「洗脳」か「常識」か
まだ運動会で整然とした行進ができている中学校は,どのくらい残っているでしょうか。
平成一桁の公立学校で,私が赴任していたところは,よく「軍隊の行進のようで,好きになれない」という苦情が寄せられていました。思っていても口に出来る人はわずかで,1万人に1人くらいの割合でしょうか。生徒たちも特に文句を言うわけでもなく,粛々と行進練習に励んでいました。もちろん動作が合わせられず,目立ってしまう生徒はよく叱られていましたから,そういう子は本当に嫌なのを我慢して行進していたのかもしれません。
ある国の大学で,入学後にこの行進をさせられることに対して批判をした人物が,入学を取り消された,というニュースを目にしました。
行進=軍国主義というのも極端な発想で,あのオリンピックでさえ,整然とした行進をする国もあるわけですから,「一面的な見方」で批判するのもどうかと思いますが,批判=侮辱という図式で入学を取り消されてしまうというのも,「民主主義」「人権尊重」という立場からは非常に隔たりのある考え方です。
ある大学4年生に中学校時代のことを語ってもらったのですが,「先生の言うことは絶対」「先生に逆らうことはあり得ない」という環境だったようです。こういう学校環境なら,『星野君の二塁打』もとてもやりやすいのでしょうね。子どもの「主体性」よりも「絶対服従」を大切にする道徳心は,こういう環境の下ではもはや「常識」のようなので,教えたり考えたりする必要もないのでしょうが,「異分子」の芽を遺伝子レベルで潰すつもりでもあるのでしょう。
ある行動が,「異様」に見えたり思えたりする状況は,グローバル社会で生きようとすると,いくらでも出てくるでしょう。そういう状況に応じる力をつける場所は,どこにあるのでしょうか。
「あんな国に生まれなくてよかった」と他国を侮辱する感情を育てないようにするための,「指導上の留意点」はどこにあるのでしょうか。それは,「おかしな教材」が排除できないのであれば,それが「おかしな話」であることを認識できる環境をつくることでしょう。
勉強だけしかしない毎日を送っても,大学には入学できます。
そういう生活を送ってきた学生に,協調性を持たせる,という目的で行わせる「行進」が,「洗脳だ」と受け止められることに対して,どう考えるか,どういう声をかけるのか,道徳の時間に話し合ってもらったらいかがでしょう。
テーマは「寛容」です。
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