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2018年9月

「洗脳」か「常識」か

 まだ運動会で整然とした行進ができている中学校は,どのくらい残っているでしょうか。

 平成一桁の公立学校で,私が赴任していたところは,よく「軍隊の行進のようで,好きになれない」という苦情が寄せられていました。思っていても口に出来る人はわずかで,1万人に1人くらいの割合でしょうか。生徒たちも特に文句を言うわけでもなく,粛々と行進練習に励んでいました。もちろん動作が合わせられず,目立ってしまう生徒はよく叱られていましたから,そういう子は本当に嫌なのを我慢して行進していたのかもしれません。

 ある国の大学で,入学後にこの行進をさせられることに対して批判をした人物が,入学を取り消された,というニュースを目にしました。

 行進=軍国主義というのも極端な発想で,あのオリンピックでさえ,整然とした行進をする国もあるわけですから,「一面的な見方」で批判するのもどうかと思いますが,批判=侮辱という図式で入学を取り消されてしまうというのも,「民主主義」「人権尊重」という立場からは非常に隔たりのある考え方です。

 ある大学4年生に中学校時代のことを語ってもらったのですが,「先生の言うことは絶対」「先生に逆らうことはあり得ない」という環境だったようです。こういう学校環境なら,『星野君の二塁打』もとてもやりやすいのでしょうね。子どもの「主体性」よりも「絶対服従」を大切にする道徳心は,こういう環境の下ではもはや「常識」のようなので,教えたり考えたりする必要もないのでしょうが,「異分子」の芽を遺伝子レベルで潰すつもりでもあるのでしょう。

 ある行動が,「異様」に見えたり思えたりする状況は,グローバル社会で生きようとすると,いくらでも出てくるでしょう。そういう状況に応じる力をつける場所は,どこにあるのでしょうか。

 「あんな国に生まれなくてよかった」と他国を侮辱する感情を育てないようにするための,「指導上の留意点」はどこにあるのでしょうか。それは,「おかしな教材」が排除できないのであれば,それが「おかしな話」であることを認識できる環境をつくることでしょう。

 勉強だけしかしない毎日を送っても,大学には入学できます。

 そういう生活を送ってきた学生に,協調性を持たせる,という目的で行わせる「行進」が,「洗脳だ」と受け止められることに対して,どう考えるか,どういう声をかけるのか,道徳の時間に話し合ってもらったらいかがでしょう。

 テーマは「寛容」です。

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子どもたちにとっての「迷惑行為」とは何か

 教員の過度の「思い入れ」,「教育熱」が,子どもを苦しめている実態を調査できる大学のセンセイはどのくらいいるだろう?

 教員の仕事が,子どもたちにとっては「迷惑行為」にあたっているということがらの事例はどのくらい挙げられるだろう。

 私が出会った「迷惑行為」の被害者もたくさんいる。ほとんどが,自分が被害者である自覚が全くない,ということは,中学校教員にとってもひどい「迷惑行為」である。たいていは,高校入学か,大学を選ぶ段階になってやっと問題の深刻さに直面する。

 地方では潜在的な危機感の裏返しなのか,とても極端な「個人崇拝」がある。

 異なる宗教を信じている人の行動を見ると,「私にはできないことだな」ということがわかるが,信じている側から見れば,「当たり前」のことであり,疑問を持つ余地はない。

 都市部にも,地方に負けないような「群れ」が存在するが,「異分子」に対する「村八分」的な排除行動のすごさはない。人口が多いために,「群れ」の種類がたくさんあるからだろうか。

 教育の世界に見える「狂信的な行為」によって,子どもたちは何重かの犠牲を強いられる。

 少しでも早く,気づいた方がよい。

 「たった一人の例外も認めない」という理想が,現実世界で完全に適用される社会で生まれる歪みがどれだけ深刻な傷を残すものなのか。

 9月に入って,私の子どもが通う小学校では,まだ一度も道徳の授業がないそうだ。

 夏休みの宿題で,数十ページ分の宿題が出たからだろうか。

 よい学校である。

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日本における戦後の急速な発展を支えた教育とは?

 近代の歴史を学ぶときは,「活躍している世代が受けた教育やその当時(教育を受けていたとき)の社会の特色」に着目させることにしている。

 たとえば,明治初期の改革を成し遂げた人々は?

