反対派は「潰す」ものではなく,「気づかせる」もの
ときどき学校に介入しては,責任もなく去っていくような「パートタイマー」にも,教育を語る資格はある。
心にもないお世辞で教員のやる気を高めようとする人間では教育現場は変えられないと思っていたが,私が指導主事としての研修を受けているときは,ストレートな「助言」は避けるように指示されていた。
しかし,まともな教師が求めているのは,きちんとその教育実践の課題を指摘してくれる「専門家」である。
今はそういう「専門家」のニーズがないだけでなく,「専門家」自体がいないことが悲しいところである。
今,指導主事が全く頼りにされていない現状は嘆かわしい。お互いが育たないままで終わってしまう。
現場の話。
真面目に教育の仕事をしていると,指導の方針でぶつかり合うときが必ずある。
生徒の多少の変化には目もくれず,決まったとおりのことを実行したいタイプの教師と,
生徒の変化を微妙に感じ取りながら,そのときの最善の指導を行いたいと願う教師が対立し合う場合がある。
どちらも間違ったことを主張しているわけではないので,声のでかい方に消極的な教師はついていってしまう。
声と態度がでかい人間は,たいてい,教員の世界では迷惑な存在である。
しかし,子どもも前でも迷惑をものともせず,自己主張を展開できる人間を教育現場は求めている面もある。
だれもが教育への自信を失い,後ろめたさや失敗への恐怖から,及び腰の指導に流れている学校では,特に。
お互いに,お互いの良さを「気づき合う」こと。
お互いに,お互いのこだわりの質の違いを「気づき合う」こと。
目指している方向性は同じであると気づくこと。
そういう人間と人間の関係を子どもにも体験させてあげたいから,「敵」は決して潰してはならない。
「敵」を潰して成り上がるか,自分の地位を保とうとする人間は,子どもの前にはいてほしくない。
「自分に悪口を言ってくる人間」を「敵」とか「ろくでもないやつ」として固定したがる人間は,教育の仕事には向いていない。救いたいのは自分であって,子どもではないからである。
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