「正しさ」とは別の「作法」の原理はどこにあるか?
読書編でもふれた内容だが,挨拶などの「作法」の原理を「正しさ」「ルール」として教えようとする人がいるが,それは誤りである。
「作法」には様々なものがある。たとえば社会人として身に付けるべき「作法」を「形」として教えている人がいるが,それは「批判されない」「恨まれない」「憎まれない」ことが目的であって,「常識」として教えてしまう「作法」は,ただの「ルール」として伝達されていくだけのものになってしまう。
残念ながら,強制された「作法」による行為で満足する人が少なくない。学校現場でこういう教師が増えると,子どもの心は荒んでいく。
その道を究めた人は,単純なルーティーンとしての「作法」にはこだわらない。
というか,自分から進んでは「作法」は語らない。
「作法」を語りたいと,編集者を説得するような作家はいないだろう。
教育分野には,そういう「作家」がいて困る。
「押しつけ感」が半端ない環境に子どもを慣れさせることで,得られるものは何だろう。
近くにある国を軽蔑する資格が日本にあるだろうか。
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