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2018年4月

朝鮮半島の統一

 「朝鮮半島情勢」という言葉から連想されるイメージは,北朝鮮の核開発や南北の対立といった負のニュアンスのものが一般的であった。

 とうとう,「時刻の統一」が実現する。

 今まで主にマスコミ等によってつくられてきた「イメージ」が,「事実の報道」によって塗り替えられようとしている。

 日本にとっては,「拉致被害者の救出」が長年の責務であり,外交の手腕が問われるタイミングである。

 アメリカがどう出るかによって態度を選ばなければならないような従属国だとしたら,すべてが後手後手にまわることを覚悟しなければならないが,先手を打つチャンスをもっている政党もあるはずである。

 ロシアや中国の動きを眺めているうちに,日本だけが「仲間はずれ」になる構図が予想される。

 こういう最悪のシナリオを想定しないことにする国が,いつまで「もつ」だろうか。

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日本語は筆の力が物を言う

 新しい社会人には,「コミュニケーション能力」が強く求められている。ということは,現役の社会人から見て,新人たちには「コミュニケーション能力に欠けている」という認識があるということである。

 学校現場のせいにされるかもしれないが,「ホウレンソウ」は子どもたちにも常に求めているところである。

 クラスであったこと,検討中の行事への取組など,自主的に進めていることのうち,担任やクラス全体で共通認識を持っていた方がよいことは,「帰りの会」で報告したり,連絡したり,相談したりする習慣をつけている。

 口頭で伝えるだけで,メモを取らないと,その内容が残らない。だから学級日誌にホウレンソウの内容はしっかりと記述もさせている。「記録」の習慣も学校教育ではつけさせている。

 ホウレンソウを欠かさず行うというコミュニーション能力も大切かもしれないが,そもそも伝えるべき内容を把握していなければ,コミュニケーションも何もない。

 どう伝えるかよりも,何を伝えるかの方が大事である。

 その「何」に当たることが,学習の場面では,頭の中にではなく,本(教科書や資料集を含む)やインターネットで検索されたもの,教師が配った教材にあるのが学校というところである。

 それらから自分なりにつかみとった内容を,まずは自分の手を使って書く。

 たったこれだけで学力は向上させられるのだが,教師が子どもの言葉を聞きながら黒板に書いてしまったり(黒板に書くと生徒は「写す」だけで終わってしまう),言葉のやりとりだけで終わってしまうから,雄弁なのにテストができない,という子どもが増えてしまう。

 先週末に,雑誌のセミナーに参加し,講演後に御礼を伝えた記者の方が,教員であることがわかる私の名刺をご覧になって,「話すのが上手でなくて」と恐縮されていた。内容に集中していた私には,「伝え方の上手・下手」などは全く関心の外にあった。

 かつて,ある大学の教授が学会の全体会で講演したときは,伝え方のお粗末さに辟易とさせられたが,内容がわかりきったものであることや,そもそも「文字が小さすぎて見えないプレゼン」で話していたから,「わかっている自分だけで満足しているダメな教師」の典型としか見えなかった。

 それに対して,地道な取材に基づいてとても興味深い記事をつくっていらっしゃった記者の方に対しては,敬意しかない。

 日本語は,筆の力が物を言う言語であることを改めて認識すると同時に,「音声言語」である外国語の学習がなぜ苦手なのか,「会話」を重視する外国語の教育がなぜ失敗するのかがよくわかった。

 繰り返しになるが,「話す聞く」ではなく,「読み書き」を重視した小学校の英語教育で成功している地域がある。

 学習指導要領からの逸脱によって,よりよい成果が導かれる場合,教育委員会としては板挟みになるわけだが,良識のある教育長ならむしろ成果がある方をナショナルカリキュラムにすることを提言するだろう。

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道徳教育のQ&Aに見る初期症状と末期症状

 中学校では特別の教科・道徳の教科書採択の年になったから,「教科書」や「道徳授業」への関心が高まっている。

 教科書会社などは,小冊子で道徳教育に関するQ&Aなどをまとめるなどして(執筆は大学のセンセイか現場の教員),現場の教師の要望に応えようとしている。

 しかし,その内容を読む限り,「そもそもどうして道徳教育をしなければならないのか」という「理念」というか「教育哲学」に基づいていないため,道徳に限ったわけではない授業の「型」の供給に終始している。「指導案作成至上主義」という誤った授業観が導く,「失敗が約束された努力」である。このような状況では,おそらく道徳はおろか,普通の教科の経営までもが危うい気がする。