 アメリカとの無謀な戦争に突入していった人々は?

 そこには,「すぐに役に立つ」知識や知恵はなかったはずである。ただし,新しい知識や時代の変化に対応できる能力が備わっていた(備わっていなかった)ことは確かだろう。

 アメリカとの無謀な戦争に突入した時代には,給食に軍国主義に内容が染められていった過程の教育があった。

 1943年に現在でいう小学校6年生(12歳)が,社会に出て主力として働いた30歳代と言えば,1960年代である。

 この時期は,高度経済成長の真っ只中で,「所得倍増」も成し遂げた。

 「滅私奉公」などといった軍国主義の教育理念がしっかりと反映したかたちになったのだろうか。

 1960年代は,行政で問題を起こしている官僚たちが産まれた時期である。

 1960年代にはすでに,教育の過熱化が問題になっていた。

 すでに平成に入って30年。日本の近現代史上,「もっとも頼りになる世代」はいつの時代に存在したのだろう。

 それは,なぜなのか。

 教育がしっかりしていたから,そういう「頼りになる世代」が生まれたのか。

 「厳しい時代環境」だったから,そこに適応するために能力が発揮されて,結果として「頼りになる世代」という「称号」がもらえたのか。

 今まで一度として「成功」扱いされた「教育改革」はなかった。だから大きな方針転換が相次ぐこととなった。

 悪影響もあるだろうが,逆に,改革のたびに心ある教師たちが,一生懸命「改革の旗手」となるべく研修・研究を重ね,能力を向上させることができたという副次的な効果があったのか。

 外的要因の変化は,文句のつけようがないから,批判されることはないが,自らが起こす改革に伴う変化については,常に批判・非難・誹謗中傷がつきまとう。

 東アジアにおける隋・唐王朝の成立,軍事政権の成立,海禁政策,近代における工業化・民主化の影響,「核の傘」のおかげで,日本が変化,発展を遂げてきたように見える歴史観に,何を加える必要があるのか。

 江戸時代後期,幕府の政治改革はなかなか「成功」することはなかったが,「雄藩」を生んだ諸藩の取り組みもあった。

 中世から近世にかけて,「一揆」が果たした意義についての幅広い検討から見えてくるものもあるだろう。

 学習指導要領をできるだけ弾力化し,創意工夫ができる範囲を広げることが,今後の日本の発展への大きな近道にはならないだろうか。

 難易度が非常に低い国語とか算数の問題の平均点を競うような愚を辞めさせることができる人物の登場も待ちたい。

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「見捨ててくれる」ことで安心できる人もいる

 日本人は,「完全」「完璧」が好きである。

 「漢字の書き取り」では,止め,はねができていないだけで0点となる。

 2×4=8という式が正解で,4×2=8は×となる。

 「危険性」も限りなくゼロになることを求める。

 「一人も見捨てないこと」が大事だという。

 東日本大震災では,素早い組織的な避難行動がとれなかったために命を落とすことになった子どもたちもいた。

 危険な山に入って,足を怪我したら大変だ,という心配から,「逃げない」という選択肢をとってしまうような国である。

 少人数の小さい危険を避けるために,全員でより大きな危険を背負うという癖。

 太平洋戦争でのおかしな作戦行動(わざと負けるためだった,という考え方もできるようだが)は,日本人独自の頭の使い方,ものの見方や考え方に原因があるのか,と思ってしまう。

 津波が予想されるとき,「家族全員が無傷で助かること」を目的にした行動によって,「家族全員が犠牲になる」ことがありうることを,子どもたちは学んでいる。

 道徳の時間にこのことを扱う場合,「死ぬんなら家族全員一緒がいい」「自分だけ生き残るのは嫌だ」と答える子どもはどのくらいいるだろうか。

 親はどう思うだろう。

 日本で,「いざというときに,家族を見捨ててでも自分の命を守る行動」を教えることが可能だろうか。

 他人のために,自分の命を犠牲にする行為は尊いものである。

 自分の命も他人の命も奪われるかもしれないが,それがわかっていても自分の命を投げ出して救おうとすることが求められる職業もある。

 尊い行為ができる人がどんどん亡くなっていった時代を,どう考えたらよいのか。

 日本の教育は,子どものころから自分を犠牲にする精神を植え付けてしまっているものではないか。

 「日本沈没」を防いでくれるのは,もしかしたら道徳の評価が低い人かもしれない。

 
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総裁選に見る危機管理

 かつての「いじめ」に対する教育現場や教育委員会の危機管理とは,「なかったことにする」「いじめとは認めない」というもので,「危機を増幅するための体制」「爆弾の上でくつろぐ組織」の多くが「自滅」という形で砕け散った。

