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「知らない」ことが持っている大きなパワー

 教員に求められる資質能力に際限はない。

 子どもの学力低下が問題になれば,教員の教え方が悪い,となる。

 子ども同士の「いじめ合い」が増えると,人間愛が足りない,となる。

 教員養成系大学の教員の嘆きも深刻である。

 「そんなことまで大学で教えないといけないのか?小中高で何を学んできたのだ?」

 教員研修担当の指導主事や学校管理職の嘆きもある。

 「こんなのでどうして採用試験に合格できたのか?」

 現場教師の嘆きが最も深刻なのは言うまでもないが。

 「指導案も書けないのか」「指導案は書けるのに,授業が成立しない」

 子どもだけではない。

 教員にも,「知らないこと」「できないこと」が少なくない。

 しかし,「知らない」からできない。「能力がない」からできない。と嘆いていても,仕方がない。

 「知らない」「できないこと」をパワーにすればよいだけである。

 小学校の先生方には失礼かもしれないが,中学校で教えているとき,

 子どもが「知らない」「聞いたことがない」「読んだことがない」からこその「わかる」喜びを原動力にしている部分がある。そこで「自分からわかるようにしてしまおう」とする「近道」のありかを探っている。

 関心があるかないかで知識の習得度に大きな違いがあることは言うまでもない。

 私は相撲は大切な国技だと思っているが,18時に本番が終わってしまうようなスポーツはライブで見る機会がないから,関取の名前なども有名人以外はほとんど知らないし,知ろうとも思わない。

 「もっと知りたい」「もっとわかりたい」と思わせるきっかけが教育にあることで,「私にとっての相撲」以上のものが,子どもたちに生まれることを望んでいる。学校では,1日6時間の授業すべてでこれが起こると,放課後の時間がいくらあっても足りなくなってしまうが・・・。

 大学時代の授業を思い出す。私にとってのよい授業とは,もう講義に出ている時間を気にせずに,自分で講師の著書などから学ぶ気持ちにさせてくれた授業のことである。昔は,試験さえ受ければ単位はとれたから,講義の多くは参加していないのに,試験の結果がよくて好成績を取れる仕組みがあった(今はダメだろうが)。

 学校は,すべてを教えてくれるところではないし,すべてができるようになるところでもない。

 教科書に書いてあることは,むしろ,読めばわかるという前提で,教えないように指導する,というスタンスもありだろう。

 昨日の会議で,文科省の人が,「他の教科の内容を,専門ではない別の教科の人が教えなければならない,というのはおかしい」と発言したので,私は次のように返答した。

新しい学習指導要領の趣旨は,教科ごとに学ぶ知識を分けたのではなく,別々の「見方・考え方」があることを教科のアイデンティティとした。ある教科の内容(知識)を他の教科で扱うべきではない,と捉えられかねない発言は誤りである。

 行政の立場で受けやすい質問の答えを,まさか本人が本気で信じているとは思いたくないが・・・

では,◎◎科(教科名が入る)の教員にも,そういう知識が必要で,教えなければならないのですか?(私は嫌です)

 逃げの答えは,「その内容は,○○科で扱うので,大丈夫です」。 

 私のホンネは,

中学校に教える程度の教科の内容は,すべての教員が持っていてもおかしくない。なぜなら,中学校の過程を修了しているのだから。

 しかし高校や大学には,「専門ではない領域の内容は教えるべきではない」という常識がある。専門だというお墨付きがあってはじめて職が得られることが前提になっているので。逆に言うと,大学のセンセイの最大の弱点は,専門ではない人に,自分より高度な知見を教えられてしまうことである。学位をもった人よりも,学位はない予備校の先生の本が売れに売れるという話は,「前提の誤り」を如実に示す事例である。

 「正しい知識」の習得という話になると,議論がやや複雑になる。子ども同士に教え合いをさせて何も感じないようなセンセイには関係ない話だが,「専門ではない人の話は信用しない」という大学の暗黙のルールは,大学の存在意義というか正統性に根付く話だから,仕方がない。ただ教育の世界の場合,「研究者は役に立たない」ことは,現場に立った人間が実務上わかってしまう話だから,教職大学院が研究者だけでは成り立たない場所になるわけである。

 「知らない」「できない」という資源を最大に活用する方法を,教育学者ならもっと研究すべきだろう。

 教育産業はとっくにやっている,という話もあろうが,教育産業の弱みは「合格する」「できるようになる」ことを売りにしなければならないことである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
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  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より