 中学校1年生に小学校での「道徳」の授業の思い出や感想を聞くと,

 「先生の長い話を聞かされる授業」

 「DVDばっかり見ていた」

 「ドッジボールをしていた」

 といった答えが毎年返ってくる。

 特別の教科になって,何が変わるのか。

 ただでもらえる教科書ができたことだけか。

 『心のノート』や『私たちの道徳』では何が足りなかったのか。

 「ドッジボール」で遊ばせた方が,よほど道徳性が身に付く,という教師の主張は完全否定されるのか。

 Q&Aからは,「道徳教育の崩壊」のシナリオが見える。教科の授業がまともにできない教師に向けての「型」の解説に終始するという初期症状から,教育の息の根を止める威力のある「道徳性の評価」という末期症状まで。

 「開かれた教育課程」に道徳教育がどのように位置付いていくか。

 地域に開かれていても,子どもたちには閉じてしまっているようでは,だれのためにカリキュラムがあるのかわからなくなる。

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「暗記型か思考型か」などという幼稚な比較をしているうちは,まともな教育はできない

 暗記だけ,思考だけという教育はあり得ません。

 暗記はなし,思考はする,という教育も不可能です。

 暗記ばかりで思考の場面がない,という批判があっての教育改革なのでしょうが,「させられる思考」「型にはまった思考」では意味がないので,「思考」の質も大いに問われる必要があります。

 歴史教育では,過去の出来事を主な題材としているために,だれでも「流れ」をつかむことができます。

 「流れ」のつかみ型は多種多様で,人物の決断に焦点をあてた場合,対外関係に焦点を絞った場合,経済活動との関連を重視した場合など,切り取り型によって多くのストーリーが語れるわけです。

 単純に「暗記」していたことが生かされる場合もあるし,死んだまま眠る場合もありますが,「暗記」したことがストーリーだった場合,後で別のストーリーとの類似性や相違点が見つかると,そこで「生きた知識」として活用されることになる。

 知識も何もない場所では,「思考」に生かせるものは何もないわけです。

 新しい学習指導要領風に言えば,「見方・考え方」を働かせるための「場」が必要で,それは「教科書の内容」でもいいし,教師が提示する資料でも,あるいは子どもが主体的に探してくるものでもかまわない。

 暗記型だけの学習をしたとしても,どこかでそれを活用する方法を知ることで,「思考」のための材料に変えることができますから,新しい入試では,「暗記したことを,自分なりの指標で整理し直す力」を測定する,という制度設計をすることが考えられます。

 学校でもし「自分なりの指標で整理する」時間をとってしまうと,インプットできる情報が減りますから,できあがりの質も落ちるでしょう。

 ですから学校教育には「多くを求めない」ことが,最終的には成功に結びつくのかもしれません。

 塾産業は,「量で勝つ」という「成功方程式」で合格を約束することで経営が成り立っています。

 総合的な学習の時間が趣旨通りに実施されていない学校で,「見方・考え方」を働かせる学習を保障するのは不可能でしょう。

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「一呼吸おく」ことの大切さ

 まだ仏教関係の本以外で,「アンガ-マネジメント」に関するものを読んだことはないが,教育書を読んだり読み返したりすると,特に生活指導に関する話題があれば,「アンガ-マネジメント」の手法に自然とふれられていることに気づく。

 読書編で紹介した『問い続ける教師』(学事出版)では,苫野一徳さんがモンテッソーリのエピソードを紹介した後で,次のように述べている。

>さまざまなトラブルが起こった時,私たちは条件反射的に叱り飛ばしたり矯正したりするのではなく,まずは一呼吸おいて,これをチャンスととらえる練習をしてみたいものだと思います。

 中学校の生活指導では,「瞬発力」が求められるため,「間髪おかず」が大事な場面も多いのだが,状況判断を誤ると,無関係の生徒を叱ってしまう可能性がある(・・・私もかつて,中学校時代に人違いで殴られた経験をもつ一人である)。こういう注意とは別に,子どもたちの成長を願う教育,自立を促す教育,主体性を育てる教育,という視点で考えると,「今この場のこの行動には,この生徒にとってどのような意味があるのか」を考える「瞬間」が必要なのである。

