現象が目立っている。

 「檻の中での学び合い」をやめさせる一番よい方法は何だろうか?

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なぜ学会に参加するのか

 授業の質,教育のレベルは全国一律ではない。それが教育という仕事の面白いところでもある。

 同じ教科書,同じ指導案を使って授業をすれば,みんな同じ程度の学力がつくかと言えば,そうはならない。

 子どもが先生のことをどう思っているか,だけで,結果ががらっと変わるような教育の場所が,学校というところである。

 どうやったら学力が向上するか。その近道が書いてあるのが,「学習指導要領の解説」のはずである。

 しっかりと書いてあることがたくさんある。それを実行していないから,学力が向上しないのか,書いてあることがいい加減なのか,研究者たちにはしっかりと分析してほしい。

 教育系の研究者たちが書いた論文が,相当に集積しているはずである。 

 優れた論文というものも,この世にはたくさんあるのだろう。ただ,そういう論文に対する評価も,教師によってまちまちであるが,全国のほぼすべての教師に,大学のセンセイが書く最新の論文を読む機会はないというのが実際のところだろう。現場の人間に読まれない論文がなぜ大量にあるか。それは書いた人が職を得るためでしかないからである。

 学会は玉石混淆ならではの面白さもあるが,さすがに小中高が入り乱れると,「意見や質問が出ない」発表ばかりになって,授業に置き換えてみれば最低のパフォーマンスで終わる結果になるものが多くなっている。今まで学会で聞いた中で最も最低だったのは,大学教授の発表で,しかもそれが全体会のような場だったから,「だから教育学部はダメなんだな」ということが非常によくわかってとても参考になった。後日,別の学会で,同じ大学の教育学部の学生の発表を聞いてびっくりした。直前に紹介されていた高校生の発表以下だったからである。わざわざ使えない人に場を任せる「余裕」があるのが国立大学法人である。教育学部出身者は教育現場では使えない理由もよくわかる。

 なぜ学会に参加するのか。ここ何年かは,私の後任を探すための「旅」である。今は「一本釣り」の時代ではないが,そもそも公募に参加してくれなければ何も始まらない。後任人事に先任は口出しできない仕組みになっているが,実績がある人なら採用される可能性はもちろん高くなる。問題は,私のように退職金の額が減ってしまったり,場合によっては給料が下がってしまうことだ。それでも公募に応じてくれる人がいてほしい。教育現場は,「人」がすべてである。 

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どんだけ最低の説得方法なのか

 以前から書いていることが,講演などの後に「学校に持ち帰ってすぐに実践できる情報がたくさん得られた」という講評を受けることを,私は望んでいない。

 「だれかの得になるから」という理由で仕事を引き受けているわけではない。

 基本的には,「宿題がたくさん出された感じのする研修」を目指している。

 「主体的,対話的で深い学びの実現」を目指した研修だったら,その内容はどんなものか,ゴールは何なのか,想像がつくレベルの教師であってほしい。

 だから「これこれこうすれば,結局は自分の得になるから,やった方がいいよ」みたいな話法は絶対にとらない。

 教師に対しても,子どもに対してもである。

 思い出してみれば,今年だけでも内閣府,財務省,厚労省,文科省,資源エネルギー庁の人たちに対しては,そういう言葉を発した記憶があるが,子どもに対しては,せいぜい,「~さんはこうやって学習のコツをつかんだそうだ」という子どもの言葉を紹介するくらである。

 「こういう態度をとると,それは結局は自分のためになってかえってくるから,そうする」子どもを育てようとする人間がいるが,私はこんな教師に育てられた子どもはとても気の毒だと思う。

 実社会は,どんなに人のための行動をとっても,結局は自分にとってあまりプラスにならない結果になることが非常にたくさんある。大学を見てみればよいだろう。大学を出て,たとえば一端は仕事で挫折して辞めてしまっても,また立ち直り,新しい職場で順調に昇進できた人間と,その人間が居座っているためにポストを得られずに損ばかりしている人がいる。「みんなが得をできる」幻想を抱かせる理由は,「自分が得をする」ために必要だからだ。実際にはほとんど役に立つことはない薄っぺらい本が売れる仕組みでもある。

