「大局」を語れる器
「大局」を語ることができる人間になりたい,と思う人は,どのくらいいるだろう。
どのように身に付いていくのかよくわからないのだが,日本には,美徳とされている行動原理があり,たとえば,プロ野球の采配に難癖をつける酔っ払いに真面目に反論する人はいない。ちょっと意地悪で,本当に監督としてベンチに座ってみて困っている姿を見てみたい,と思う人はいるかもしれないが。
「尊大な人間だと思われないように謙虚に生きていく」という方法が,「消極的だ」とか,「競争に勝てない」などという理由でけなされるような社会になれば,むしろ逆に,「徳」の「美」が際立つことになるだろう。
「大局」を語る資格を偉そうに問うことはできないが,あえて考えてみればどうなるだろうか。
もしその資格があるとしたら,「お前の考えは間違っている」という批判から逃げない覚悟をもっていることだろう。
寛容の精神というは,精神の自由,思想の自由,表現の自由を確保するために必要な美徳だということはわかるが,自己暗示にかかって「現実逃避」で生きている人間,呪文に引っかかって「現実」を見失っている人間たちが語っていることは,放置しておいてよいものだろうか。
教育という仕事がなぜ必要かという問題にかかわってくる内容だと思われる。
教育という仕事をする上では,「器の小さい人間」が放置できない気持ちが備わっているかどうかが大事だと痛感する。
放っておけない人間の「器」が小さい,と言われるのなら,「器」の小さい人間こそ教師に向いていると言いたい。
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