 「一呼吸」という「長い時間」があれば,いろいろなことが頭の中で回転する余裕がある。
 
 「我を忘れる」ような事態になったときに,「一呼吸」の間で何ができるようになるかを考えていくことには,とても意味がありそうだ。

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「偉くなる」つもりがなかった人の習慣

 地位のある人には,「軽い発言」は許されない。たとえ,宴席,酒席の場でも。

 一昔前は,そういう席で「軽い発言」が堂々とできる人が「地位の高さ」の証明だったのだろう。

 時代の変化から取り残されている場所がどこなのか,なぜそこなのか,を考えてみる必要がある。


 ある省庁で,「偉くなる予定ではなかった人」が,

 「偉くなったときのこと」を想定していなかったために,

 急に地位が上がってしまってもそれまでの習慣で「軽い発言」をしてしまう事態が起こっており,困っている,というニュース解説を耳にした。

 
 別の省庁では,「一番偉かった人」が,伸び伸びとご自分の主張を述べている。

 官僚の世界からすると「非常識」で「問題児扱い」されるこちらの方は,

 民衆感覚では「本当に偉い」と感じてしまう。

 
 日本の報道の世界では,「偉い人」たちをこき下ろすことが民衆感覚的に受けがよいので,

 とても熱心で躍起になっているように見えるが,身内でも同じような問題が起こっていないのかどうか,

 しっかりとした検証をすべきだろう。

 
 パワハラする側,セクハラする側が,「これはパワハラではない」「これはセクハラには当たらない」などと言っているため,「認知テスト」の第一問目から間違っている,という状況が手に取るようにわかる。
 
 どこかの省庁では「研修」を実施するようだが,忘れてはいけないのは,

 ペーパーテストでは正解できるが,行動では誤りばかり犯す,というのがその世界によくある人間のパターンであることを,まずは共通認識として持っておくべきだろう。

 「問題が起こった」→「研修をした」というパターンから抜け出せる仕組みをぜひ提言してほしい。

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量より質が大事なものと,質より量が大事なものとは?

 量の多い少ないに限らず,質がよければよいに越したことはないのですが,実際には高い質を常に求めるのは難しい。だから成果を出そうとすると,みんな「量」に頼ろうとします。中学校で言えば,たとえば部活動の「時間」です。

 「~の時間」と呼んでいるくらいですから。野球部など,強いチームになると,休日の活動は朝9時に始まって午後4時まで行うなどというのは普通にあり得ます。高い「質」の練習をしていても,強くなろうとすれば,「量」も増えていきます。

 学校のカリキュラム一般も,「質」より「量」を優先しているのですが,

 当たり前の話,「量」を確保しても「質」がよくなければ,単なる「時間の浪費」になってしまいます。

 ただ,教育課程の実施状況の調査で,「浪費した時間」の集計は行っていません。

 「質」の評価は簡単ではないので,基準をつくるのも一苦労ですから。

 「時間をどうやったら生み出せるか」という「考えても無駄」であることが多い思考を学校では強いられます。

 本当は,「質をどうやって高めるか」を考えさせた方が,よい結果が望めるのですが,

 「働き方改革」では,こういう創造的なことを考える時間すら削られていきます。

 学習指導要領は,「標準時数」というのを定めてありますが,実はこれが「諸悪の根源」です。

 今や,大学の授業までもが「決められた時数を下回らないことが重要」となり,祝日に授業が入ったりもしています。

 「時間を費やしたのだから,教育はしたことにできる」と考えるのは,学校現場的な感覚ではアウトですが,事務の発想としてはアリです。

 学校現場は,効果が出せなかったときに,「標準の時間には足りませんでした」というと,「そのせいですね」で言われて,完全にアウトです。

 だから「時間だけは守る」ことにあくせくして,結局成果が上がらずに疲弊しているのが学校現場です。

 量(時間)の話だけは,全国共通で同じ尺度で測れるのですが,授業参観で唖然とするような実践が行われている場面に出くわすと,その「意味のなさ」を実感できます。

 いつの日か,教育の「質」が語れる学校が出現してもらいたいものです。

 実際には存在するのですが,授業時数を堂々と公開することができないので,「知っている人だけが知っている」まま終わるか,こういう学校ですら,「標準時数」を確保することを強いられ,教育が破壊されていくのだと予想しています。

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学校の評価・評定は,本当に適切なのか~中学校別評定割合一覧からわかること