 「こういう態度をとると,それは結局は自分のためになってかえってくるから,そうする」子どもを育てようとする人は,自分もそういう態度でいると考えればよい。結局は「自分本位」の人間なのである。

 「自分本位」の人間たちというのは,言っていることとやっていることが違っていても,全然気にしないでいられるという特徴がある。

 自分にはしっかりとした逃げ場がある。そもそも,「子どもを教育する場」にいない人と,「子どもを教育する場」にいる人の違いを理解しておく必要があるだろう。

 逃げ場があるというか,「逃げ場」にいる人間に利用されて,教育現場で逃げ場をなくしている教師たちに言いたいことは,「大学に逃げる」という方法を探してみるか,「逃げてはいけないという自覚を与えられた」と感謝すべきだということか。

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中学校化している?小学校の授業

 私の子どもが通っている公立小学校は,すぐ近くに中学校があるわけでもなく,小中連携の大がかりな取り組みをしているわけでもない。

 区は学力向上を大きな目標に掲げており,その指標となるのが全国学力調査等の「ペーパーテスト」の結果である。

 公開授業を参観してみたが,いくつか発見があった。

 まず,話し合い活動をしている教室が一つもない。

 コの字型の座席配置にしている教室も一つもない。

 授業はすべて,「一斉授業」である。

 中学校と比べると,聞いているだけで理解できていそうな子どもはあまりいないから,無駄な時間がたくさん過ぎている印象がある。

 黒板をそのままノートに写す,「書写」だけはしっかりやっている。

 子どもたちは一年生から六年生まで,おとなしく黒板に向かって座り,先生の話を聞いていた。

 この小学校では,授業が行われている45分×6回の間,どのくらい「言葉」を発する機会があるのだろう。

 ほとんどなさそうだ。そのストレスを,昼休みなどに一生懸命発散している感じである。

 ほぼ黙っていることが可能,というよりは,「黙っていなさい」「おしゃべりをやめなさい」と言われ続け,黙っていることが義務のような印象が強い小学校である。

 学力向上=ペーパーテストの得点力向上には,これが一番良いのだ,という意見が一致した,「同僚性」の賜物なのだろう。

 「お行儀良くする訓練」を強いられた子どもたちが,どうして中学校で荒れ始めるのか,想像はできるのだろうか。

 「お行儀良く黒板をノートに写したところで,勉強がわかるようにはならない」ことに気づくタイミングの問題である。小学校で気づいた「賢い」子どもも,できる子も多いため,なかなか行動に移せない。

 本当に教育を研究している人たちは無力なんだなと実感した。

 学力調査などの施策のせいにして,自分たちの無力さ加減をスルーしているうちに,こんな小学校ばかりになっていくのだろうか。

 細かいことはあまり書きたくないが,ある授業で教師が説明していたことがらのうち,5分くらいの中でも誤りがたくさんあった。何を読んで準備したらそういう説明になるのか,本当に小学校用の教師用の指導書の「検定」が必要になってくるかもしれない。教科書は「検定」で誤りがチェックできるが,資料集や指導書には「検定」がない。

 説明一辺倒の授業を続けるのなら,少なくとも正しい内容を教えてほしい(ほとんど定着しないから,害は少ないのだが)。

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自分との対話ができない人たち

 人の話に聞く耳を持たない面倒扱いされる人というのは,人から相手にされないから,ただ孤立して終わりになるか,他人からの「思いやり」でどうにかなる。

 本当に面倒なのは,人の話を聞くことはできるが,自分との対話ができない人である。

 人にウソはつかないが,自分にはウソをつく。

 フォローが難しい。「思いやり」ではどうにもならないから,「本当のこと」を大勢で本人に伝えなければならない。ただ,「孤立」に荷担することになるかもしれない行動を人はなかなかとりたがらない。「崩壊」につながったときに,責任感を覚えることになるから,そういう事態を避けたい。だから,放置されることになる。

