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2018年8月

部活動の追い風と向かい風

 国内やアジア,世界大会でのスポーツ選手の活躍は,子どもたちに大きな夢を与えてくれる。

 自らのスポーツ活動への大きな励みになってくれている。

 これが「追い風」である。

 しかし,今は強力な「向かい風」も吹いている。

 「働き方改革路線」「やる気のない教員」「練習日制限」の話ではなく, 

 「協会関係者」「指導者」のあり方に関する問題である。

 私の関係していたスポーツは,やたらと大きな金額の「上納」が求められており,その使いみちが不透明であることが大きな課題だった。今では改善されているのだろうが。

 「どういう人間が,アマチュアスポーツの競技の主導権を握っているか」ということは,今まで関心というか興味の対象外だった。

 しかし,いくつかのスポーツでほぼ同時に「アスリートファースト」ではない世界を知らされると,どうしても人間の汚い方の「欲」が垣間見えて,スポーツの爽快感を完全に打ち消してくれている。

 「オレ(ワタシ)が金メダルを取らせた」とふんぞり返る人は協会レベルにはいないだろうが,

 中学校レベルだと,そういう指導者がそれなりに存在する。

 教育現場では,それは「向かい風」だった。

 小学校では,実践を本にして出すことが一部で流行っているが,あれと同じである。

 日本では「穢れなく上に立つリーダー」が現れにくいのだろうか。日本以外でも同じなのだろうか。

 地区大会の1回戦も勝てないようなチームにも,「夢」を描いている子どもたちがいる。

 「穢れなき夢」を抱かせること自体が,有害なのだろうか。

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日曜日の河川敷

 日曜日の猛暑の昼の時間,河川敷の近くにある大きな図書館に予約図書を取りに行った。

 受け取り場所の指定を間違えてしまったため,直接取りに行く必要があった。

 河川敷では,強い日差しが照りつけるもとで,大人から子ども(小学生)まで,すべての面が使用されていた。

 女子野球も徐々に広がっているのか,野球チームで活躍する女子の人数が増えている気がした。

 学校なら,「活動停止」を決定するレベルの暑さだった(河川敷には,日陰もないのが特徴的)。

 それでも水分補給をしたり,大きめのパラソルを広げたりして,みんな頑張っていた。

 学校が管理する部活動以外にも,地域によっては多くの大人たちがサポートしているスポーツ団体がいくつかある。大会やリーグ戦も実施できる規模である。

 生涯スポーツが実施されている現場を見て,自分も草野球をしていた10年前までを思い出す。

 私が日曜日に部活動の練習試合を入れなかったのは,自分が草野球をするためである。

 50歳のときにスポーツで大きな怪我をして(その前の何年間かもほとんど運動はできていなかった),「もう終わり」と考えていたし,河川敷まで自転車をこぐ体力にも陰りが見えている状態で悲しくもあったが,まだ野球も指導の方はできる歳であることは確かである。

 学校の教員になりたい人がすごく少なくなってしまっている現実もあるが,どういう人に先生になってもらいたいか,子どもたちの姿を見ていると非常によくわかる。

 健康や体力増進の議論をしている人の中には,おそらくスポーツの世界に身を置いた経験がないままで「危険性」の話しかしない人が多いと思われる。

 「危険性」がないものは,スポーツに限らず,この世界にはないことがわかりつつも,自分が責任を負っている場で事故を起こしたくない人ばかりになれば,いずれスポーツができる場はどこにもなくなってしまう。学校の部活動は,現場の教師の力で残していくしかない。

 まずは,教員が学校で体を動かし健康増進が図れる機会を増やすことが大切か。

 これが対抗試合とか教員の大会までエスカレートすると,一部の「本物」たちだけの楽しみになってしまう。

 子どもに見せたい理想的な大人の姿を考えてみたい。

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「大局」を語れる器

 「大局」を語ることができる人間になりたい,と思う人は,どのくらいいるだろう。

 どのように身に付いていくのかよくわからないのだが,日本には,美徳とされている行動原理があり,たとえば,プロ野球の采配に難癖をつける酔っ払いに真面目に反論する人はいない。ちょっと意地悪で,本当に監督としてベンチに座ってみて困っている姿を見てみたい,と思う人はいるかもしれないが。

 「尊大な人間だと思われないように謙虚に生きていく」という方法が,「消極的だ」とか,「競争に勝てない」などという理由でけなされるような社会になれば,むしろ逆に,「徳」の「美」が際立つことになるだろう。

