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日本語は筆の力が物を言う

 新しい社会人には,「コミュニケーション能力」が強く求められている。ということは,現役の社会人から見て,新人たちには「コミュニケーション能力に欠けている」という認識があるということである。

 学校現場のせいにされるかもしれないが,「ホウレンソウ」は子どもたちにも常に求めているところである。

 クラスであったこと,検討中の行事への取組など,自主的に進めていることのうち,担任やクラス全体で共通認識を持っていた方がよいことは,「帰りの会」で報告したり,連絡したり,相談したりする習慣をつけている。

 口頭で伝えるだけで,メモを取らないと,その内容が残らない。だから学級日誌にホウレンソウの内容はしっかりと記述もさせている。「記録」の習慣も学校教育ではつけさせている。

 ホウレンソウを欠かさず行うというコミュニーション能力も大切かもしれないが,そもそも伝えるべき内容を把握していなければ,コミュニケーションも何もない。

 どう伝えるかよりも,何を伝えるかの方が大事である。

 その「何」に当たることが,学習の場面では,頭の中にではなく,本(教科書や資料集を含む)やインターネットで検索されたもの,教師が配った教材にあるのが学校というところである。

 それらから自分なりにつかみとった内容を,まずは自分の手を使って書く。

 たったこれだけで学力は向上させられるのだが,教師が子どもの言葉を聞きながら黒板に書いてしまったり(黒板に書くと生徒は「写す」だけで終わってしまう),言葉のやりとりだけで終わってしまうから,雄弁なのにテストができない,という子どもが増えてしまう。

 先週末に,雑誌のセミナーに参加し,講演後に御礼を伝えた記者の方が,教員であることがわかる私の名刺をご覧になって,「話すのが上手でなくて」と恐縮されていた。内容に集中していた私には,「伝え方の上手・下手」などは全く関心の外にあった。

 かつて,ある大学の教授が学会の全体会で講演したときは,伝え方のお粗末さに辟易とさせられたが,内容がわかりきったものであることや,そもそも「文字が小さすぎて見えないプレゼン」で話していたから,「わかっている自分だけで満足しているダメな教師」の典型としか見えなかった。

 それに対して,地道な取材に基づいてとても興味深い記事をつくっていらっしゃった記者の方に対しては,敬意しかない。

 日本語は,筆の力が物を言う言語であることを改めて認識すると同時に,「音声言語」である外国語の学習がなぜ苦手なのか,「会話」を重視する外国語の教育がなぜ失敗するのかがよくわかった。

 繰り返しになるが,「話す聞く」ではなく,「読み書き」を重視した小学校の英語教育で成功している地域がある。

 学習指導要領からの逸脱によって,よりよい成果が導かれる場合,教育委員会としては板挟みになるわけだが,良識のある教育長ならむしろ成果がある方をナショナルカリキュラムにすることを提言するだろう。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より