 総裁選で「敵を応援するのなら,閣僚を辞職しろ」という言葉はある議員から発せられたものらしいが,受けた人がこれを「圧力」と感じたということは,それなりに相手の立場が高い人なのだろう。

 しかし,「そんな事実はない」と切って捨てるような態度は,明らかに「危機を増幅するための体制」を強化してしまうものであり,「自爆」して終わり,ということになりかねないから,「もしそういう発言があったとしても,私たちは決して敵を冷遇しない。同じ党員として」と否定するのが「危機管理」というものである。

 今,最も「生きづらさ」を感じている霞が関の住民は,文部科学省で道徳教育について語らせられている人たちだろう。教育行政の局長が逮捕されるような国で,「道徳」を無理矢理「教科」に格上げすることなど,笑い話にしか聞こえない。贈賄と天下り,違法な再就職斡旋の根は同じである。子どもたちの前に姿をさらせる役人の無神経さには仰天する。

 官邸主導の政治の影響で,優秀な人材がどんどん霞が関から去っているという。

 これは,本人的には「正しい選択」なのかもしれないが,公務員を辞めるというのは公務員として「正しい選択」なのだろうか。

 昨日放映されていたクイズ番組で,「カスハラ」=「霞が関ハラスメント」(正しくはカスタマーハラスメント)という珍回答があった。「新人にコピーをとらせ続ける」行為が例として挙げられていたが,「高収入が得られる仕事」にどんどん人材が流出してしまう霞が関に,「公務員」を育てる場所としての意味が失われているのではないかと暗い気持ちにさせられてしまう。

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苦しいときほど笑って「感情の錯覚」を生み出す

 体罰防止のための研修で,「アンガーマネジメント」を習得できている教員もたくさんいると思われる。

 私の場合は,高校,大学時代,野球というスポーツで,「リラックス」より「怒り」による集中力の向上を個人的には武器にしていたので,ピンチのときや敵に逆転されたときにニヤニヤしている選手を見ると非常にイライラしてしまう。

 しかし,逆境のときの「にやけ」が,しっかりとした心理学の理論に基づく「冷静になる手段」であることも知っておくべきだろう。高校野球では,よく打たれたピッチャーが「笑顔」をつくっていたことに,「感銘」を受けている。

 大坂なおみ選手が実践していた「我慢」・・・というより,もっと前向きなアンガーマネジメントに注目した記者も多かったようだ。優れた解説者なら見逃すことのないパフォーマンスがあった。

 自分がミスしたとき,テニスのシングルスのようなスポーツでは,損するのは自分一人である。野球やサッカーのようなスポーツでは,味方の選手全員に迷惑をかけるわけだから,オーバーに悔しがるのは「恥ずかしい」行為であるが,子どものまま大人になってしまった選手なら仕方がない。

 セリーナ・ウィリアムズ選手がしたような,ラケットを破壊する行為は,「怒り」の感情をわかりやすくすべての人に行動で示すもので,それによってさらに「怒り」の感情が増し,おそらくは「我を忘れる」快感に浸れる行為なのだろう。嫌なことは忘れたい。「怒り狂う」ことによって,「ミス」の重さを忘れ去る。「怒り」は「不快」な状況を通り越すと,「快感」に変わるのであろうことは,クレーマー対応をしたことがある人ならわかってくれるかもしれない。

 体罰をしたり暴言を吐いたりしている人間は,実は「快感に浸っている」と理解してもかまわないだろう。

 アンガーマネジメントの研修は,体罰防止だけではなく,生活指導の大失敗を防ぐことにも役立つ。

 指導力不足の教員は,自分が気に入らない特定の生徒の気に入らない行動ばかりにいつも目が行き,他の生徒の同じような行動には目もくれないで,「不公平」な指導をついつい行い,生徒をキレさせる。「私はお前(だけ)が憎い」という感情がストレートに生徒に伝わってしまえば,もう指導も何もない。荒れる学校には,こうしたタイプの,アンガーマネジメントが必要な教員が複数いるものである。こういう学校では,指導力のある教員がすべての「尻ぬぐい」をさせられるわけで,「働き方改革」のためにもまずは教員の資質能力の向上が最優先である。これは本当に「笑えない」話である。

