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2018年7月

利便性と危険性のバランス感覚

 歩きスマホより危険なのは,自転車を運転しながらスマホの画面を見たり操作したりする行為である。

 自動車の運転をしていて,「自転車スマホ」を発見すると,気になってついつい見てしまう。こちらも危険になる。

 「カーナビ」と同じように「チャリナビ」用のホルダーも販売されているが,運転しながら画面を見るのは危険な行為である。

 技術の進歩によって便利な世の中になっていく分,危険なことも増していく社会のあり方を教えることも学校の大きな役割になっている。

 考えてみれば,学校の中に入ってしまうと,大きな事故が全く起きないわけではないが,生活が便利になったことで危険が増しているということはあまりない。

 中学校1年生くらいは廊下を走ったり教室からすごい勢いで飛び出したりすることがあるが,こういう子どもがいる方が,「よける技」が身に付く,周囲に気を配るようになる,なんていう「利点」もある。

 ただ,赤信号や信号のない場所を渡ろうとする人が,「自動車は止まってくれるもの」と信じ切って(思い込んで),堂々としている様子も気にかかる。こちらはどちらかというと,高齢者に多い。若い人がスマホをいじりながら自転車を運転できる理由も同じようなものだろうか?

 事故を起こした経験などない方がよいのだが,一度(物理的に)痛い思いをしなければ改善しにくいことかもしれない。

 最近の交通安全教室は,警察官だけでなくスタントマンも登場し,実際の衝突場面を演じてくれたりもする。

 「本物の事故」を目撃する経験も大事だろう。

 話題が突然変わるが,最近の入試問題はミスが増えている。

 単純ミスは論外だが,少し工夫を凝らした問題で,ミスが起こりやすい。

 危険を冒す度胸がある人はあまりいないから,作問者は無難なところで妥協するものだが,「新しいもの」というだけで「いいもの」と捉える人が増えると,ミスも多発するかもしれない。

 「事故は起きない」と理由もなく信じるような人を,

 「事故はいつ起きてもおかしくない」と慎重でいられる人に変える方法を考えている。

 保険会社にそういうノウハウがあるのなら,教えてほしい。

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「役に立つ知識」とは何か?

 「役に立つ知識」という言葉の意味の捉え方には,様々な「深さ」がある。

 「役に立つ知識」などという言い方自体が,とてつもなく「浅い」ものの考え方に基づいており,「浅い知識」のことを指している,という見方もできる。

 大切なのは,知識を駆使する人間の受け止め方の方だから,

 「浅い知識を求める人間」にとっては,「すぐに役に立つ情報」が,

 「深い知識を求める人間」にとっては,「単独では生かせないかもしれないが,他の知識と結びついたりして,やがてじわじわとその意味や意義が実感でき,後で役に立ったと思えるようなこと」が求められる。

 最初から「深い知識」を身に付けさせようとしている人がいるが,山頂にヘリコプターでおろされても,「登山」の意味や意義はわからない,というイメージをもっていてほしい。

 ノーベル賞をとるような優れた研究,画期的な発見・発明が,すぐに何かの役に立つことを想定して行われているわけではないことを,多くの人は知っているはずである。

 だから,大学がどのような教育をすべきなのか,大学の存在の意味や意義は何なのか,役所をはじめ,かつては多くの人が知っていたはずなのである。

 一部には,そういう意味や意義を持ちえない大学があることもわかる。

 また,大学がそういう意味や意義を持ちにくくなっているという現実もわかる。

 「小学校程度やそれ以下の大学の授業」が現実にあることを知ると,そもそも「大学」という一単語である教育機関をくくることが絶対的に不可能な時代になっていることを前提として認識しておかなければならない。

 日本の科学研究,学術研究が危機に瀕していることは周知の事実だと思われるが,

 その原因ははっきりしている。

 「研究の目的」と,あらかじめその「成果」がわかっていることにしか大きな予算がつかない現実である。

 「成果」がわかっていることだから,安心してお金が出せる,というのは果たして「研究」のための予算なのだろうか?