 東京都教育委員会では,都立高校入試につかわれる調査書(内申書)の評定の一覧を公開している。

 ある区には中学校が2校しかないから,各年度の3年生の評定分布がわかってしまう仕組みになっているが,苦情などはないのだろうか。

 次のグラフは,平成30年度入試に使われたある2校の英語の評定割合を比較したものである。

Ws000046

 A校の英語で「5(十分満足のうち,特に優れた者)」の割合は全都的に見ても高く,31.6%である(全都の平均は15.0%)。

 A校の評定が「甘い」わけではなく,A校にはB校と比べて優秀な生徒が集まっている,という「前提」で入試を行わないと,「大変なこと」になる。もしもA校の評定が「甘い」=「適切ではない」ことが証明されると,A校出身で都立高校を受験した生徒の入試得点が誤っていたことになり,合否判定をやり直さなければならないからである。

 では,すべての学校が「適切な評価・評定を行っていること」は証明できるのか?

 東京都教育委員会では,中学校の評定割合で「特異な評定状況」を示している教科のある学校と,その教科を示している。

 たとえば「すべての教科で1の評定がついていない学校」が,港区に4校(8校中),文京区に6校(7校中),世田谷区に8校(28校中),八王子市に11校(35校中)ある。

 「5と4の評定の割合が80%以上の教科がある学校」が,千代田区に美術で1校(2校中),文京区に音楽で1校(7校中)ある。

 都は,「特異な評定状況」が「適切な評定状況」であるかどうかの調査はおそらく行っていない。

 「適切な評定であること」は,「成績一覧表」を提出した時点で,校長印によって確認している。

 それなのに,「特異な評定状況」を公開しているのはなぜか。

 「評定割合の一覧表」を見ると,「明らかに怪しい」ことがわかる学校(教科)がすぐに見つかる。

 冒頭のA校とB校は,どの教科でも英語のような分布を示しているから,A校には優秀な生徒の割合が特に高い,ということになるのだろうか。

 たとえば,美術の評定分布を比較してみると,次のようになる。

 英語の成績と美術の成績に相関関係があるかどうかは知らないが,この美術の成績はとても怪しい。

Ws000057

 中学校や高校,そして教育委員会は,このような怪しげな「評価」をもとにして,入試の「合否判定」をしているのである。その精神的な負担たるや,もはや「働き方改革」などといったレベルでは済ませられないものがある,という声を上げられるのはだれなのか。区議会議員の方の中には,実際に動いている人がいるが,エビデンスをもっていないのが痛みである。

 上記の2校の美術の評価・評定のもとになった資料だけ,取りあえず調査してみてはどうか。

 私はA校の美術教師の指導力の高さが証明されることを望んでいる。優れた指導法を,ぜひ全都に広めることに尽力してほしい。

 ただ,ある教員がやっていた過去の評価・評定がすべて誤っていたとしたら,評価・評定を判定材料に使う過去の「入試」すべてが誤った判定をしていたことになるから,恐ろしいことである。

 多くの関係者は,「誤っていた事実がわかってしまう」ことを避けたい。

 しかし,学校やそこでの評価・評定はだれのためにあるものなのか。

 学校は何のためにあるのか。

 よく考えてほしい。

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コミュニケーション能力の乏しい人たちが考えるコミュニケーション能力向上策

 「ウソをついていることがばれないように振る舞う」というコミュニケーション能力を求められている人たちは,本当に気の毒である。

 隠蔽,捏造,虚偽,改竄と,自ら進んで,または上司からの命令でさせられる人たちは,人と人とのコミュニケーションをどう捉えているのだろうか。

 こういう人たちが提唱する「コミュニケーション能力の向上」とは,何を指しているか。

 これを子どもたちに身に付けさせよう,と真面目に思っているとしたら,本当に空恐ろしい。

かねてコミュニケーション研究においては,言葉で伝わる「言語的メッセージ」よりも,眼差しや表情,仕草や姿勢,雰囲気や空気を通じて伝わる「非言語的メッセージ」の方が,何倍も大きな比重を占めることが明らかにされている。しかし,残念ながら,最近のビジネスパーソンの多くは,「言葉をいかに使うか」「資料をどう工夫するか」という次元でのコミュニケーションしか考えない傾向がある。
 だが,そうしたことは,コミュニケーションの技法という意味では,初歩的な段階にすぎない。(田坂広志著『深く考える力』より)