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教科独自の見方・考え方の意味や意義がわかるためには

 その内容,私の教科でやるから,あなたの教科ではやらなくてよい,というものは,現実問題として滅多にない。

 教科は,内容によって切り分けられている。

 だから,教科独自の見方・考え方があると言ってみたところで,内容が独自なのだから,どんな扱い方をしようが,その教科を学んだことになってしまう。

 ハンガリーの首都ブダペストで開かれた世界科学会議には,世界中から2000人以上の科学者,国会議員,ジャーナリストなどが集まった。1999年のことである。

 宣言文では,21世紀の科学のありかたとして,次の4つの柱が謳われたという。

知識のための科学

平和のための科学

持続可能な発展のための科学

社会のなかの,社会のための科学

 最初の「知識のための科学」という柱は,タイトルだけでは何だかよくわからないが,内容を読むと奥が深い。

 理科教育に携わっている人には常識かもしれないが,実際の理科教育が,この世界宣言を念頭に科学教育に取り組んでいるのだろうか。

 文科省のHPにはきちんと示されているが,科学技術・学術審議会の参考資料の扱いだった。

 子どもたちにとって,別々の内容を別々の教科で学ぶのは当たり前のことであるが,

 同じ内容を教科ごとに別々のアプローチから学ぶことで,内容についての理解が深まるだけでなく,各教科独自の見方・考え方の有効性に気づき,それらを活用できるようにするという仕組みが必要なのではないか。

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大坂なおみ選手のインタビューへの非難・抗議

 日本にはまだ,「グローバル人材」という存在や意義が広く浸透していない(それなのに,グローバル,グローバルと何とかの一つ覚えのように連呼されている)。

 大坂なおみ選手にとって,不慣れな日本語で,しかもやや高度な質問を投げかけていたNHKのインタビュアーに対しては,私も少々不信感を抱いた。眠たそうに,というより,無愛想に,面倒臭そうにインタビューに応じていた大坂選手を責める気持ちにはならなかった。

予定外のインタビューを無理矢理強要されたことへの怒りか?

 とも感じたが,問題視するメディアもいくつかあったようだ。

 片言の日本語のテロップを,「カタカナ」で表記することへの批判もあった。

アリガトウゴザイマス

 試合後のインタビューの愛嬌の良さとは比較にならないくらい硬い表情をさせるインタビュアーは,やはり「素人」である。テニスのことには無知でも,相手の心を和ませるテクニックくらいは身に付けておいてほしい。

 ある人は,芸能とスポーツは日本の場合,「同じくくり」であることから,「インタビューされる側が努力して愛想を振りまくべき」みたいな逆のプレッシャーもかけている気がする。「スポンサーから多額の金を受け取っているのが選手であり,そのスポンサーの商品を買って経済的にも応援しているのが私たち視聴者なのだから」という発想。

 2020に向けて,選手を「商品化」するメディアの自粛を求めたいが,「金もうけのための道具」として投資しているメディアだけを悪く言うこともできない。

 アメリカのメディアは閉会式等について,大坂選手を擁護するような報道を行っていた。

 メディアが利害関係でがんじがらめになっている国と,独立性が高い国とのギャップを感じるよい機会となった。

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教員の「多忙さ」への遠慮がもたらす「多忙さ」

 教員は,どんなに忙しくても,傍から(子どもや親から)「忙しそう」と思われないようにする努力が必要な職業である。

 学校=ブラックという印象によって,「先生は忙しい」という固定観念が定着しつつあるが,「忙しい」と思う暇があり,そういうオーラを発している教員には,子どもも保護者も相談しにくいだろう。

 「忙しいのにすみません」と断って相談を持ちかけるのは通常の社会人の礼儀だろうが,教員の立場からすると,子どもや保護者自身の深刻な悩み事の相談については,遠慮は無用である。