 「成果」がわかっているのだから,自分のところでしっかり予算をやりくりして,そこにお金を使わせるように「指導」するのが役所の役割なのであって,「成果」がわかっている場所にお金を出す,という仕組みがあるから,本当は「成果」が出せなかった,というときに,予算獲得のための「改竄」「捏造」が横行するのである。

 限られた予算を上手く使えた大学に,より多くのチャンスを与える仕組みをつくる方が,大学の質を向上させる効果が高いのではないか。

 役所の考える「役に立つ知識」が,「想定される成果」という程度のものだから,日本の大学の質が向上しないのである。

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流行を追いかける人間ほど「古い人」になりやすいことに注意

 幅広い範囲に仕事を広げていくよりも,長所や独自のポイントに絞って強化を図ろうとする試みが,よく「失敗」に終わる。

 「失敗」のリスクを避けるために「広げていく」という選択肢をとっていたのに,「一人勝ちしたい」とか「流行に遅れては大変だ」という気持ちになって,集中的に力を入れた結果,そこが失敗すると「全滅」という悲惨な「終わり」を迎えることになるパターンがある。

 では,「分散化」を進めていけばよいのか,というと,そう単純な話ではない。

 集中から分散へ,規制から自由化へ,などという「変化」の意味を,「すべて分散」「すべて自由化」という誤った意味で捉えている人がいるが,その原因はそもそも「業務」の範囲が狭いことにある。視野が広ければ,誤解を生じることもなかった。狭い視野で仕事ができてしまう環境が,発信される情報の質をどんどん低くしていく。

 人間は,「負け戦」が見えてくると,どこかに資源を集中したくなる欲求に襲われやすくなることを忘れてはならない。自棄になってはならないのである。

 集中した先に,希望を託した結果,「集中しなければよかった」という残念な気持ちになったり実害を被ったりするチャンスがあればまだ救われる。改善しようとする意欲がわいてくるはずだから。

 自分は血を流すことなく,他人を使って「集中」させ,責任は他人に押しつけて,自分は「失敗」という結果の責任を負わなくてすむ組織で,なぜ不正が多発しているか,その理由はとてもわかりやすい。

 口先だけの「責任感」で生きていける連中が,「責任感という言葉を使うやつは,そもそもそれがないやつらだ」ということがわかっている厳しい環境で生きる人々を窮屈にさせている。

 「総合的な学習の時間」が「失敗」に終わり,「主体性という理想的な能力が育つ」という幻想が消えてなくなっているところへ登場したのが「アクティブ・ラーニング」である。

 「道徳のアクティブ・ラーニング」などと今さら口にすることは恥ずかしいことである。

 道徳の学習が今までの学校教育の中で,最もアクティブ・ラーニングでなければいけなかったことに気づけない人は痛い。

 気づけない人が多かったからこそ,「道徳の教科化」という流れになったのであるが。

 部活動についても,特に中学校教育の経験がない人に世の中の変化の「読み誤り」が多い。

 日本が「遅れ」に気づいて変えてしまった後,すでに世界の潮流が変わり,「変える前が最先端だった」ことがわかり,「変えずにいればよかった」と後悔しても遅い。

 教育では「流行」を追いかける人間ほど「古い人」になりやすいことに注意すべきだろう。

  
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「アクティブ・ラーニング」になっているかどうかの判断基準はどこにあるのか?

 文科省は「教育の質の悪い私立大学」を潰す方針だそうだが,「学生の質」や「教員の質」をそもそもどうやって測定するのか,また,「教育の質」とは何を基準に判断されるのか,一般人にはわかりにくい。

 そもそも「募集してみないとわからない」などという理屈で大学の認可を下しているわけではないだろう。

 認可はするが,すぐに補助金を打ち切って潰す,という仕組みは,学生にとってもたまったものではない。

 そんな大学に教員も学生も優れた人材が集まるはずがない。

 大学を認可した事前調査・判断能力のない役所の責任の方が重いと言うべきだろう。

  「論文も書いたし学位も取得したので,早く就職したい」という人が,「研究」だけでなく「教育」という仕事も担いうる人間かどうかを,どのように判断しているのだろう。

 くだらない課題を提示して,あとは子どもに任せるなどという適当の極みの「学習」「授業」がアクティブ・ラーニングと認定されるのであれば,そもそも学校なんてところに子どもは来る必要がないとも言えるだろう。

 それと同じことを役所がしていると考えればわかりやすい。

 私が知っている中学校では,保健体育の授業が「真のアクティブ・ラーニング」だった。

 バスケットをしている生徒,サッカーをしている生徒,ドッジボールをしている生徒があちこちにいる。

 休み時間とほぼ同じ光景である。教員はグラウンドを走っている・・・。

 「子どもがちゃんと協力し合って活動している。これがアクティブ・ラーニングだ」という見本みたいな実践があっても,それを成立させる条件がなければできないことはだれでもわかる。

