良識のある先生方にとっては当たり前の話なのですが,高校籍とか学校現場での経験に乏しい教育関係の中の一部のセンセイにしてみれば,学力の高い子どもを使うことは,「資源の有効利用」くらいにしか思えないようなので,少しだけ書いておこうと思います。
日本の学校教育の最大の特徴の一つに,「障がいをもっていたりするために,達成度が低くても,出席率がごくわずかでも,進級・卒業をほぼ無条件に許可する」ことがあります。これについて,まともに反対している人に私は会ったことはありません。
「すべての児童生徒の能力を最大限引き上げよう」というのが学校教育の目標になっているので,要は目標は達成できなくても,「そういう気持ちで実践していればよい」などという,いい加減な態度が許される社会でもあるということです。しかし,結果責任が問われないことが,問題なのでしょうか。
成果主義の導入など,社会が少しずつ変化している中で,学力テストの結果が悪いセンセイは昇給させないとか,恐ろしい構想も登場してきているので,油断はできない状況です。
こういう流れの中で,「すべての子どもの資質能力を向上させるための具体的な方法」が提起されてきており,昔からあった「グループ学習」をさらに進めた形態も実践されてきています。そこでは,「できる子にできない子を教えさせる」手法がとられており,「教えた方がより理解力が高まる」という理屈から,どう考えても「格差が拡大する」ことは明らかですが,「一斉学習よりはましな方法」として評価する人もいます。
私は,「能力差を露骨に示す方法」という点に,どうしてもひっかかりを感じます。
学力の高い子どもが,自分より学力が低い子どものために活躍する姿は,そもそも教師と子どもとの関係の相似形ですから,学校現場からなくすべき姿というものではありません。しかし,学力の高い子どもに教えてもらって「理解」できたり「技能」が身に付けられたりすればそれでよいかというと,そんなことはありません。むしろ,学力の低い子どもが,高い子どもに対して自分の意見をしっかりと表明でき,それをしっかりと受け止められている実感をもった上で,適切な助言を得られる経験の方がはるかに大事です。しかし,教科の学習で実践することは至難の業です。
だから日本の学校教育では,特別活動や部活動で学力差にかかわらずに「活動」できる場を大切にしてきたのです。
義務教育における教科学習では,できる子どもも,できにくい子どもも,同じ条件で学べる環境の方が,大事です。おかげさまでというべきか,海外ではそれを実証してくれる研究が発表されているようです。
学力の高い子どもに頼り切ったグループ活動では,学力の高い子どもだけが知識や技能を定着させて終わり,残念ながら,「深い学び」ができずに終わります。
文科省が言っているレベルの「深い学び」は,決して「深く」はありません。だれもができる「深い学び」を想定しています。それを保証するのは,必ずしも「対話的な学び」とは限りません。大事なのは,「主体的な学び」の方です。授業で一生懸命他の人から説明を受けている姿の,どこが「主体的な学び」でしょうか。教えている方も,「主体的な学び」になっているでしょうか。
一斉授業と呼ばれる最も一般的な授業形態では,様々な生徒の反応を通して,問いかけや活動の内容の変更が自由自在に行えます。グループ活動が始まってしまうと,実際にやったことがある人ならわかると思いますが,活動途中での軌道修正は困難です。
「異なる考え」に接することができてはじめて「対話的な学び」が成立しますが,そもそも同質性が高く,同調圧力が高い日本社会では,「異なる考え」が存在しにくいという特徴があることも忘れてはなりません。
1+1+1+1=1というアクティブ・ラーニングもどきを見たことがありますか?




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