 夜の10時を過ぎて自宅に電話をかけてしまうのはどうかと思うが,「相談するタイミングで悩む」という余計な悩み事を増やしているうちに,問題が深刻化してしまうよりは,早めに相談してもらって,解決への糸口を共に考える時間が増えることの方が大事である。

 警察署や消防署に「今,忙しそうだから,事故が起きたがもう少し待ってから電話しよう」などと思う人はいない。

 素早い情報の共有や初動が大事なのは,教育も同じである。

 教員にとって必要な「本物のゆとり」とは何か。

 教育という仕事ならではの特徴を知っておきたい。

 ブラックになりやすい現場とは,必要な情報がすぐに入ってこない=優先順位がわかっていない人間が多いところである。

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ゼロリスクを求める動きが最大のリスク要因になっている

 「一人も仕事で倒れないようにする」ことを目的にやっている仕事のおかげで,倒れて死んでいく。

 これと似たようなことが起こっている会社はないだろうか。

 「少しでも負担を減らそう」という意気込みはわかるが,その取り組みのために超多忙になり,急激な負担増に見舞われている人はどうすればいいのか。

 ゼロリスクは理想だが,世の中は理想を理想通りに叶えなければならない現実が山ほどある。

 災害対策を例にとるまでもない。

 堤防を何m高くしたからと言って,「絶対に安全」などとは言えないのだ。

 「堤防があるから安心」といって避難しなかった人だけを責めるのは間違いだ。

 リスクを理解させる教育が今,最も求められていると言ってもよい。

 今まで,教育の世界では,ゼロリスクのためならどんな無理も通してしまってきた。

 それが最大のリスク要因になっている。

 いじめを撲滅するための道徳の教科化にしろ,放射線教育にしろ,「やるように仕向けましたので私の仕事は終わり」的な仕事術のどこにどんな問題があるかを認識してほしい。

 障害者雇用の水増しをしていた文科省が,パラリンピックに向けて何をさせようというのか?

 どんな顔をして現場に出てこられるというのか?

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近づきにくい人に近づく方法

 歴史の授業で,第二次世界大戦中,ルーズベルトがスターリンに近づいた方法を紹介した。

 ドイツへの攻撃要請を受けなかったチャーチルを嫌っていたスターリンに,ルーズベルトはある方法を使って「わかり合える仲間」となった。

 その話をしたら,米大統領が北朝鮮最高指導者に近づけたのも,公にはなっていないが,同じ方法をとったのではないか,と生徒がつぶやいていた。

 私はその発言を引き出すためにルーズベルトの戦略を紹介したいわけではないが,直ちに想像できた生徒には「あっぱれ」を出したい気持ちになった。

 本当は仲良くなりたくはない相手なのに,利用価値があるためにコミュニケーションをとりたい場合,好意を直接伝えるのではなく,他の人間(国)への悪意で打ち解け合う,という方法は,道徳の授業では議論ネタとして使えるかもしれない。相手に直接悪口を言っているわけではないので,バレなければ問題ないだろう(ルーズベルトの場合は後世に伝えられてしまったわけだが)という意見が出てくる。しかし,人の悪口で仲良くなるのは,最低だ,という反対意見がでる。別に仲良くなるのが目的ではないから,かまわない,などなど,立場は分かれるだろう。

 実際の教室では,あるいはSNSでは,いつも使われている手法である。

 学校ではすぐにひそひそ話の内容がバレ,「いじめ」案件にカウントされる代表例である。

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「知らない」ことが持っている大きなパワー

 教員に求められる資質能力に際限はない。

 子どもの学力低下が問題になれば,教員の教え方が悪い,となる。

 子ども同士の「いじめ合い」が増えると,人間愛が足りない,となる。

 教員養成系大学の教員の嘆きも深刻である。

 「そんなことまで大学で教えないといけないのか?小中高で何を学んできたのだ?」

 教員研修担当の指導主事や学校管理職の嘆きもある。

 「こんなのでどうして採用試験に合格できたのか?」

 現場教師の嘆きが最も深刻なのは言うまでもないが。

 「指導案も書けないのか」「指導案は書けるのに,授業が成立しない」

 子どもだけではない。

 教員にも,「知らないこと」「できないこと」が少なくない。

 しかし,「知らない」からできない。「能力がない」からできない。と嘆いていても,仕方がない。

 「知らない」「できないこと」をパワーにすればよいだけである。

 小学校の先生方には失礼かもしれないが,中学校で教えているとき,

 子どもが「知らない」「聞いたことがない」「読んだことがない」からこその「わかる」喜びを原動力にしている部分がある。そこで「自分からわかるようにしてしまおう」とする「近道」のありかを探っている。