 だれでもどこでもできる「アクティブ・ラーニング」などどこにも存在しない。

 そもそも教師集団にやらせてみればわかりやすいだろう。

 恐ろしく低いレベルの「深い学び」の見本が書籍で紹介されているが,

 「基準」「標準」がはっきりしない学習に,評価のしようがないことはだれでもわかるだろう。

 「アクティブ・ラーニングができていないから」=「アクティブ・ラーニングを行う能力のない学生ばかりだから」私立大学を潰すというのは,あまりにも乱暴な話である。

 進学塾は進学校と言われる中高一貫校の特色をよく把握している(一覧表になっていて,わかりやすい)。

 明らかに「アクティブ・ラーニングなどやっていない」学校が存在する。

 「やっているつもり」の学校を見破れない役所が何を決められるのだろう。

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日本の学校と部活動の未来

 昨日だったか,池上彰さんの番組で,世界の人々が驚く「日本の学校の実態」が紹介されていた。

 学校ごとにプールが設置されている国は少ない。

 日本の学校には確かにプールは設置されているが,水道代が上がれば,やがて使用されなくなるだろう。
 
 学校の小規模化も進んでおり,「事故死が怖い」という管理職や教育委員会も増えて,「外部委託」が検討されるものの一つだろう。

 水泳の授業そのもののがなくなる可能性もある。

 海難事故があった韓国では,水泳指導に力を入れだしたらしい。

 生徒がトイレ掃除をする国も少ない。

 シンガポールはトイレ掃除を義務化したらしい。

 ただ,学校によっては(私立などの学校は)すでにトイレ掃除を専門の業者に委託しているところもある。

 公立学校も時間の問題のような気がする。

 教科書の無償配布が実施されている国は少ない。

 日本も憲法には「義務教育は無償」とされていたが,戦後しばらく教科書はタダではなかった。

 「お母さんたち」の運動が国を動かした経緯が番組で紹介されていた。

 教科書の大型化が進み,資料集のようになってしまって,やたらと重い。

 中学生でもリュックサック型の学校指定鞄が増えてきている。

 生徒が全員タブレットを持参するようになれば,紙の教科書は不要になる。

 その場合,教科書は他国と同じように「貸与型」か,廃止にしてもよいのだろうか。

 教員が部活動の面倒を見ている。

 部活動の指導ができる教師が少なくなっていることもあり,これもやがては廃止されるだろう。

 気温の上昇のため,夏休みの部活動は中止,なんてことになったら目も当てられない。

 教員をラクさせたいだけの人は,本気で中止させることを考えているが,

 生徒は監督がいなくても,場所を探して勝手に自分たちで動き出す。
 
 この方がはるかに危険なのだが,自分やその関係者が責任を問われることがなければよいのか?

 一方で,自分たちで体を動かす生徒も底をついたときは,日本の「終わり」が決定的になるだろう。

 日本には「留年」「落第」がない。

 海外から見ると,「よくそんな制度で子どもは勉強するね」とか,「できない子が可哀想」という感想がある。

 日本の教育の「国際化」「グルーバル化」「国際標準化」が進むと,何がよくなり,何が失われるのか?

 教育現場にいると,とにかくあらゆる方向から足を引っ張られている気がしてならない。

 政治の終わりは今に始まったことではないが,教育の終わりは本当の日本の「終わり」を予感させる。

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水球の「不名誉」デビュー

 ハンドボールを水の中でやるような過酷なスポーツ・・・「水球」というマイナーな競技のイメージはそんな程度のものだった。「water polo」という英語名は今し方,調べてわかった。poloはチベット語の「ボール」が語源だそうだ。

 ウィキペディアでは,水中の見えない場所で行われる反則行為が多いことから,「水中の格闘技」と呼ばれているとあったが,それは聞いたことがあった。

 今,東京五輪に向けて「殺人的な練習」が行われている競技が多いことだろう。

 「日本代表だから」「選ばれた人だから」という理由で,「弱音が吐けない」状況にいる選手たちが置かれた立場は,紛れもなく「ブラック企業」を上回る過酷なものだろう。

 肉体的に限界のところまで来ているときに,精神的な打撃をくらうとき,「一般人」なら潰れてしまう。

 「トップアスリート」とは,「潰れなかった人たち」という意味で捉えればよいのだろうか。

 戦時中,全く勝つ見込みのない戦争に駆り出された兵士たちとイメージが全く重なってしまうスポーツ選手たち。

 知り合いしか観戦に来ないようなマイナーなスポーツの悲哀が,この暑さの中で寒気を誘う。

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いつから教育の世界は薄っぺらな本を読んだだけで何かが変えられるという幻想に囚われるようになったのか

