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「罰」を受ければチャラになる,という発想の人間なら,「もう罰は受けている」と開き直れる

 子どもが問題行動を起こしたとき,

 「罰を与えないと気がすまない」という人間がいる。

 学校の場合,「体罰」は法律で禁止されているから,「厳重注意」などで終わるわけだが,

 子どもや教師の中には,「それでチャラになった」と考える人たちがいる。

 だから,問題行動に歯止めがきかない。

 「指導を継続する」のが正解である。罰を受ければ反省する,という浅はかな期待は消すべきだろう。

 だいたい,もし自分が不服に思うような処分を受けたら,「罰」を下した人間に恨みを抱くだろう。

 指導力のない教員と,子どもの問題行動が繰り返される関係がどうして断ち切れないかは,この「負のスパイラル」でも説明がつく。

 「お前は退場処分になったんだから,すでに罰は受けている」という趣旨の「慰め」を監督がしたらしいが,

 こういう発想で「反則」を故意にさせる監督やコーチからは,「資格」を永久に剥奪することが一番よい「罰」だろう。

 問題行動を起こしている子どもも,心に傷を負っている,という共感性を持たずして,現場に立ち続けることは許されない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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