 「大局」を語る資格を偉そうに問うことはできないが,あえて考えてみればどうなるだろうか。

 もしその資格があるとしたら,「お前の考えは間違っている」という批判から逃げない覚悟をもっていることだろう。

 寛容の精神というは,精神の自由,思想の自由,表現の自由を確保するために必要な美徳だということはわかるが,自己暗示にかかって「現実逃避」で生きている人間,呪文に引っかかって「現実」を見失っている人間たちが語っていることは,放置しておいてよいものだろうか。

 教育という仕事がなぜ必要かという問題にかかわってくる内容だと思われる。

 教育という仕事をする上では,「器の小さい人間」が放置できない気持ちが備わっているかどうかが大事だと痛感する。

 放っておけない人間の「器」が小さい,と言われるのなら,「器」の小さい人間こそ教師に向いていると言いたい。

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センカクの14億円とカナノウの2億円

 金足農業高校旋風が吹き荒れた甲子園だった。

 横浜高校戦と近江高校戦での大逆転劇が,多額の寄付金が集まるきっかけだったのだろう。
 
 他の高校は,どのくらいの寄付で今回の甲子園出場が可能になっているのだろうか。

 また,もし地味な勝ち方が続いて,決勝まで宿泊するお金がなくなってしまったら,どうするのだろう。

 千葉県の先生にそのあたりの事情をお聞きしたことがあるが,確かに全国大会優勝を目指している部活動は野球部だけとは限らないのだが,いかに「高校野球」が別次元の世界であるかがよくわかった。

 私は,「ブラック」という言い方をして企業や学校を批判する人が,もし本気で高校野球を応援しているとしたら,ちょっと待てよ,と言いたい。

 企業や学校における長時間労働が問題だという人は,高校野球などすぐに廃止せよと高野連や朝日新聞社に直訴すべきだろう。

 「部活動がブラックだ」と嘆く教師が最も困るのが,目標が高い高校生や個人には,「ブラック」などという概念はないことである。

 「お前には用はない」で終わってしまう。

 あれだけ熱狂的に球児を応援してしまう人がたくさんいる社会を問題視する勇気は大変なことだろうが,高いハードルを課せられるのが負担な人は,「負担感のない世界を」という要望をとにかく訴え続けるしかない。何百球も短期間で投げさせるようなとんでもない酷使をやめさせろ,という意思表明し続けてもらうのは自由である。

 「選ばれる人」「たった1校しかもらえない優勝旗を手にする人」になりたいと強く願う気持ちに水を差すことには勇気がいるだろうが,指をくわえて見ているだけでは社会は変わらない。

 カナノウに集まった2億円という金額が,県立高校にとってどのくらいの規模のものかはわかりにくい。

 甲子園出場を目指す学校の中には,それくらいのコストをかけて,いい選手を集めているところがありそうな気もする。実際に,部員全員とその家族がかけている資金の合計がとんでもなく額になっているという学校もあるだろう。高校野球の強豪校が「遠征」にかけている費用を聞いたら,素人の人は腰を抜かすだろう。何しろ,プロのように「1軍」「2軍」「3軍」が別の場所に「遠征」している高校もあるのだ。

 尖閣諸島の国有化にかけた税金は20億円。

 もう数年前だが,これによる経済損失がどれくらいあったかは知らない。

 それより,東京都が買い取る目的で集めた寄付金が,今も宙に浮いていることがわかった。

 その額は14億円。ずっと塩漬け状態にあるという。

 もう少し血のめぐりをよくした方がいいのでは。

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他人を騙そうとしている人と,自己暗示にかかって他人を騙しているつもりはなく,騙している人と,どちらが問題か

 騙すつもりはなかった,と後で弁解しても手遅れだ,という問題がありますから,「騙した」という結果については,同じように悪いことなのですが,恐らく,意図的かそうでないかは,罪の重さを比較する上では参考になってしまうことでしょう。

 一般的に考えて,「わざと騙した」方が悪い印象があります。悪意というか,人の善意につけこむという「悪事」が加わっているので。

 しかし,やはり被害を受けた側からすると,同じような「罪」です。

 「教育」などという営みは,「騙すつもりがないのに,人を騙してしまう,ということが起こらないようにする」「悪意はないのに,人に害を与えてしまうことがないようにすること」が狙いとなっていると考えられます。

 よく,道徳教育を「悪意を持たないようにさせる教育」と勘違いしている人がいますが,一度真面目に教育現場で働いてみたり,親になって子どもを育ててみると,「悪意をもたない生き方」がいかに難しいかがわかるでしょう。特に,罪を犯した人間に対する「悪意」というのは,実際に自分や家族が被害者であるならなおさら,隠しきれないものになるはずです。