 勇気をもって真実を告げる人が現れると,「こいつだけ,ひどいことを言ってくる」と反発され,それが上司なら,「パワハラ」呼ばわりされる可能性もある。

 深いところでは,自分が自分にウソをついていることで,自分が成立していることを知っているのだろう。

 自分にウソをつけなくなった瞬間が「崩壊」なのか,真の「成長」なのか,判断は難しい。

 子どもを相手にする教育現場の場合は,悪意で生きていける世界とは違って,ほぼ全員が「善人」だから,「自分にウソがつける」人が目につくのかもしれない。こういうタイプを子どもに近づけたくないという気持ちが強くなる。

 道徳の授業では,自分にウソをつく習慣を身に付けさせるか,自分にウソをつかない勇気を持たせることができるかが,担任教師の力量で決まる。自分で自分にウソをついている教員は子どもに簡単に見抜かれており,反面教師として機能することも可能だろうが,ウソつきに囲まれた教室に入るのは,ちょっと苦痛である。

 しかし,子どもを「覚醒」させるのは,そう難しいことではない。子どものうちに,救える子どもは少しでも多く救っておきたい。

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なぜ学習指導要領が「小学校寄り」になるのか?

 学習指導要領は,総則や道徳を見ればよくわかるが,小学校のものをベースに,中学校向けに援用されている。

 全教科の指導と評価を行わなければならない小学校の教員と,専門とする教科の指導と評価を行う中学校の教員の違いがある(だから免許も別々になっている)のにもかかわらず,「義務教育」という同じ枠内(進学率が高く,無償化された高校も日本では実質的には「義務教育」のようなものであるが)で学習指導要領がつくられるため,重点の置き場が異なるはずなのに,小学校向けの言葉が義務教育全体にわたって発せられる状況にある。

 これによる弊害はいたるところにある。

 巷に溢れている教育関係書の多くは小学校向けである。それなのに,書籍紹介にも「小学校向けですよ」という断り書きが一切ない本が多く,迷惑を被っている。内容がお粗末な本もあるが,もちろん中学校教師が呼んで参考になる本もある。だが,たいていは子どもたちを商品化のために利用しただけの,自己満足の産物でしかない。「個人名が書名につく」という醜悪さだけは何とかしてほしい。小学校は「個人タクシー」の営業所みたいなところである。乗り物の見た目が同じだけで,行き先はバラバラである。

 中学校では,授業でノートをとるにしても,試験のための準備をするにしても,行事を運営するにしても,自分たちがきちんと判断して動かなければ,何も前に進めない,という活動が急に多くなるから,そういう習慣のない小学校から進学した子どもたちは最初,路頭に迷うことになる。

 最近,文科省の若手の事務方に確認できたことだが,中学校の「特別活動」が年35時間で足りるわけがないことの認識は,はっきりと持っているようである。道徳の教科化など行わず,特別活動等との関連性を認めながら,特別活動の時間が35時間をはるかに上回ることができるように学習指導要領の弾力化を図ることが,文科省の仕事であるが,実際には現場の中学校がしっかりと「カリキュラム・マネジメント」している。もちろん,違法天下りのときに文科省がつくっていたマニュアルと同じように,現場も「実際の内容」ではなく「正しいとされる内容」に改変して報告しているのである。

 運動会,文化祭,部活動が大きなところだが,学校によっては,学級活動から学年で行う宿泊行事や遠足なども生徒が中心になって活動できるようにしている。

 主体的・対話的で多くの生きるための知恵が学べる活動に振り向けたい時間は,小学校と違い,中学校には山のようにあるのである。

 小学校では,担任教員だけしっかりしていれば,どうにかなる。

 もちろん行事で「練習させられる」のは子どもたちだが,たとえば毎週対外試合で実力のアップやチームの連帯感を高めるような環境は小学校にはない。

 こういう事情で,小学校では教科の授業での「主体的・対話的で深い学び」が必要になってくるため,無理矢理感の否めない「話し合い活動」を増やしたりして,ドツボにはまり,数値ですぐにばれてしまう学力不足を解消するために,たとえば学力調査のための練習問題を宿題にするなどの「家庭学習の押しつけ」が増えてくる。

