「キレる親」をどうするか
「キレる人間」を容赦なく攻撃できる時代になった。
しかし,現実の社会では,直接的な行動は取りにくい。
目の前で,親が異常な勢いで子どもを叱っている場面を見たとき,人はどう思うだろうか。
親に注意できる人間がいるだろうか。
子どもに優しい言葉をかけることができる人はたくさんいるかもしれないが,
「異常な怒り」に震えている大人にかける言葉を持っている人は多くはないだろう。
隣の家で,激しい子どもの泣き声と,親の怒鳴り声が聞こえてきたら,どうすればいいのだろう。
一昔前は,「すぐにキレる教師をどうしたらいいか」と悩む管理職,同僚,子ども,保護者が多かったが,
今は,すべての教育関係者が「非難される」ことを避けるために,「おとなしく」なっている。
その逆の作用なのだろうか,教師のかわりに「親」がキレ出している。
今の「親」は,「キレている教師」を見て育っている世代であるから,
「キレる親」の「産みの親」は,その親と教師なのかもしれない。
私が「キレる教師」になったのは,親と教師と部活のコーチのせいだ,と言い訳したいわけではないが。
「キレる親」と「つぶされる子ども」というエピソードを学校側が流せるようになるには,
「あんたはキレないんだな」という恫喝に屈しない覚悟が必要である。
「キレる親」とは,正面から「対立」する必要がある。
(「キレる子ども」とも同様であるが)
「対立」から「協調」に転換できる材料がいくらでもあるのが「教育現場」というところである。
「教育現場」は,人間の「信用」を,人間と人間との「信頼」関係によって生み出せる場である。
「自由と制限」「不易と流行(維持と変化・発展)」という尺度をもって,「二項対立」ではなく,
「よいよい生き方」ができる「よりよい社会」の実現に向けて,「自由も制限も大事」などといった
共通の価値観を獲得していく場である。
「対立」から逃げない教師の覚悟が親に伝わり,家庭の教育力も向上することを願いたい。
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