 関心があるかないかで知識の習得度に大きな違いがあることは言うまでもない。

 私は相撲は大切な国技だと思っているが,18時に本番が終わってしまうようなスポーツはライブで見る機会がないから,関取の名前なども有名人以外はほとんど知らないし,知ろうとも思わない。

 「もっと知りたい」「もっとわかりたい」と思わせるきっかけが教育にあることで,「私にとっての相撲」以上のものが,子どもたちに生まれることを望んでいる。学校では,1日6時間の授業すべてでこれが起こると,放課後の時間がいくらあっても足りなくなってしまうが・・・。

 大学時代の授業を思い出す。私にとってのよい授業とは,もう講義に出ている時間を気にせずに,自分で講師の著書などから学ぶ気持ちにさせてくれた授業のことである。昔は,試験さえ受ければ単位はとれたから,講義の多くは参加していないのに,試験の結果がよくて好成績を取れる仕組みがあった(今はダメだろうが)。

 学校は,すべてを教えてくれるところではないし,すべてができるようになるところでもない。

 教科書に書いてあることは,むしろ,読めばわかるという前提で,教えないように指導する,というスタンスもありだろう。

 昨日の会議で,文科省の人が,「他の教科の内容を,専門ではない別の教科の人が教えなければならない,というのはおかしい」と発言したので,私は次のように返答した。

新しい学習指導要領の趣旨は,教科ごとに学ぶ知識を分けたのではなく,別々の「見方・考え方」があることを教科のアイデンティティとした。ある教科の内容(知識)を他の教科で扱うべきではない,と捉えられかねない発言は誤りである。

 行政の立場で受けやすい質問の答えを,まさか本人が本気で信じているとは思いたくないが・・・

では,◎◎科(教科名が入る)の教員にも,そういう知識が必要で,教えなければならないのですか?(私は嫌です)

 逃げの答えは,「その内容は,○○科で扱うので,大丈夫です」。 

 私のホンネは,

中学校に教える程度の教科の内容は,すべての教員が持っていてもおかしくない。なぜなら,中学校の過程を修了しているのだから。

 しかし高校や大学には,「専門ではない領域の内容は教えるべきではない」という常識がある。専門だというお墨付きがあってはじめて職が得られることが前提になっているので。逆に言うと,大学のセンセイの最大の弱点は,専門ではない人に,自分より高度な知見を教えられてしまうことである。学位をもった人よりも,学位はない予備校の先生の本が売れに売れるという話は,「前提の誤り」を如実に示す事例である。

 「正しい知識」の習得という話になると,議論がやや複雑になる。子ども同士に教え合いをさせて何も感じないようなセンセイには関係ない話だが,「専門ではない人の話は信用しない」という大学の暗黙のルールは,大学の存在意義というか正統性に根付く話だから,仕方がない。ただ教育の世界の場合,「研究者は役に立たない」ことは,現場に立った人間が実務上わかってしまう話だから,教職大学院が研究者だけでは成り立たない場所になるわけである。

 「知らない」「できない」という資源を最大に活用する方法を,教育学者ならもっと研究すべきだろう。

 教育産業はとっくにやっている,という話もあろうが,教育産業の弱みは「合格する」「できるようになる」ことを売りにしなければならないことである。

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都合の悪いことに目を向けさせなくする教育

 我々一般の教師,保護者の立場からすると,自分の研究で改竄,捏造,盗用しているセンセイの教育は受けさせたくない,と思う。「不正が犯せる人間になってしまう」などの悪影響が子どもに及ぶ,と予想するから。

 ただ,広く教育の世界を見ていると,そういう「都合の悪いことには目を向けさせない」という空気は広く存在している。

 こういう方法をとれば,いい教育,少しはましな教育ができると「よいことだけ」書いている本は,たいてい,時間的な効率が悪く,実現性が低い(書いた人は,ものすごく長い時間を費やして,そればかりやっていただけで,本で紹介した内容だけについては効果が示せる)という欠陥を抱えている。本を買って読んだ人も,たいていは,「よい教育ができる方法を知っている」という満足感だけで終わり,実行には移さないでくれているおかげで,子どもたちは救われる。