 教育の世界には,残念ながらと言うべきか,「研究」=「独創的なもの」(だから税金を出してあげる気になる)という成果をより出にくくさせる固定観念があるために,研究者の側も,自分が嘘つきであることを知りながら(平気で改竄・捏造をする人もいますが)税金で食べていくことには引け目を感じるので,「自分は正しい」ことを自分に信じ込ませるような自己暗示をかけ続け,やがて,「騙すつもりはなかった悪者」になっていくのです。教育は,子どもの将来に大きな影響を与えるので,被害は「想定することのできない規模」になっていきます。

 未来はこうなるだろうと予想するのは自由です。

 ある人の予想を信頼して,その主張を採用するのも自由ですが,「鵜呑み」にならないよう,全く別の主張にも耳を傾ける態度が大事でしょう。そこに「議論」「討論」することの意味も生まれてきます。

 「議論」「討論」は時間の無駄,というタイプの人が理系には多くないですか?

 こういうタイプへの投資が,いかに危険かということがわからないように煙幕がはられている日本の弱点は,「議論」「討論」が苦手なことです。

 道徳の時間なんて,本当にムダ以外の何物でもない。そんな時間を過ごしても,絶対にいじめはなくならない,と主張する人が,どれだけ道徳教育に熱心かを実証するデータはすぐに得られるはずです。しかし,それを実証してくれる研究者はいません。なぜなら,自分が必要なくなる証明になってしまうから。そうやって,国民を騙す側にまわる人もいます。

 道徳教育で大学の職を手に入れた若い研究者の本を読みました。

 ご就職おめでとうございます。

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アジア大会で日本が見せるべきもの

 アジア大会では3回連続の「不祥事」が続いている。

 世界大会ではない,ローカルな世界で,日本のトップ選手の「気の緩み」による問題が続発している状況である。

 スポーツの世界では,「ただ強いだけ」の国やチームは尊敬されないことは,よい素材を寄せ集めている高校野球のチームを見ていればよくわかる。

 アスリートにとって,たとえばオリンピック出場を狙っている選手にとって,たとえば卓球の世界では,インドではなくチェコで行われる大会を優先する態度は理解できなくもない。

 「こんなところに来て優勝しても,意味はない」と思う人がいるような大会は寂しいものである。

 そもそも世界レベルではないスポーツの選手が起こした問題の場合,あまり注目もされず,バッシングも弱いかもしれない。しかしN大の二の舞にはならない,という大号令のもと,徹底した「批判防止方針」は,どの組織でも徹底されてきたようで,スムーズな「謝罪会見」が増えてきている。こんな「会見」が得意になっても仕方がない。

 スポーツで活躍している人たちに対しては,「それくらいの息抜きはよいだろう」という空気があることも確かだろう。

 昔は,「高校野球のわずかな部員がタバコを吸ったくらいで,出場停止は重すぎる」という声もあった。

 日本はまだ「内向き」というか,「内輪の世界」「マイルール」の論理が通りやすい「自由」な国なのかもしれない。

 そういう「自由さ」をアジア諸国はどのように解釈するだろうか。

 「道徳観」というと,かなり安っぽく感じる。

 相撲界で行われた「研修」も,あくびをこらえて座っているだけでは意味がない。

 「倫理観」という言葉の方がしっくりくる人が増えるのはよいかもしれない。

 西洋哲学重視の「倫理」ではない,新しい教科「倫理」の創設でも考えてみたらどうだろうか。

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「不同意することに同意する」余地は,教育現場にはない

 抽象的な道徳的議論の場合・・・もっと広く言えば,学術全般の世界の場合,「不同意することに同意する」余地がある。だから,私が特に公開の場で選んで実践しているような,だれも受けたことがないような授業も,「研究のため」「議論のため」という理由では許される。しかし,一般の教育現場では,そんな余地は一切ない。

 ところが,教師の指導力不足と子どもの「自由さ」が災いして,どうしようもなくなっている現場はたくさん存在する。

 常勤の教員が病休になり,非常勤の教員で落ち着いている学級などはいくらでもある。

 こういう学校や学級には,議論や研究の余地もなく,とにかく「授業」「学習」が成立しているように見えさえすれば,何でもあり,という空気がある。

 私が二校目に勤務した学校では,教員の欠勤が非常に多く,空いた授業のコマは他の教師が肩代わりせず,とにかく空き教室に入れて映画を見させて過ごさせる,という習慣があった。私は今でも,校費で購入したらしい映画のディスクを得意げに紹介してくれた教師の表情が忘れられない。「自習」が成立しないから,映画を見せて時間をつぶしている中学校が,この世に存在したのである。唖然とした。教育目的ではないから,明らかな著作権法違反である。私が異動して,本当に「自習」を課したとき,そこそこ成績のよい,学級委員レベルの生徒から苦情を申し立てられたことにも驚いた。