 ときどき,「あんなに生き生きとしていた小学生が,どうして中学校に入っておとなしくなってしまうのか」という感想をもらす小学校教員がいるが,それは教科の特定の授業だけを見ているからである。小学校の教員は,放課後のまだ勤務時間が残っているうちでよいので,中学校の部活動を見学してみてはどうか。文化祭や運動家の準備の場面を見てみたらどうか。小学校では想像もつかないような,教科ごとの専門的な内容を自分の言葉で発表する時間の授業を見学してみたらどうか。どうして「小学校では見られなかった生き生きとした姿」を探そうとしないのかが不思議である。

 もちろん,極小規模化している中学校に活気がないのは当たり前である。少子化が進み,危険回避・安全最優先の弱気経営者の増加により,「運動会が盛り上がる」学校は,どんどん減少している。小学校の「延長」にしなからないと危惧されている「義務教育学校」に移行する学校の多くは,生徒数が大きく減少したのに,学校間の距離が長すぎたり,交通機関が確保できない地域で誕生する。こういう小中一貫校で学んだ生徒が,大きな都市部の中学校の教員になって初めてわかることはたくさんあるだろう。そして,何が望ましい教育環境なのかを痛感するに違いない。
 
 学校の統廃合が進まなければ,今後ますます,「小学校の学習指導要領を3年間延長する」だけで成り立ってしまう義務教育の学校が増えていく。

 文部科学省や大学の教育学部には,中等教育,特に中学校教育の専門家がほしい。

 日本の教育を改革するには,免許の違いにきちんと正対して,初等教育と中等教育を完全に切り離す発想が必要である。

 今後,中高一貫教育の成果が伸び,小中一貫教育の弊害が拡大すれば,文科省の「初等中等教育局」を「初等教育局」と「中等教育局」に分離する意義が増してくるはずである。

 学校の極小規模化を前提にした政策は,「学校は必要ない」という現実的な意味を持ち始めるようになるだろう。

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教育者ではなくなった人間たち

 教育現場のことが全く分からない事務方に,机上の空論でいい加減な政策を立案されるのも困ったことだが,自意識過剰の教員経験者が勝手なことを言ったり書いたりしていることにも心が痛む。

 地方の小さい都市では,教員の経験者が教育長に就任するところも多いのだろう。

 ある市の教育長が,いじめ自殺の遺族に対して「お前」と呼んだという記事を見て,目を疑った。

 そして,教育長と遺族である父親の関係が,教員と教え子だったという事情を読み,なるほどと納得した。
 
 いじめで苦しむ子どもの周りにいるのは,今の法律で決められた「いじめ」など,いじめとは言えないと考えている大人や子どもたちである。

 教員時代の感覚というのは,教員をやめてからも体にしみついてとれないのだろう。

 子どもを失った親も,「子ども」にしか見えないのか,自分以外は全部「お前」なのか,それとも愛情を込めて「お前」と言ったのか,よくわからないが,小学校の教員には特に理解しておいてほしいことがある。

 子どもたちは自分だけで育てたわけではない。

 子どもを利用している教員,利用した教員,「お前たち」の自己満足と自己顕示欲の犠牲になった子どもを救っているのはだれだ?