 今回の学習指導要領では,「何のためにこの教科を学習するの?」という究極の質問への答えを用意した。

 しかし,この答えには,2つの大きな落とし穴があった。

 まずは教科の本質にせまるという「見方・考え方」である。それは,「教科」としての学習をしなければ身に付かないものではないからである。

 また,「教科」としての「見方・考え方」が重視されることが,「教科」の枠を超えた問題を扱うときに,「役に立たなくなる」恐れがあるからだ。

 「教科」の存続というか,存在意義を守りたい人がいる,という「都合の悪い話」が背景にある。

 子どもたちには,「環境に配慮する」とか,「経済性を重視する」とか,「人間の尊厳を守る」とか,社会を生きていく上で身に付けておきたい「見方・考え方」がたくさんあるはずである。どの教科でも使える「見方・考え方」という視点を,もっとはっきり強調すべきだった。

 もう1つは,内容が示されているため,逆に,示されていない内容について,「なぜこのことは学習しないの?」という疑問を生む。道徳で有名になった話だが,教科書検定の段階で,「~はダメ」という検定意見がつくことで,「押しつけたい価値観」が見え見えになってしまった。

 目標が示されていて,それを達成するために教科の学習があるのだから,学習指導要領に示されていない内容でも,いや,むしろ,学習指導要領には示されていない内容の方が,目標が達成しやすいということがあり得ることがわかってしまう。

 実は,今回の学習指導要領は,「ご都合主義」を絵に描いたようなものだった。

 「都合の悪いことは忖度して,目を向けないでくれる」ことが前提になっていた。

 協力者が「だれの何のための協力者なのか」がよくわかるものだったのだ。

 「都合の悪いことには目を向けない」という教育政策は,非常に危険なものである。

 マスコミにも,自身の「都合の悪いこと」がある。たとえばあるスポーツの大会の放映権を獲得としたテレビ局が,そのスポーツの協会が批判されたときに,擁護する側にならなければならないという事情など。

 しかし,マスコミも,体罰(最近,やっとただの「暴力」扱いされることが一般的になった)問題など,暴力行為撲滅や,企業の組織的な不正の撲滅への影響力を発揮し出しているという点では評価できる。

 マスコミには,学習指導要領をつくる上で,「どういう人が排除されたか」を暴き出してほしい。そうすれば,教育政策の本質も見えてくる。

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金で人格を判断するようになる社会の仕組み

 ある大学のセンセイは,謝礼の額が多いところと少ないところを明確に区別して,講演する価値があるのは謝礼が多い方だとし,金を出さない人間たちからの誘いを断っているという。

 また,「ただ働きになる大学の仕事」は嫌だという。

 ギャラが少ない仕事を依頼する人間の人格攻撃も行っている。

 こういう大学のセンセイが生まれてくるのはなぜだろうか。

 国立大学が法人化されて,運営交付金が削られてくると,学長は「金儲け」に奔走するようになる。

 「儲け話」で目が血走っている学長を私は目の前で見て,「尊敬されない人」の痛々しさと,強い憤りを感じていた。「自分の金儲けのために奔走している大学のセンセイ」とも重なってくる。

 人件費を大幅に削減した後ならわからなくもないが,金儲けをしたい大学のトップと,自分で自分のために本業を利用して金儲けをしている職員を見ていると,「終わりの始まり」を感じてしまう。

 一方で,「卒業生だから」という理由で,「相場」の10分の1でも講演を引き受けてくれる「人気者」もいる。

 社会はどういう人によって支えられているかがよくわかる話である。

 繰り返し書いているが,特に教育に関する話題の場合,優れた教育内容や教育方法に関する業績は,だれでも参考にできるようにわかりやすい形で公開すべきである。生きていくのに必要な報酬を勤め先からきちんと得ているのであれば。収入の少ない人の「兼業」は本業に支障のない限りどんどん認めていくべきだが,一定の収入がある人は「兼業」ではなく「ボランティア」を行おうとする精神を養える国にしていかなければならない。

 ある大学のセンセイを講師に招いた公立学校の先生が,「こいつ,絶対に子ども相手の教育は無理だな」という感想をもらしていた。ガクシャは現場で働いている人=社会に役に立ててナンボの仕事であるということだ。

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日本に安全な場所はあるか?