 ある編集者の方が話していた内容を以前に紹介したかと思うが,おおよその内容を思い出して記しておく。

 出版業界はとても厳しい。でもまだ売れる本がある。それは,「薄っぺらい本」。

 薄っぺらい本でも,内容が濃かったり,難しかったりすると,売れない。

 さーっと読めるような本が売れるらしい。大学入試の参考書と比べて,教員が読む本がいかに「易しい」(内容が乏しい)ことか。

 本は寿命も短いので,薄い方が倉庫を圧迫せずにすむ。

 こういう流れがあるから,せっかく大学のセンセイが出すという本なのに,「厚めのパンフレット」のようになってしまっている。

 ただでもらえる『東京防災』の方が厚いし中身が濃い。

 内容が薄っぺらになっているのは,大学の授業も似たようなものではないか。

 大学の授業でアクティブ・ラーニングが取り入れられるようになると,資料と合わせて今までノートで十数ページあった教員の講義メモが,2ページくらいですんでしまうようになるから,教員の側にとってはよい「働き方改革」になっていくだろう。

 いわゆる「ゆとり世代」以降の大学生たちの授業に対する態度が,以前にも増して受け身になっているというデータがあるらしい。だから主体的な学びを促す意味での授業改善が必要なわけだが,中学校レベルくらいに内容の質を落とさないと,議論も成立しない。

 もう,「薄っぺら」な話はやめにしてもらえないだろうか。

 教育が「願い」だけで成立するように思わせている本を買わされても,騙される教師などいないと信じたい。

 「本を読んでも上手くいかない」理由は,読んだ人も本を書いた人も未熟なだけである。

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反対派は「潰す」ものではなく,「気づかせる」もの

 ときどき学校に介入しては,責任もなく去っていくような「パートタイマー」にも,教育を語る資格はある。

 心にもないお世辞で教員のやる気を高めようとする人間では教育現場は変えられないと思っていたが,私が指導主事としての研修を受けているときは,ストレートな「助言」は避けるように指示されていた。

 しかし,まともな教師が求めているのは,きちんとその教育実践の課題を指摘してくれる「専門家」である。

 今はそういう「専門家」のニーズがないだけでなく,「専門家」自体がいないことが悲しいところである。

 今,指導主事が全く頼りにされていない現状は嘆かわしい。お互いが育たないままで終わってしまう。


 現場の話。

 真面目に教育の仕事をしていると,指導の方針でぶつかり合うときが必ずある。

 生徒の多少の変化には目もくれず,決まったとおりのことを実行したいタイプの教師と,

 生徒の変化を微妙に感じ取りながら,そのときの最善の指導を行いたいと願う教師が対立し合う場合がある。

 どちらも間違ったことを主張しているわけではないので,声のでかい方に消極的な教師はついていってしまう。

 声と態度がでかい人間は,たいてい,教員の世界では迷惑な存在である。

 しかし,子どもも前でも迷惑をものともせず,自己主張を展開できる人間を教育現場は求めている面もある。

 だれもが教育への自信を失い,後ろめたさや失敗への恐怖から,及び腰の指導に流れている学校では,特に。

 お互いに,お互いの良さを「気づき合う」こと。

 お互いに,お互いのこだわりの質の違いを「気づき合う」こと。

 目指している方向性は同じであると気づくこと。

 そういう人間と人間の関係を子どもにも体験させてあげたいから,「敵」は決して潰してはならない。

 「敵」を潰して成り上がるか,自分の地位を保とうとする人間は,子どもの前にはいてほしくない。

 「自分に悪口を言ってくる人間」を「敵」とか「ろくでもないやつ」として固定したがる人間は,教育の仕事には向いていない。救いたいのは自分であって,子どもではないからである。