 こういう中学校だから,授業研究や実験的な授業がまともにできたのだ,と今では本当に感謝している。

 「子どもが授業に飢えている」ことを知った実感が,今でも私の実践の原動力になっている。

 「授業」や「学習」は,課題を与えられた子どもたちが自力で行うもの=ほとんど自習ですませられるものではない。学習指導要領の総則を無視しなければ,どのような授業を教師が実践すべきであるかは,自ずと見えてくる。

 同じ言葉を言い続けて,あるいは聞き続けて,自己暗示に陥り,正しい判断が下せなくなるプロセスを,日本人はいくつかの事例で知っている。

 自己暗示に陥り,本当の教育の姿を知らないまま現場に立っている人が少しでも減ってくれればと願っている。

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感情と理性を別物と考える感性

 理性的に怒ることと,感情的に怒ることは別物である・・・目に見えて分かる,文字を読んで分かる表面的な現象だけで判断してしまうと,そういうことになります。

 しかし,人間の思考が純粋に感情的なだけであること,理性的なだけであるということはないでしょう。

 相手が感情を押し殺して理性で勝負しようとしている,と見えるかどうかは,人間への感性があれば分かるはずです。

 感情を押し殺さずに,それを前面に出して・・・感情的に怒りを表している人に,理性はないのでしょうか。

 違いますね。理性があるからこそ感情を表に出して怒ることもあるのです。

 感情と理性が全く反対で別々のものであり,冷静でないように見える人に理性がない,感情の力しかない,と判断すると,大きな過ちを犯すこともあります。

 理性ではどうにもならないから,感情的になってしまい,失敗してしまうことももちろんあります。

 「そんな感情的な伝え方では,相手には伝わらない」と批判されようが,相手が恐らく「伝わらない人」であることの怒りも含めてでしょうが,少なくとも,「お前は許せない」という感情を抱いていることを相手に伝えたいときがあります。

 「アスペルガー」と呼ばれる人の一部は,「相手が怒っていること」「相手が怒っている理由」がわからないように見えるので,ますます怒りの感情が高まるという悪循環が起こります。たまに憤りを表現すると,「お前が言うか!」と周囲から呆れられ,やがて全く相手にされなくなり,無視されるようになるか,対立が深まるという悲劇が待っています。

 子どもの有能性を信じてそれに頼る傾向のある教師の一部が見ているのは,本来,子どもが一人でもやっていける能力だけです。だから,「やがて何とかなるだろう」と言っているうちに,不登校になったり,精神的に不安定になって家庭でも問題を起こすようになったり,そのために家庭からの信頼・信用を失ったりと,ろくでもない事態ばかりが起こって,結局,他の教師たちがフォローすることになります。

 「できてほしいこと」,「やがてできるようになること」,「できるはずのこと」と「できること」の区別ができない教師が,子どもの有能性を過大評価し,能力向上の可能性を閉ざしている現実があることを忘れてはなりません。

 先人の教育の成果を無視し,「それとは別物」の「教師らしい信念」が独善的になることで,いかに子どもが犠牲になっているか。教師の独善性,机上の空論が手に取るようにわかる実践が目の前にあります。

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300社でも2割そこそこの国と全部で100社もない国

 アメリカの新聞300社が一斉にトランプ大統領への抗議を社説で掲載したという。

 そんなに新聞社があったのかと思ったら,全米では1300社くらいあるそうだ。

 日本の新聞・通信社数は,2012年以降,100社を割って現在は98社。

 アメリカでは「民主主義の危機」という言葉が踊っているが,

 日本にはそもそも「民主主義」は根付いているのだろうか?

 日本に「民主主義の危機」などと言える資格があるだろうか?

 行方不明の子どもを見つけた男性にダーッと群がって同じ質問の答えを幾度となくさせるのが日本の報道体質だから,「独自の主張で売っていく新聞社」は生き残れるかどうか心配である。

