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「浮世の憂さのはらし場所」としての教育改革

 教育改革に必要なことは,「当たり前のことが当たり前にできるようする」ための地道な努力しかない。

 教育行政は,地道な努力に対する途切れのない支援に注力すべきなのに,

 中央では「看板のかけ替え」によって,「改革したことにする」だけの繰り返しがあるのみである。

 学習指導要領の改訂があるタイミングで,どういう人物が研究発表会等での講演会に呼ばれているかを眺めてみるだけでよくわかる。

 なぜその人物が,過去のタイミングで登場の出番がなかったのか。なぜ今はあるのか。

 それを考えるだけで,「改革の意味」と「どういう失敗で終わるか」がわかる。

 「その人の講演を聞いても意味がない」ことがわかった場合,「努力して下さい」ですまされるのか?

 ある雑誌で竹内洋氏が述べていた,教育改革を「浮世の憂さのはらし所」にしたがることに病の根がある,という指摘が印象に残っている。

 教育改革の失敗事例として紹介されている「法科大学院」は本当に痛すぎる。

 すべての学生の自己責任ですませてよいのだろうか。

 7割合格との触れ込みで入学し,高い授業料を払わされた,7割以上の不合格者たちが悪いのか。

 law school ではなく low school と揶揄されるような結果になった原因はどう分析されているのだろう。

 政策立案者が責任を負わなくてすむ仕組みを変える改革がまず必要なのではないか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より