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小1の熱中症死亡で変わる教育計画

 学校の教育活動の中で,また尊い命が失われてしまった。

 わずかな時間の校外学習で子どもが亡くなるリスクまで,学校は想定していなかっただろう。

 「どうしてこんな炎天下で子どもを歩かせるのか」と言い出したら,外での運動(体育の授業)など一切できなくなってしまう。

 中学生ですら,ちょっと動くと口癖のように「疲れた」と言う子どももいる。

 小学校1年生の「疲れた」という一言に対して,引率の教師はどのくらいの重みを感じたことだろう。

 私も教師の一人として,子どもの一言一言の重みを再認識したい。

 教育委員会は,慌てて校長宛の注意喚起の文書を送るところだろう。

 校長によっては,水泳以外の校外での活動をすべて禁止にするかもしれない。

 教育委員会によっては,その命令を下すかもしれない。

 教師によっては,死亡のリスクが恐ろしくて教育活動そのものへの支障が出てくるかもしれない。

 豪雨災害でも多くの命が失われた。

 悔やんでも悔やみきれない事態から,残された人間が何をなすべきかを考えなければならない。

 たとえ「今さら」と言われても,教師と子ども,学校と家庭の絆をより確かなものにしていきたい。

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だれでもマネが出来ることが「奥義」?

 経営の世界の「実力者」の方々は,だんだん理論というより精神論というか宗教がかった「信ずれば成る」みたいな話にずれていく傾向があるように思います。こういう人たちの話を曲解して道を踏み外し続けてきたのが「本当のこと」から目をそらすタイプの「経営者」なのでしょう。

 教育の世界では,それほど影響力をもった「教祖」がいないのが救いです。

 昔,小学校の教師たちが好んで読んだ「実践家」の名前など,もう忘れ去られていますし,ちょっとマネをしてみては効果がなくあきらめて,また次の「教祖」を探す,なんていうヒマなことを繰り返す人たちが多くて,出版業界にとっては「最後の頼みの綱」なのでしょうが,現場のまともな教師たちには縁がありません。

 5年前の私の記事でも,「奥義」を振りかざして扇動を試みる人へのコメントを残していましたが,種類の全く異なる学校では,「教育の仕事」の共通点は非常に少ないことを現場の人間ならだれでもわかっています。

 小学校の教師が中学校に転勤して,とにかく早く小学校に戻りたいという愚痴を聞かされる立場にあって,「去りたい人」が目の前に居続ける子どもたちが気の毒でなりません。

 「救い」を求めるだけでは,それは学問でも教育でもなく,ただ自分の心だけを治療しようとする信仰にすぎなくなってしまいます。

 都合のよいデータだけを頼りに,都合の悪いデータには一切目を向けず,「これが奥義だ」と宣伝している人間を頼ろうとする教師がなぜ生まれてしまうのか。

 落ち着いて考えてみて下さい。

 「国や家族のために死ぬ覚悟をもつこと」が軍人の「奥義」でしょうか。

 アタマを使って考えればわかることが,ココロに邪魔されて機能しなくなる状態は,教育現場に立つ人間の在り方としては絶対にふさわしくありません。

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子どもそっちのけで学校説明会に集う親たち

 小学生の親なら,仕方ないか。

 これが,中学生の親になると,ガクンと割合が減る。

 まだ親の言うことを聞く小学生。

 親との会話がほとんどなくなる中学生。

 こういう関係を知ってか知らずか,先進的な学校は,

 高校での募集をやめている。

 賢い選択かもしれない。

 学習指導要領などは守らない。

 これも,賢い選択かもしれない。

 自由度が高いことよりも,きちんと時間を費やしたかどうかだけに関心のある管理者。

 こういう管理者のもとで学習して,成果が得られると思う親はいないだろう。

 優れた経営理念があり,その理念の実現に向けて着実に努力する教員と,

 お題目の経営理念しかなく,ノルマをこなすことだけに汲々としている教員ばかりの学校と,

 どちらを選ぶのが得策か。

 どちらを選ぶのが得策かがわかっていても,選択することができない家庭を救いたい。

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「正しさ」とは別の「作法」の原理はどこにあるか?