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「成果」を出すための「時間」

 学校現場では,180度異なる理由で同じような苦情を受けることがある。

 「A先生は,部活動の指導が熱心すぎて,困る」

 「B先生は,部活動の指導に熱が入っていないから,困る」

 他の先生は,「ちょうどいい」のか?というと,そうでもない。

 A先生に対して,「もっと指導してほしい」という要望が寄せられることもある。

 宿題についても同じようなことが言えるだろう。

 「C先生は宿題が多すぎる」と訴える保護者がいる一方で,「もっと宿題を増やしてください」という保護者もいる。

 学校として,しっかりとしたガイドラインを作ってくれていれば,苦情対応の時間は減らせるかもしれない。

 ただ,「ライン」が引かれることで,問題が解決することはないだろう。

 「働き方改革」とは「働く時間の短縮」が大命題だから,

 毎日遅くまで学校に残って仕事をしているD先生には,いずれ,

 もっと効率的に仕事を進めてください。

 自分で仕事を抱えずに,学年や分掌の組織をうまく使ってください。

 部活動の日数を減らして,その時間に仕事を進めてください。

 勤務時間終了後の学校の電気代はご自分で負担してください。

 という管理職や行政からの指導が行われるようになるだろう。

 こうした教育への意欲や熱意を殺ぐような動きを防ぐ上で,ガイドラインは効果的な役割を果たせるだろうか。

 教育の世界では,すべての人たちが共通して追究しているものがあるはずである。

 それは,「成果」である。

 見えにくい教育の「成果」を,「全国学力調査」は「見える化」した。

 しかし,この程度の「成果」だけを学校が追究しているわけではないことは,学習指導要領を出している文科省ならよくわかっているはずだろう。

 新聞記者の仕事を想像してみてほしい。

 「特ダネ」をとるために,どれだけの取材を積み重ねていることか。

 「情報をとる」ためには,人間関係が成立していなければならない。

 「信頼関係」を築くまでに,どれだけの努力が必要とされるか。

 「悪」を暴く新聞と,「善」へと導く教育には,似たような敵もいる。

 敵と対峙しながら,「成果」を出すためには,一定の「時間」が必要であることは,わざわざ説明するまでもないことだろう。

 一番しっくりと来る関係が,もっと教育にかかわりたいと思う教員と,かかわってほしいと思う保護者と子どもたち。その関係が壊されようとしている。

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国後島で考えたこと~通訳のお仕事

 ビザなし交流の国後島訪問では,最も頼りになったのは新聞記者の方々,通訳さんたちである。

 すでに複数回の訪問に同行されていて,島の変化を肌で感じている。

 ただ「言葉が通じる」というだけではない。現地の島民とのコミュニケーションが成り立っている。

 人と人が信頼関係で結ばれるのは,ただ「言葉が通じる」だけではない。

 ホームビジットに参加した中学生は,ほとんど言葉を発することがなかったが,その場で存在感を十分に発揮していた。言葉にならない言葉を島民に発していたことが,お別れのときの様子でよくわかった。

 通訳さんの仕事について,一緒に行動させていただいてよくわかったことは,ポイントをかいつまんで翻訳しているだけで,ときには大胆な「言い換え」をしている,ということである。「逐語訳」がよいわけではない。

 だから自動翻訳機ができたときに,まず起こるのは,「逐語訳」だからこその問題だろう。

 通訳さんという仕事は,現場で仕事をしながらかなりのスキルアップができる職業である。

 教師もそういう仕事をしていきたい。

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教育勅語と道徳教育

 悪いことをしでかした中学生には,反省文を書かせることにしている。

 「自分の言葉」で表現できたかどうか,が評価のポイントの一つである。

 また就任早々,やらかした大臣がいるが,

 「反省文」は役人の作文だった。そういう謝罪のやり方を,中学校教育では認めない。

 「自分の言葉で今の気持ちをしっかり表現しなさい」と指示する。

 霞が関の役人は,「反省文」の代筆業を兼務している。

 「自分の言葉」で語らせたら,さらに墓穴を掘る恐れもあるから,役人の仕事になるのは当然だが,それは今回のような「釈明」「謝罪」には適さない。

 今まで,役所内部のひどさの方が目立っていたが,大臣までがこうなると,もう救いようがない。

 10月7日の「初耳学」では,なぜかわざわざ「優秀な人材は文部科学省には行かない」という話題を提供していた。極限まで貶めることで,取るに足らない仕事が「画期的な政策」と錯覚されることが期待できるのだろうか。