 日露戦争のとき,売上が落ちたため反戦論から開戦論に社論を変えた新聞社から抜けた内村鑑三らが,今の新聞を読んだら,どんな感想を持つだろう。

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失敗原因を意図的に伝えないという選択肢

 今月参加した研究大会や学会で,珍しい場面に出会った。

 的を射た厳しい指摘を発表者にした講師や助言者がいたことである。

 場が凍るような指摘ができる人が,まだ存在できる場所があったことが嬉しい。

 人の成長のために,ダメなところをはっきりとダメと伝えることは,

 最近の教育界ではタブーとされてきているような気がする。

 せっかく発表したのに欠点を指摘されるなんて・・・

 と尻込みするような人が増えているからだろう。

 もはや,「せっかく大勢に聞いてもらえる機会なのだから,しっかり批判を受けて成長しよう」

 というアドバイスが「パワハラ扱い」されかねないご時世である。

 もう研究とは名ばかり,学会とは偏った世界の仲間内の同窓会にすぎない時代になったと思ったが,捨てたものではないと感じた。

 しかし,いずれ,失敗を失敗と指摘できる人はいなくなるだろう。

 それは,力のない人にとっては「楽ちん」だから。

 しかし,指導したい欲求に駆られる人にとっては,「苦行」である。

 失敗原因を意図的に伝えず,本人にしっかり気づかせる力こそ,本物の指導力という。

 「気づかせる力」とは単純な技術ではできないから,そういう指導力は伝えにくい。

 教育の世界が前に進まない理由がよくわかる。

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縄文女子と飯盛山のさざえ堂

 飯盛山と言えば白虎隊・・・だったのが,今では「さざえ堂」の方だけを知っている,という人が多いかもしれない。

 六角形でらせん状の廊下がある通称「さざえ堂」は,18世紀末に建設されたものだが,新聞やTV等で最近紹介されたことで,これを目当てに飯盛山に向かう人が増えているようだ。

 「歴女」という言葉が登場してから,最近では「刀女子」などのバリエーションが増え,「土偶」に魅せられる「縄文女子」という呼び方も出来たようだ。

 東京国立博物館で開催中の特別展『縄文―1万年の美の鼓動』も女性に人気らしい。

 ある専門家は,「そもそも土偶は女性をかたどったものが多い」と解説をしてくれているが,「土偶に刻まれている妊娠線」というリアルな注目点を指摘されると,そういう教え方をしてこなかったことに少々後悔の念が生まれる。

 ブームというものは,何をきっかけに広がっていくか,なかなか予測できない。

 今までも「縄文展」はあちこちで開催されてきたはずであるが,「土偶に魅せられる人」がクローズアップされたことはなかったように思われる。
 
 次のブームを探し出す,または,次のブームを創り出すことに躍起になっている人もいるのだろうが,さざえ堂も土偶も,ただのブームでもてはやされただけではもったいない。

 「なぜ」「どうして」という疑問がしっかり引き出せるネタは歴史の場合,とても多く全国各地に転がっているはずであるから,「ブラタモリ」の「歴史版」が生まれてくることを期待している。

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飯盛山に残るドイツとイタリアからの贈り物

 福島県会津若松市の飯盛山と言えば,白虎隊の若者たちが自刃した場所として有名である。

 甲子園で熱戦を繰り広げている高校球児と,命を絶つ決意を固めることができた同年代の少年たちの姿に「重なるもの」があるのを感じるのは私だけだろうか。

 今でも墓を訪れる人が多い。階段の横に動く歩道(大人250円)が設置されていて,高齢者でも山の上に上がることができる。

 墓のある場所には,日本のものではないことが明らかな碑がある。

 ナチスドイツやムッソリーニが白虎隊を讃えた証だと聞くと,ちょっと引いてしまうようなものだろう。

 戦後すぐにGHQが碑文を削ったりもしたそうだが,完全撤去には至らず,今日まで残されている。

 さすがに白虎隊の話を紹介している道徳の教科書はないだろうが,白虎隊の最期を伝えた飯沼貞吉だけでなく,遺体を弔った人々,会津藩で犠牲になった女性たちを霊を慰めるための碑をつくった山川健次郎(飯沼貞吉のいとこで,東京帝国大学総長などをつとめた)などの話を福島県の子どもたち(あるいは会津地方の子どもたち)は知っていることだろう。

 碑には,新政府軍が「西軍」と表記されているものがある。

 「西軍」によって再統一されてできたのが明治新国家である,という歴史のイメージを今でも持っている人がいるだろうか。

 また,白虎隊の精神を学んで戦死していったドイツやイタリアの若者はいたのだろうか。

 少々複雑な気持ちにさせられる話である。

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小学校英語教育の最大の欠点

 理想と現実の開きが大きいものの一つに,日本人の英語能力があります。

 勉強してもそれを実際に使う機会がほとんどない人が非常に多い英語は,小学校教員にとっても,「苦痛」「働き方改悪」の象徴のようなものだと思います。

 私が考える最大の欠点は,「英語に対して苦手意識を持っている人が授業=指導と評価をすること」です。

 実は「苦手な人ほど教えるのは上手」という,証明できるデータが一切ないことを根拠に小学校の英語教育を推奨している人もいるようですが,多くの保護者はすでに子どもたちを「英語の塾」「英会話の塾」に通わせ始めています。「教育のプロ」「実務のプロ」に任せたい,という欲求は,当たり前のものですし,実際に「成果」は目に見えて出てきますから,今後,こういう動きに拍車がかかってくることでしょう。