 読書編でもふれた内容だが,挨拶などの「作法」の原理を「正しさ」「ルール」として教えようとする人がいるが,それは誤りである。

 「作法」には様々なものがある。たとえば社会人として身に付けるべき「作法」を「形」として教えている人がいるが,それは「批判されない」「恨まれない」「憎まれない」ことが目的であって,「常識」として教えてしまう「作法」は,ただの「ルール」として伝達されていくだけのものになってしまう。

 残念ながら,強制された「作法」による行為で満足する人が少なくない。学校現場でこういう教師が増えると,子どもの心は荒んでいく。

 その道を究めた人は,単純なルーティーンとしての「作法」にはこだわらない。

 というか,自分から進んでは「作法」は語らない。

 「作法」を語りたいと,編集者を説得するような作家はいないだろう。

 教育分野には,そういう「作家」がいて困る。

 「押しつけ感」が半端ない環境に子どもを慣れさせることで,得られるものは何だろう。

 近くにある国を軽蔑する資格が日本にあるだろうか。

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心にないことは相手に伝わらない

 指導がうまくいかない,授業がうまくいかないと悩む教員は少なくない。

 どんなにベテランでも,「悩む」人の方がより有望である。

 子どもへの愛情がある一方で,現状と限界がわかっているということだから。

 学校には,「悩まない」タイプの教員が存在する。

 「うまくいっていない」という現状認識すらできないタイプの人もいる。

 先日,ある会合が開かれて,様々な年齢層の方々が集まった。

 会合の主催者側は,集めた人々に感謝をしなければならない立場にある。

 しかし,「感謝の念」が伝わっている空気はなかった。

 人間の心にないことは,相手に伝わることはない。

 「ただのお世辞」をそれと気づいて受け取ったことがある人ならわかるだろう。

 子どもの成長への期待というか,責任感のようなものをもっていない教員から,

 子どもたちはどのような影響を受けているのだろう。

 「自分の仕事が問題なくすめばよい」

 「もめなければいい」

 「できれば仕事が減るのが望ましい」

 そんな教員を増やす環境ができあがるのはなぜだろうか。

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「カエル症候群」の悲哀

 現状に不満がある人は,よりよい方向に「変わる」ことを期待し,

 何かに手をつけて「変える」ことを望みます。

 しかし,手をつけるべき問題がたくさんありすぎて,結局は簡単にできる(しかしどうでもいい)ことだけを変えて,改善しないので元に戻す・・・同じ場所に「帰る」・・・こんな「改革」を繰り返しています。

 こういう「病気」を私は「カエル症候群」と名付けています。

 ちなみに,何か本を読んで,その通りに実行すれば上手くいく,と思う人たちも,

 成功は金で「買える」と誤解している「病気」だと判断します。

 これも「カエル症候群」の一種です。

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「改革」の先導者は「変わりのようのない人間」

 今までの教育改革の最大の問題は,

 「変わりようのない人間」たちが先導してきたからである。

 これは,決して悪いことではない。

 そもそも「変える必要がない」ものが教育にはたくさんあるからである。

 同じ内容に対して,「看板の掛け替え」だけで商売が成り立つ業種だからである。

 今後,「本当の教育改革」が必要になるときが来る。

 そのときの「先導者」はだれであるべきか?

 「変わりようにない人間」たちから主導権は奪えるか?

 小学校教育と,中学受験産業との格差が今後,改革への大きなヒントになるかもしれない。

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不正の温床

 企業における「不正の温床」は,厳しいノルマにあると言われる。

 官僚の「不正の温床」は,「金」で人間を操れる権能にある。

 そして,「忖度文化」も「不正」を「守る」武器となる。

 学校教育で「自己主張」を徹底的に封じ込めてきた「成果」でもあるだろう。

 人々は何と引き替えに「自由」を奪われていくのだろう。

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夏休みは31日以内で

 日本列島は細長く,南北にのびていることで,地域によって気候は多様である。

 だから1学期の終わりと2学期の始まり(3学期制の場合)の時期は,地域によって自由に変えてよいはずである。

 ただ,教室等のエアコンが完備されると,全国一律の休業日の設定も可能になる。

 アメリカとの戦争が始まった翌年の1942年の『少国民新聞』に,「大戦下の夏休み 三十一日以内の事」と文部省が定めたという記事が掲載されている(「戦時中の夏休み」と検索すると,紹介してくれているサイトが出てくる)。

 戦時下の子どもたちの夏休みは,実質的に「強制労働」の時間だったようで,これを「勤労奉仕」などと呼んで「利用」する政府の精神があるから,「公共」などという科目の胡散臭さが拭いきれない。

 「奉仕の精神」を評価する仕組みを教育機関が持っていることの意味を考えてもらいたい。

 2020年は,学校がオリンピックに振り回される1年になるかもしれない。

 来年から「戦時体制」に入る自治体も増えてくることだろう。

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なぜ東大を選ぶのか?

