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教師にとって,「壊していいもの」「壊してはいけないもの」とは

 とてもありがたいコメントをいただきましたので,ご紹介させていただきます。

初めてこのサイトを見ましたが、なんで教師に「壊れてもよい覚悟」を求めるんですか。
>我々教師だって幸福追求権を持つ人間ですよ。教師には人権がないとでも?
>夜の11時まで生徒のために尽くしたって、暴言吐かれるのが関の山なんですよ。だいたい「暴言なんて吐かれる方が悪い」で片付けられる。
>私は壊れたくありません。履き違えている上の世代が多すぎる。

 上から目線の返信としては,次のような言葉になります。

 なお,このブログを書き始めたのは,30代のころでした。

 「公務員」という職業に対する使命感というか価値観のズレがあります。

 日本国憲法「第10章 最高法規」の第99条に,こうあります。

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 国務大臣,国会議員,裁判官といっしょに一括りにされている公務員ですが,教師と「国民」との立場の違いは,「この憲法を尊重し擁護する義務」を負う側であるということです。

 ご指摘の通り,「国民」には,「第3章 国民の権利及び義務」の第13条で「幸福追求権」についても最大の尊重を必要とする,とされています。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 「国民」の「幸福追求権」を尊重するために,現在でもさまざまな法案の検討が国会で進められていますが,審議や決議は夜中に及ぶこともあります。国会議員や職員たちが「私は,早く帰りたい!」と駄々をこねないのは,それが「国民の権利を尊重する」ことにつながっているからです。それでも,野党の議員をはじめ,「反対意見」はあるわけで,「反対派」側からすれば,いくらでも文句を言いたいというのが政治の世界です。

 教育公務員にとっての憲法擁護義務は,国会議員たちよりも「軽い」のでしょうか。

 私はそうは思いません。

 国会議員たちは,暴言を吐かれて,「私には人権はないのか?」と言い返すでしょうか。

 夜中まで議論を続けて,「私には幸福追求権はないのか?」と苦情を言うでしょうか。

 むしろ,夜中になっても話し合いが続けられる環境というのは,「国民」にとってはありがたいのではないでしょうか。

 ・・・・・・・・・なんていう言葉で納得していただけるはずはないでしょう。

 まずは,大前提となることを1つ申し上げます。

 教師は,絶対に体を壊してはいけません。現場に立てなくなり,子どもたちや同僚,場合によっては自分の家族にまで迷惑をかけますから。

 私の恩師の一人は,常々こう言っていました。

 「教師にとって大切なのは,1に健康,2に健康,3,4がなくて5に健康。指導力はその次」

 私も同じ意見です。

 「壊れてはいけないもの」には,子どもや親との信頼関係などもあります。

 では,「壊れてもよいもの」とは何でしょうか。

 それは,「過信であったことがわかる自信」「どうでもいいプライド」「古い価値観」「固定観念」「自分への甘さ」「どうでもいい人間との関係」などです。これらはむしろ「壊すべきもの」でしょう。

 コメントをいただいた方については,今,生徒との信頼関係が壊れている,あるいは,築けていない,と判断して,返信させていただきます。

 あなたは何のために,教師になられたのでしょうか。

 教師として,子どもに何を最も伝えたいのでしょうか。

 子どもと自分との関係を,どのようにしたいのでしょうか。

 あなたの学校の教育目標は何でしょうか。

 あなたが教えている教科の目標は何でしょうか。

 学年目標や学級目標は何でしょうか。

 その目標を実現するために,あなたや同僚の教師たちは,どのような指導を子どもにしているのでしょうか。

 指導の評価とその見直しを,どのように進めているでしょうか。

 子どもに対する評価は保護者にどのように受け止められているでしょうか。

 子どもの成長に役立つ評価とは,どのようなものでしょうか。

 校長先生は,あなたのことはどのように評価しているでしょうか。

 人材育成の役割を担うべき主幹教諭などは,あなたに対してどのような指導をしてくれているでしょうか。

 あなたはどのような本をどのくらい読まれているでしょうか。

 あなたが習った教師たちも,あなたと同じような思いを抱いていたのでしょうか。

 あなたが学校で最も尊敬し,信頼している教師なら,あなたにどのようなアドバイスをしてくれるでしょうか。

 あなたにとって,健康以外で「壊していけない」ものは何でしょうか。

 あと100個くらい質問がありますが,この「質問」が,いただいた貴重なコメントへの「答え」です。

 国民の生命,自由及び幸福追求に対する権利を尊重することが,公務員の義務であるため,警察官や消防官のように,自らの自由だけでなく生命をも失うリスクを背負っている人もいます。人命を救助しても,自分が死亡したら,家族は悲しみます。しかし,危険な現場に立ち寄らない,という警察官や消防官はいないと信じています。これは,私の意見です。ですから,「こんな教師にはなりたくない」という方は,このようなブログは「読まない」ことをお薦めします。 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より