 英語は中学校に上がる段階で非常に大きな差がついてしまう教科になってしまいます。

 教師が「苦手意識」をもっているものに「道徳」があります(自分自身にとっての課題でもあるという自覚をしているまともな人ほど,苦手意識をもつものです)が,「成績」を出さなければならないものではないので,嫌な時間ではあっても,テストがない分,負担感が重いわけでもありません。「道徳」の塾に通わせる保護者もいません(柔道や剣道などを「道徳教育」の一環で習わせている人もいるかもしれませんが)。

 小学校教員には,「算数が苦手」「社会が苦手」といった人も,たくさんいます。

 自分自身の内容理解が浅いために,「学習方法」の研究に頼る傾向にあるのは昔からでしょうが,「英語」のような「技能教科」は,方法と内容が一体化しているので,誤魔化しようがありません。

 高学年の教科担任制など,小学校教育のより望ましい体制への移行を促す犠牲としてくらいしか機能しないように思われる英語教育。いよいよ始まります。

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真昼の電気は余り出した

 猛暑が続くが,電力が足りないという危機感は伝えられていない。

 日本経済新聞の記事によれば,太陽光発電がそれなりの存在感を示してきているようだ。

 真昼より,太陽光発電の出力が下がる夕方の電気が足りない状況が解説されている。

 今月初めに訪れた福岡では,太陽光発電で昼に余った電気を使い,揚水発電でくみ上げるために使っているらしい。通常,揚水発電は夜の余った電気を利用するものだが,昼の電気も使われていることを知って驚いた。

 再生可能エネルギーの利用が徐々に増えることにより,電力事情も変化してきている。

 多くの方は,「再生可能エネルギー賦課金」が急に値上がりしていることをご存じないかもしれないが,家計を直撃する課題でもあり,エネルギー事情や国のエネルギー政策には,注意を払っておくべきだろう。

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にほんのちぶが噴出した大学

 日本の大学のスポーツにおける恥部が噴出している大学がある。

 アマチュアスポーツ界での「有力者」「世界のカリスマ」も客員教授だったことには驚いた。

 よく「膿を出しきる」という言い方がされる場合があるが,問題とは無関係な人がほとんどである組織においては,気がついたときにまた問題がわき起こり,また忘れたことに出てくるという繰り返しが続くだけだろう。

 恥部は普通,隠すものだが,「見ないでおいてくれる」という安心感の行き着く先は,「裸の王様」であることがわかった。

 さて,恥部を抱えているのは,1つの大学に限った話ではない。

 今日,参加した学会が開かれた大学ではパワハラで有名になったし,

 すでに入試問題のミスでは頂点に近い国立大学ですら「危うい」ことがわかっている。

 スポーツ界に限ってみても,「頂点に立ちたい」と強く願い,それなりの実力がある人たちが集まるところでは,関係者以外から見れば,「パワハラ」以外の何物でもないような指導が行われるのは日常茶飯事だろう。

 部外者から見て「いじめ」だが,本人は直接的な「心の苦痛」を感じていなければ「いじめ」とは認定されない。

 それと同じようなことがスポーツ界では繰り返される。

 人格を否定されるような声をかけられるうちが,まだ見込みがあった,などという世界もさみしい。

 期待されない人だけがパワハラやセクハラを受けないですむような世界をどう変えたらよいか。

 「指導者」の資質能力が問われる時代になっている。

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「女子は要らない」という「ホンネ」はもう封じられない

 男女別の受験倍率があらゆる選抜機会をもつところで公表されると,

 「すぐにバレるところ」

 「怪しいとマークされるところ」

 「かろうじて隠せそうなところ」

 「疑いをかけられないところ」

 などにレベルが分けられてくると思われる。

 レベルが高い所に位置しているのは,医学部の倍率である。

 あのN大は,男子20倍弱に対し,女子は40倍以上であるという。

 都道府県の教員採用試験についてはどうだろう。

 医学部の試験については,2次試験や面接で点数を大幅に操作できるそうだが,同じような仕組みをフルに活用しているところも多いだろう。

 「女子は要らない」事情と採用の事情を知っている人は,決して少なくない。

 これから「告発」も相次いで起こってくるだろう。

 来年度の入試・採用の結果が多くを物語ることになる。

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なぜ学力の高い子どもに頼り切った「グループ活動」ではダメなのか