 3年前に中学校を卒業させた私のクラスの生徒3人にたまたま会って,東大の入試問題の話になった。

 意見が一致したところは,やはり東大の問題は良問が多いということである。

 良問の定義は様々であろうが,「基礎的な知識と技能,それなりの思考力と表現力があれば解くことができる問題」と呼べるだろうか。

 知識問題=「知らなければ解けない」という印象を持っている人が多いと思うが,いくつかの知識を組み合わせれば,出題者の意図が見えてきて,答えにたどり着ける問題も良問である。

 私は高校まで理系だったので,文系科目は教科書と参考書,問題集で勉強するしかなかったが,一番ためになったのは東大の過去問だった。

 「これならできるかもしれない」と思わせてくれるような入試問題を出題できる大学が増えてほしい。

 収入目当てで大量の受験生をさばくような「金儲け用入試」に頼ることを「違法」とする法律でもつくってほしい。

 「ただ覚えるだけ」の作業をひたすら繰り返している中学,高校,大学の受験生たちは本当に気の毒である。
 
 教え子たちと「要領よく生きる力」が生かせる数少ない大学の話をしながら,「やはりアタマのいい先生がいる大学で,もっとアタマをよくしたい」と思わせる大学教育であってほしいと思った。

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【特別警報】 小中学生にもできること

 毎年のように「記録的大雨」が続くようになると,「平均雨量」にも変化が見えるようになってくるでしょう。

 今年は,広範囲にかけての警戒が必要ですが,被害を避けるための情報はピンポイントで必要です。

 テレビの情報待ちではなく,気象庁が発表している内容をスマホで見ることができる小中学生は多いでしょう。

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                    (気象庁HPより)

 広島県の中部から東部にかけての河川が心配です。

 すでに避難している方も多いでしょうが,避難先が遠くにしかない方々,避難行動が困難な方々への援助が必要です。

 小中学校で学んだ防災の知識と技能を生かしましょう。

 ↓土砂災害にも警戒を!

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子どもの心が読めない大人の悲劇

 教師の中にも,ごく稀に子ども心が全く読み取れない人がいる。

 子どもにはそれがわかるから,ある人はからかいの対象となり,別の人は「利用する」対象となる。完全にコミュニケーションが取れなくなる場合もある。

 会話をしながら相手の心がつかみ取れる人は,道徳の授業などバカらしくてやってられなくなるかもしれない。

 授業で建前を言い合ったところで,実生活には何の役にも立たないことが「お互い」にわかっているからである。

 公務員や会社員の場合はどうだろう。

 相手の心を読もうとしない大人もいるかもしれない。

 私は指導主事だった3年間で,いろいろなタイプの事務方や管理職と出会うことができたが,こういう人たちからは,あまり「心を読もう」とする意思は感じられなかった。私の方では必死にやっていたのだが。

 一部の管理職は,私の意図を読み間違ったのか,過去に出会った指導主事がそうだったのか,必死に教員の悪口を並べ立ててきた。基本的に授業は成立しているので,そこまでひどいことを言わなくても・・・と聞いていて思ったが,そういう気持ちがちゃんと伝わったのは,2年間くらいおつきあいが続いた後の話だった。

 なぜ口先の言葉だけのコミュニケーションに頼ろうとするのだろう,と不思議だった。

 今回の文科省の件は,「なるほど」と納得せざるを得ない。

 「だからか」と思ってしまう。

 「バレない自信」を育んできた組織の実態を知りたい。

 権力の側にいる人間が,その職権を利用して,自分の子どもの得点に下駄を履かせるなどという行為をチェックできない機関が,大学の評価をまともに行うことができるのだろうか?

 天下りしている先輩と,権力の側にいる後輩が,何をしでかすかをだれが監督できるのか?

 教育行政の上の方にいる人間が,日本の将来を担う子どもたちの信用を裏切る罪は重いぞ。

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「根腐れ組織」を「根絶やし」にする狙いか

 特ダネは,ただ早ければよい,というものではない。

 「出すタイミング」も大事。

 「こんな組織に入るなんて,恥ずかしい」と思わせる狙いを感じる。

 将来の「人材」を根絶やしにして,思い通りに操れるようにすることが狙いなのだろうか。

 一方で,「どうして今回はバレたのだろう?」「バラされるはずがない話なのに」と呑気に考えている人がいるかもしれない。

 海外に向けて,「恥ずかしいニュース」が流れ続けている。

 いい加減にしてほしい,という国民の声を大切にしてほしい。

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「だれにも止められない子ども」をどうするか?

