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私が信用しない教師のタイプ

 新学習指導要領に関する本を読んでいると,こんな文章に出くわすことがある。

新学習指導要領では,講義中心から子どもが主体的に学ぶアクティブ・ラーニング型授業への転換が肝になる。

 書き手は,平成元年版,10年版,20年版の学習指導要領を読んだことがない,という人ではないはずであるが,それらのもとでの実践が「講義中心」だったということだ。

 こういうことを書く教師は信用できないし,子どももからも信用されていない事実の根拠にもなる。

 そもそも義務教育で,「講義中心」で授業をして,それが成り立つような環境があるはずもない。

 居眠りや遊びをしながら聞き流せる大教室での授業をしている大学のセンセイと,義務教育の現場の教員では環境が全く異なる。

 少なくとも授業者と子どもとの間でのやりとりがほとんどない「授業」を意味する「講義中心」では,何が成立しないか,本の原稿を頼まれるくらいだから,わかっているはずである。

 確かに,今回の新学習指導要領では,「内容」だけではなくそれを身に付けるための「限定的」な「方法」も示されている。しかし,総則等で従来示されてきた「留意点」もたくさんある。

 ではなぜ「~中心から~へ」という「話法」が使われるのか。発想の源は何か。

 単純な話である。「商業主義」だ。本を売るための「宣伝文句」である。

 英語教育や道徳教育が「商業主義」にまみれているせいで,「公教育」が穢れに満たされてしまっている。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より