 良識のある先生方にとっては当たり前の話なのですが,高校籍とか学校現場での経験に乏しい教育関係の中の一部のセンセイにしてみれば,学力の高い子どもを使うことは,「資源の有効利用」くらいにしか思えないようなので,少しだけ書いておこうと思います。

 日本の学校教育の最大の特徴の一つに,「障がいをもっていたりするために,達成度が低くても,出席率がごくわずかでも,進級・卒業をほぼ無条件に許可する」ことがあります。これについて,まともに反対している人に私は会ったことはありません。

 「すべての児童生徒の能力を最大限引き上げよう」というのが学校教育の目標になっているので,要は目標は達成できなくても,「そういう気持ちで実践していればよい」などという,いい加減な態度が許される社会でもあるということです。しかし,結果責任が問われないことが,問題なのでしょうか。

 成果主義の導入など,社会が少しずつ変化している中で,学力テストの結果が悪いセンセイは昇給させないとか,恐ろしい構想も登場してきているので,油断はできない状況です。

 こういう流れの中で,「すべての子どもの資質能力を向上させるための具体的な方法」が提起されてきており,昔からあった「グループ学習」をさらに進めた形態も実践されてきています。そこでは,「できる子にできない子を教えさせる」手法がとられており,「教えた方がより理解力が高まる」という理屈から,どう考えても「格差が拡大する」ことは明らかですが,「一斉学習よりはましな方法」として評価する人もいます。

 私は,「能力差を露骨に示す方法」という点に,どうしてもひっかかりを感じます。

 学力の高い子どもが,自分より学力が低い子どものために活躍する姿は,そもそも教師と子どもとの関係の相似形ですから,学校現場からなくすべき姿というものではありません。しかし,学力の高い子どもに教えてもらって「理解」できたり「技能」が身に付けられたりすればそれでよいかというと,そんなことはありません。むしろ,学力の低い子どもが,高い子どもに対して自分の意見をしっかりと表明でき,それをしっかりと受け止められている実感をもった上で,適切な助言を得られる経験の方がはるかに大事です。しかし,教科の学習で実践することは至難の業です。

 だから日本の学校教育では,特別活動や部活動で学力差にかかわらずに「活動」できる場を大切にしてきたのです。

 義務教育における教科学習では,できる子どもも,できにくい子どもも,同じ条件で学べる環境の方が,大事です。おかげさまでというべきか,海外ではそれを実証してくれる研究が発表されているようです。

 学力の高い子どもに頼り切ったグループ活動では,学力の高い子どもだけが知識や技能を定着させて終わり,残念ながら,「深い学び」ができずに終わります。

 文科省が言っているレベルの「深い学び」は,決して「深く」はありません。だれもができる「深い学び」を想定しています。それを保証するのは,必ずしも「対話的な学び」とは限りません。大事なのは,「主体的な学び」の方です。授業で一生懸命他の人から説明を受けている姿の,どこが「主体的な学び」でしょうか。教えている方も,「主体的な学び」になっているでしょうか。

 一斉授業と呼ばれる最も一般的な授業形態では,様々な生徒の反応を通して,問いかけや活動の内容の変更が自由自在に行えます。グループ活動が始まってしまうと,実際にやったことがある人ならわかると思いますが,活動途中での軌道修正は困難です。

 「異なる考え」に接することができてはじめて「対話的な学び」が成立しますが,そもそも同質性が高く,同調圧力が高い日本社会では,「異なる考え」が存在しにくいという特徴があることも忘れてはなりません。

 1+1+1+1=1というアクティブ・ラーニングもどきを見たことがありますか?

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【要警戒】 山形を襲っている「線状降水帯」

 山形で猛烈な雨が記録されているが,線状降水帯ができており,降水量はさらに増すことが予想されている。

 気象庁のHPなどを参考にして,自主的な避難行動が求められる。

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気象庁より正確な?米海軍の天気予報~SHANSHANの動きは?

 テレビの天気予報では,気象庁のデータを使っていますから,結局,気象庁のHPを見る方が早いのですが,

 実は台風の進路予想を知りたいときは,気象庁よりも米軍のサイトの方を参考にすべき,という人がいます。

 予報のスパンも長いことが米海軍のサイト(Naval Oceangraphy Portal)の特徴です。これを見ると,台風13号は10日に三陸沖に向かうことが予想されていることがわかります。

 サイトのサイドバーにある「Google Earth Overlay」をクリックすれば,Google Earth 上で台風の予想進路が示されます。

 日本でいう台風13号には,「SHANSHAN」という名称が付けられています。

 サイトには,以下のような注意書きもあります。

このウェブサイトの製品は、米国政府機関による使用を目的としています。 あなたの国、地域および/または地方に関連する熱帯低気圧製品については、気象庁または適切な世界気象機関地域特化気象センターに相談してください。(Geogle翻訳より・・・Productsの訳は「製品」ではなく,「情報」の方がよいか?)

