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教員の校長批判に乗れる人間の質

 昔から,「いい校長」には2つの意味がある。

 生徒のことを第一に考える校長と,教員のことを第一に考える校長である。

 後者の場合,多くは「教員にとって都合がいい校長」という意味である。

 以前にも記事にしたかもしれないが,あるサイトで,「指導力不足教員」が校長や教育委員会を敵視して,「自分をおとしめようとしている」として詳細な事情を公開している。読めば読むほど「典型的な指導力不足教員」である。昔なら,こういう人でも教員が続けられたのだが,親や子どもが「問題」を「問題」として指摘できる「民主主義」のこの時代,もはや「かばう」のは不可能である。

 指導力不足教員の多くは,「昔は自分のような(あるいは,自分よりもっとダメな)教員がたくさんいたはずだ」と思っているかもしれない。「昔」なら,その通りかもしれない。私の子ども時代は,毎日数人を殴る小学校教師が親から感謝されていたのだ。しかし,今は「子ども」の声を聞く時代である。

 校長は,教員に比べて多額の退職金を手にして現場を退けるから,「波風立てずに消えていく」ことを理想としている人がいるかもしれない(もちろん,一般の教員でもその退職金は決して少ない額ではないが)。

 ただ,今は,校長も「子ども」や「親」と同様に,「言いたいことを言う」時代である。

 「経営者の理念」を持っていない人間は,管理職試験に合格できないようになっている(はずである)。

 経営者が「言いたいことが言えない」「言いたいことを言わない」ことが長く続いたせいで,プラスに働いた面もなくはないが,公立学校は致命的な欠陥を抱えることになる。

 今,校長が教員に「言っていること」は,大昔から文科省や教育委員会がずっと「言ってきたこと」である。

 役所の通知文はPDFファイルでだれでも見られる時代だから,校長より早く教員が読むこともできる。

 しかし,そういうたぐいのものは,管理職を目指している教員以外は絶対に見ないし読まない。

 校長が変わって,あれこれうるさくなった,と感じている教員は,一度民間企業に出てから教育現場に戻ってくれば,やっと「まとも」になれる,と教育委員会は真面目に思っている。

 ある地方の大学のセイセイが,教員の愚痴に乗っかって,校長批判をしているが,

 自分の考えとは異なる主張をする人間を「排除」し,同じようなレベルの「仲間」(当人は「同志」と呼んでいる)を集めて時間を浪費するのは,昔の教職員組合と同じである。加入率が極端に下がり,存在理由がなくなってきた組合を見捨てて,新しい「居場所」を探している人間を,「排除原則」をもった人間が「居場所」を提供している。

 外部で校長批判をするような人間には,「真の協調性」をもつ人間は育成できない。

 異なる考えをもった人間を「排除」する人間に,「真の協調性」の大切さは教えられない。

 「一人も見捨てない」などと言いながら気に入らない子どもを「排除」し,自分の考えを子どもに押しつけ,校長と敵対し,自分を認めてくれるただの部外者とつながっているだけの人間に,目を覚まさせるにはどうしたらいいのだろうか。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より