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不道徳の見本としての日本サッカー

 こんなタイトルで記事を書くと,サポーターから何をされるかわからない怖さもありますが,ゲームでは必死にブーイングされていた方もいらっしゃいますし,朝日新聞デジタルでも紹介されていましたから,「決勝トーナメント進出」という目的のために「規範破り」を実行した日本代表とそれを指示した代表監督への批判があることについて,ふれておきたいと思います。

 「道徳」的に言えば,アウトでしょう。

 フェアプレー・ポイントで上回っていたから勝てた日本ですが,やっていたのはフェアプレイとは言えない「ボール回し」でした。

 目的(決勝トーナメント進出)のためなら,手段を選ばない(勝利ではなく,0-1で負けること,反則を犯さないことを優先し,パスを回す)という行為です。

 JFAサッカー行動規範やFIFA(国際サッカー連盟)のフットボール行動規範に立派に?背いています。

 ・・・が,サッカーには,柔道やレスリングにあるような,「消極的なプレー」に対する罰則がありません。

 ですから,「ボール回しはルールに違反しているわけではない」という反論が予想されます。

 しかし,負けているチームが相手チームにボールを奪われないように,チンタラとディフェンスがパス回しをしている姿ほど,見苦しいものはありません。

 「パス回しだって,簡単じゃないんだぞ」という反論も予想できます。

 「お客さんを退屈させるプレーが,どうしてサッカーでは通用するのでしょうか?」と聞きたくなります。

 蹴られてもいないのに倒れて痛がるインチキプレーなど,「サッカー嫌い」になる理由にはいろいろなタイプがあるのでしょうが,私は,相手にボールを渡さないという「卑怯なプレー」を日本人は最も嫌う民族の1つだと思っていました。

 野球にも,首位打者が取れそうな仲間のために,敵チームの競争相手を全打席敬遠してしまうとか,許しがたいプレーがあります。しかし,敬遠という作戦は,相手に得点のチャンスを与えるプレーでもあり,サッカーの「ボール廻し」とは違います。

 私はサッカーのことはあまり好きではなくても,日本のチームが負けて「ざまあみろ」と言われるのは嫌です。

 プレーを見ていて,ベンチの指示への「抵抗感」をパスで示していた選手がいたことは救いです。

 でも,こういう人というのは,二度と「使われなくなる」運命にあることも知っています。
 
 私の次の試合への興味には,その選手が使われるかどうか,という点があります。

 「監督の指示に反発する」姿の方が,私にとってかなり「道徳的」なのですが。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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