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「正しさ」とは別の「作法」の原理はどこにあるか?

 読書編でもふれた内容だが,挨拶などの「作法」の原理を「正しさ」「ルール」として教えようとする人がいるが,それは誤りである。

 「作法」には様々なものがある。たとえば社会人として身に付けるべき「作法」を「形」として教えている人がいるが,それは「批判されない」「恨まれない」「憎まれない」ことが目的であって,「常識」として教えてしまう「作法」は,ただの「ルール」として伝達されていくだけのものになってしまう。

 残念ながら,強制された「作法」による行為で満足する人が少なくない。学校現場でこういう教師が増えると,子どもの心は荒んでいく。

 その道を究めた人は,単純なルーティーンとしての「作法」にはこだわらない。

 というか,自分から進んでは「作法」は語らない。

 「作法」を語りたいと,編集者を説得するような作家はいないだろう。

 教育分野には,そういう「作家」がいて困る。

 「押しつけ感」が半端ない環境に子どもを慣れさせることで,得られるものは何だろう。

 近くにある国を軽蔑する資格が日本にあるだろうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より