「浮世の憂さのはらし場所」としての教育改革
教育改革に必要なことは,「当たり前のことが当たり前にできるようする」ための地道な努力しかない。
教育行政は,地道な努力に対する途切れのない支援に注力すべきなのに,
中央では「看板のかけ替え」によって,「改革したことにする」だけの繰り返しがあるのみである。
学習指導要領の改訂があるタイミングで,どういう人物が研究発表会等での講演会に呼ばれているかを眺めてみるだけでよくわかる。
なぜその人物が,過去のタイミングで登場の出番がなかったのか。なぜ今はあるのか。
それを考えるだけで,「改革の意味」と「どういう失敗で終わるか」がわかる。
「その人の講演を聞いても意味がない」ことがわかった場合,「努力して下さい」ですまされるのか?
ある雑誌で竹内洋氏が述べていた,教育改革を「浮世の憂さのはらし所」にしたがることに病の根がある,という指摘が印象に残っている。
教育改革の失敗事例として紹介されている「法科大学院」は本当に痛すぎる。
すべての学生の自己責任ですませてよいのだろうか。
7割合格との触れ込みで入学し,高い授業料を払わされた,7割以上の不合格者たちが悪いのか。
law school ではなく low school と揶揄されるような結果になった原因はどう分析されているのだろう。
政策立案者が責任を負わなくてすむ仕組みを変える改革がまず必要なのではないか。
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