 親にも止められない,学校の教師にも止められない,事故を起こすまで,警察にも止められない,そういう子どもをどうしたらいいのか。

 私の父親は保護司をしていたので,「そういう子ども」たちを私もよく見てきた。

 「どうしてこの子が?」という印象の方が,「なるほどこの子がね」という感じよりも強い。

 大きな問題があって,周囲が騒いだ後は,しばらくの静寂が訪れるが,油断した途端に再び噴火が起こる。この繰り返しのパターンが多い。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 親は,「教育の専門家」である教師にとりあえずは期待をかける。

 ある担任がダメなら,また次の年に期待をかける。

 今いる教師がダメなら,年度がかわって異動してくる教師に期待をかける。

 やがて,学校そのものを信用しなくなる。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 学年が違っていたが,無免許運転による事故でよく知っている中学生が亡くなるという経験を私もしている。

 運転していた子は生き残った。今,どういう人生を送っているのだろう。

 報道によって,世の中には,我が子を全くコントロールできない親と,真逆に殺してしまう親ばかりだと誤解してしまう人が少なくないのではないか。これが少子化の原因になっていると言いたいわけではないが。ほとんどの親と子は,多少の喧嘩を乗り越えながら,子は人間として,親は親として,成長していく。その関係を成立させないものは何なのか。

 知り合いの岡山県の先生の嘆きが脳裏にこだまするが,やはり最後の希望は教師しかいないのではないか。

 しかしそういう教師を子どもから引き剥がそうとしているのが世の中の流れである。

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不道徳の見本としての日本サッカー

 こんなタイトルで記事を書くと,サポーターから何をされるかわからない怖さもありますが,ゲームでは必死にブーイングされていた方もいらっしゃいますし,朝日新聞デジタルでも紹介されていましたから,「決勝トーナメント進出」という目的のために「規範破り」を実行した日本代表とそれを指示した代表監督への批判があることについて,ふれておきたいと思います。

 「道徳」的に言えば,アウトでしょう。

 フェアプレー・ポイントで上回っていたから勝てた日本ですが,やっていたのはフェアプレイとは言えない「ボール回し」でした。

 目的(決勝トーナメント進出)のためなら,手段を選ばない(勝利ではなく,0-1で負けること,反則を犯さないことを優先し,パスを回す)という行為です。

 JFAサッカー行動規範やFIFA(国際サッカー連盟)のフットボール行動規範に立派に?背いています。

 ・・・が,サッカーには,柔道やレスリングにあるような,「消極的なプレー」に対する罰則がありません。

 ですから,「ボール回しはルールに違反しているわけではない」という反論が予想されます。

 しかし,負けているチームが相手チームにボールを奪われないように,チンタラとディフェンスがパス回しをしている姿ほど,見苦しいものはありません。

 「パス回しだって,簡単じゃないんだぞ」という反論も予想できます。

 「お客さんを退屈させるプレーが,どうしてサッカーでは通用するのでしょうか?」と聞きたくなります。

 蹴られてもいないのに倒れて痛がるインチキプレーなど,「サッカー嫌い」になる理由にはいろいろなタイプがあるのでしょうが,私は,相手にボールを渡さないという「卑怯なプレー」を日本人は最も嫌う民族の1つだと思っていました。

 野球にも,首位打者が取れそうな仲間のために,敵チームの競争相手を全打席敬遠してしまうとか,許しがたいプレーがあります。しかし,敬遠という作戦は,相手に得点のチャンスを与えるプレーでもあり,サッカーの「ボール廻し」とは違います。

 私はサッカーのことはあまり好きではなくても,日本のチームが負けて「ざまあみろ」と言われるのは嫌です。

 プレーを見ていて,ベンチの指示への「抵抗感」をパスで示していた選手がいたことは救いです。

 でも,こういう人というのは,二度と「使われなくなる」運命にあることも知っています。
 
 私の次の試合への興味には,その選手が使われるかどうか,という点があります。

 「監督の指示に反発する」姿の方が,私にとってかなり「道徳的」なのですが。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より