 軍事面で非常に重要なデータとなる気象情報ですので,日本のよりも「信頼性が高い」とも言えそうですが,だから科学技術を軍事面にもどんどん役立たせるべき,と言いたいわけではありません。

 読書編で紹介する,科学研究と軍事の関係は,簡単には切り離せない問題で,軍事技術からすでに多くの恩恵を受けている私たちにとっては,非常に悩ましいことです。

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学力テスト結果による教員評価の方法

 昨日の朝のニュースで一番印象に残っているのは,全国学力テスト結果を教員評価に反映する案を大阪市が検討しているというものだった。

 「惨憺たる結果」を突きつけられた大阪市が,「罰」を利用して教員にテコ入れを図ろうというものである。

 実際にそのような評価が実施されることはないと思われる一方で,すでに人事考課では使われている可能性があることもわかる。

 全国学力テストを実施する学年は限られているから,点数が低い責任を負わされるのが,「実施した子どもの担任」だけでよいのか,という疑問は当然出てくるだろうから,学校ごとに,すべての教員の評価を下げる,なんてことも言い出すかもしれない。

 かつて,小学校の校長の評価は,どういう良い学校に異動させてくれたかということで決まる,と校長先生から直接聞いたことがある。もし人事部や教育委員会に情報等の強いパイプをもつことが校長の資質能力の一部なら,異動はすべて「公募制」にしたらどうかと思ったりもした。

 「大阪市の教員にはなりたくない」とか, 「大阪市は倍率が下がるから,ここなら合格できるかもしれない」と思わせるには十分な情報である。教員の質が下がって,結果が出せず,罰を与えて,やる気をなくさせて,さらに教育効果が失われるという悪循環に陥る恐れがあることは,見識のあるまともな教育長ならわかることだろう。

 算数はダメだが,これはできる,などという思考の働かせ方をしてほしい。

 自分の市の子どもたちの自信を失わせる政策より,希望をもたせる政策を市長は考えるべきだろう。

 学力が高くないと政治家になれないわけではない。

 そもそも,今は「学力」という言葉が何をさすのかを実感させるためにも,

 「学力テスト」は「算数技能テスト」と名称を変えるべきかもしれない。

 「頭の良さ」を,お笑い芸人たちの「切り返しの巧さ」で判断できるような感覚を大事にしてほしい。

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入試・採用における女子冷遇措置

 別件で相当の不正行為(犯罪行為)があり,捜査が入ったりしなければ,入学選抜や採用試験の全貌が明らかになることはないだろう。しかし,女性が冷遇=男性が優遇されるような措置がもし「一般的なもの」なのであれば,開示請求が相次ぐことになる。

 実態は,来年の女性の合格率で明らかになることだろう。

 ニュースで報道された大学では,「女子冷遇措置」が始まった年からしばらく,合格者に占める男子の割合が上がっている。もし,「措置なし」に変えたら,急に女子の割合が増えるはずである。

 「女子冷遇」問題は,たとえば「合格者を男女同数とする」と決めている入試にも波及する可能性がある。

 男子より高い点数をとった女子が不合格になる(もちろん逆もありうるが)のは,不平等である,という主張が高まるだろう。

 「とりたい人」が「とれる仕組み」を大学や企業は自分でつくることができるのかどうか。

 若い女性比率が高いある小学校では,担任がすぐ産休に入り,年が変わってクラス替え後に担任だった先生がまた産休に入り・・・と,年度の途中で産休代替の先生になることが何年も続いた学年があったという。教育長に直接苦情が入り,その要求をどのような形で受け入れたかというと,男性教員の比率を上げる,というものだった。私が「どうしてこの小学校は男性の先生が多いのですか」と質問してわかった事情だった。

 管理職の苦悩は深い。子育てのために仕事ができないでいる母親の,産休に入る教員への感情をどのように捉えたらよいのか。

 日本の「古い体質」は脱ぎ捨てることが可能なのか。

 道徳の新しい教科書を分析することで,その可能性を探ることはできるのか。

 世界が日本の「古い体質」に注目するきっかけになってしまった女子冷遇措置問題。

 「女子アナ」とは言うが「男子アナ」とは呼ばない日本の社会。

 ニュースを報道している側にこういう自覚はあるだろうか。
 
 学級委員を決めるとき,男子1名,女子1名というしばりは,なくすべきなのか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より