 今日の地震の震源地を見て,急いで確認したいことがあった。

 泊原発は電源喪失していないか。

 「高レベル放射性廃棄物」を安定した岩盤に埋設する(=地層処分する)ために,危険な科学的特性があるとは判断できない場所で地震が起こっていないか。

 泊原発の方は,朝日新聞デジタルの情報によれば,外部電源は喪失したが,非常用ディーゼル発電機によって,燃料プールにある使用済み核燃料の冷却は継続されているとのこと。ディーゼル発電機の燃料は,少なくとも7日分は確保されているそうだ。これで一安心。

 次に,確か地震があった場所は,火山もなく,「危険な場所ではない」という記憶があったので確かめてみたら,下の図のようだった。

Ws000016
Ws014
Ws000125

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博士号をとるまでは結婚してはいけない

 ある女子大の近くを歩いていたら,たまたまタイトルの言葉が耳に入ってきた。

 「え~そんなことあるの?」と一緒に歩いていた女性が聞き返している。

 今時,立派な職について,立派な社会人になってから所帯をもとう,と言えない時代になってきているが,もしこういう話が特定の女子大のルール(というか,しきたり?)だったとしたら,まずいだろう,と感じた。

 家庭と博士号をとるための研究が両立できるわけがない!と主張される方がいるかもしれないが,

 博士号が取れたと思ったら,結婚できる相手がいなくなっていた,という人生も哀れなものだろう。

 「私は研究に人生を捧げる」という人がいるのはもちろん構わないが,様々なレベルのある大学で,大量の博士が生まれているこの時代に,「結婚不可」という条件は重すぎる気がする。

 私はあまり女性の研究者の知り合いはいないが,かなり高齢で出産されて方を知っている。

 大変さはいろいろな意味で理解しているつもりである。

 今後,「多くの人たちが結婚し,子どもをつくる」ことが奨励される時期が来るかもしれない。

 そういうときに,「今までとても結婚しにくかった人,子どもがつくりにくかった人」への支援も忘れてはならないと思う。

 これからも様々な場所から「ハラスメント」の実態が明らかにされてくるだろう。

 「いじめ」と同じように,ただ声をかけた(またはかけなかった)だけで「ハラスメント」と言われる時代になることをとても恐れてもいる。

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「感動ビジネス」「感動の押し売り」への批判

 「決まったパターンの感動もの」が好きな人がいる一方で,「やらせ」「プログラム」にすぎない「感動もの」を毛嫌いする人もいる。

 優勝チームがほとんど無視される報道は,「感動の対象になるもの」と「そうではないもの」の線引きをあまりにも綺麗に分けていて嫌だ,という人もいる。

 別に鑑賞することも感動することも押しつけられているわけではないTV番組を批判する意味はないという考え方もあろうが,教師の立場からすると,学校教育全体が「プログラムされた感動もの」であるため,やや肩身の狭い思いをしなければならない。

 卒業式でやたらと歌を歌わせるのが好きな人がいる。

 卒業式後に,さっさと親のもとに返せばいいのに,長々と生徒との別れを惜しむのが好きな人もいる。

 人生のそれなりの「区切り」となる儀式と最後に別れるまでの過ごし方は,学校によってそれほど大きな差異はないのではないか。

 教師を神輿に担いで「仰げば尊し」をやる極端に「道徳的」な別れを見るとちょっと引いてしまうが,学校で長く踏襲されてきたことを潰すのは,よほどの「空気読まない派」でないと難しい。

 私の場合は,見苦しい姿を最後に見られて終わるのが嫌なので,主役級の子どもやちょっと目立たなかったけどコツコツ頑張ってきた子どもに花を持たせて終わりにしたい。

 子どもに気を遣わせることを仕事にしている人たちは,ちょっと寂しい人たちなのではないか。

 「感動ビジネス」の供給側は,視聴率で評価が決まってしまう,実は非常に苦悩に満ちた「感動できない」人たちなのではないか,と想像してもらうことで,少しは私も気が楽になる。

 心を「感動用コンテンツ」で操られる人間が増えることを危惧する神経も,もちろん大事である。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より