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しゃべり続ける大学のセンセイを黙らせる方法

 「一斉授業」という言葉を「教師がただひたすらしゃべり続ける授業」という意味で使うのは,おそらく高校か大学のセンセイくらいでしょう。そんな授業は小中学校では通用しません。

 ある方の記事から,ひたすらしゃべり続けるセンセイを黙らせる方法がわかりました。

 聞き手全員で,タイミングは自由ですが,時計をちらちらと見るのです。

 普通は表情で伝わるのでしょうが,日本人は感情は豊かなのに「無表情」が得意ですから,わかりやすいのは「行動」です。

 昔は「私語」,今なら「スマホ」で時間をつぶすことができたでしょうが,道徳教育のおかげで「滅私」「忍耐」の精神が涵養されていますから,ぎりぎり「時計を見る」というのが許される抵抗方法になりそうです。

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国後島で考えたこと~日本の教育

 北方四島交流訪問事業というものがあるのをご存じでしょうか。ビザなし交流の一つです。

 台風24号が迫る先月末に,大切な公務を犠牲にして,参加してきました。

 根室で結団式を行って,訪問場所は国後島の古釜布(ふるかまっぷ)。

 行政府や地元の学校,教会,商店街などを訪問し,住民との交流,日本人墓地の墓参もありました。

 今回は教育関係者,青少年の参加ということで,私は教員の立場での訪問団員でした。

 異なる言語や文化の人々が住む場所に「訪問」する機会というのは,とても大切なものです。

 相手のことだけでなく,自分たちのことについても多くの気づきが得られます。

 対応してくれた現地の人々はもう手慣れたもので,終始フレンドリーで,笑顔での「おもてなし」を受けました。ロシアの方々との間で,嫌な思いをする場面は一つもありませんでした。あちら側はどう思っていたかはわかりませんが。

 日本人が逆の立場になったときに,みんな本当に「おもてなし」が上手なのかどうか,受け入れ側になったことがないので,やや不安です。不安の原因はどこにあるのか。

 現地の小中高校生とのふれあい(合同授業や意見交換会)を見ていて一番感じたことは,日本の学校教育というのは,「インプット一辺倒」であり,「アウトプット」=発信力,表現力の育成が不十分だということです。

 今回の訪問のプログラム自体が,「交流」とは言っても,団員は「インプット」することばかりで,「アウトプット」を積極的に行う場面は少なかったように思います。

 今回の訪問団には,コンサドーレ札幌のチアダンスチーム「コンサドールズ」のユースに所属する中学生3人も参加していたのですが,この少女は別格で,一般の日本の中高生は,かなりシャイに見えるロシア人に輪をかけておとなしく表情の変化が控え目だったことから,「日本の教育に足りないもの」を痛感しました。

 「考える道徳」なんていう胡散臭いものに手を染めるよりは,「ホーム」「ビジター」両方の立場での礼儀やコミュニケーションの技能を磨いた方が,はるかに社会に出てから(というよりは,社会に出るために)必要なものだと思います。

 その一方で,話し合いの状況をメモにとり,整理して発表するという技能については,日本の子どもたちは優れたものがありました。

 日本の教育が重視しているのは,ただの「インプット」ではなく,自分なりの消化を伴う「インプット」であり,内容のない話に終始するだけの「アウトプット」をはるかに上回る価値を持っているように見えました。

 今後の教育改革で実質的に変えることができそうなのは,「教師の個性・タイプ」の分類に基づく効果的な指導行為の全体像のプラニング=カリキュラムマネジメントです。

 同じようなタイプの教え方・学び方に終始するのではなくて,それぞれの教師が得意とする指導が最も生きるような指導全体調整計画です。

 ただ話し合わせたり,子どもに任せて教え合わせたりするのではなく,自分なりに消化できる「インプット」の時間もしっかり確保することが重要です。そうでないと,学習指導要領に示された内容を習得することはできません。

 話しは続きます。

▼「ロウソク岩」にかかった虹

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より