 教員である私は,「非言語的メッセージ」のことを「オーラ」と表現して,新入部員が入ってきたときに,「一番すごいオーラをもった先輩についていけ」というメッセージを(上級生がいる前で)伝えている。

 「何を言ってくるか」ではなく,「どんな姿を見せてくれるか」が大事である,というメッセージである。

 それは教員自身にとっても問われてくる。

 私は3年間の行政経験があるが,そこで体験した忘れられないことの一つが,「脳の一部が壊死していく感覚」であった。

 子どもたちの「言葉」はもちろん,「オーラ」や「行動」から様々なことを読み取りながら生活をしていたのが,「オーラ」を押し殺す人たちの集団に入ってしまったために,感覚を研ぎ澄ます必要がなくなってしまったからである。

 「答申」「通知」「通達」「命令」などによって行動する原理をもった世界における「コミュニケーション能力」は,せいぜい正確な「ホウレンソウ」くらいしかない・・・とまで言い切ると言い過ぎだが。

 「忖度」という非言語能力の機能だけを体得した人たちが,退職後に生かす場がなくなるのは寂しそうだ。

 「相手の質問をいかにはぐらかすか」「いかに答えずに済ますか」という場面だけが報道でクローズアップされている人たちは,とても気の毒な気がするが,「それが仕事だ」という印象から,「官僚は国家や国民の未来を守る気概で動いているんだ」という理念は絶対に見えてこない。

 各省庁から,どんどん情報が外に出てきている。これを「官僚の反乱」などと表現する人もいるが,「自壊する国家のパターン」を示すことよりも,「政治家ではなく国民を守る官僚の力」の事例になるように頑張ってほしい。

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成績(評価・評定)管理の不徹底問題

 入試をめぐっては,様々な問題が発生する。主なものは,次の3つである。

 1 入試問題の誤り・・・作問者のミス

 2 入試問題の採点の誤り・・・高校入試なら,高校の教員のミス

 3 入試に用いる調査書(内申書)の評定の誤り・・・高校入試なら,中学校の教員のミス

 やっかいなのは,入学選抜や進学が終わってから,これらの誤りが見つかるケースである。

 大阪では,府立高校入試に使われた市立中の調査書(内申書)データに誤りがあったことが見つかり,本来,合格になるべき生徒が不合格になっていたことがわかった。

 過去にも同じようなミスがあった可能性もあるだろうが,開示請求などがなければ見つからないという問題もある。

 再発防止策については,本来学校がやるべきチェックをすればよい,というだけの話で終わるのが2と3である。

 ただチェックする能力がない場合があるというのは,再発防止策の想定には入っていないだろう。 

 通知表のミスが発覚している中学校は,特に危ない。

 「エクセルの列や行をずらしてしまっただけです」などという言い訳で許されると思っている教員がいる学校は危ない。

 そもそも評価・評定自体が正しいのか,という問題は,「考えてはいけない問題」とされているらしいところが,学校現場としては一番つらいところだろう。

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横浜市立学校の「教職員の働き方改革プラン」

 副題に,「先生のHappyが子どもの笑顔をつくる」とある。

 横浜市教育委員会が,この3月に策定したプランには,具体的な「工程表」が示されており,かなりの予算措置も必要そうだが,2022年までにすべてが実現すると,横浜市で働く魅力が高まり,教員の志望も増えていくだろう。

 「原発避難でのいじめ」でイメージが悪くなった横浜市だが,教育の未来は暗くはない。

 予算がない→子どもを育てる環境がよくない→子どもが減る→さらに予算が減る

 という負のスパイラルは,実は「予算を教育に重点的にふりわける」ことで抜けられる,ということに早めに気づいた自治体はまだ生き残れるかもしれない。

 重点戦略として「学校の業務改善支援」「学校業務の適正化,精査・精選」「チーム体制の構築と人員配置の工夫・充実」「教職員の人材育成・意識改革」の4つが挙げられている。

 「19時までに退勤する教職員の割合」を70%以上にする,などの数値目標も掲げられている。

 もちろん,前の記事で紹介したように,「5時台に出勤する」という人も出てくるから,「労働時間の短縮」にはならないかもしれないが,「太陽が昇って働き,沈むときには仕事を終える」生活には魅力を感じる。

 ○グループウェアの導入(今年度には250校の予定)
 
 ○学校ホームページのCMS化(今年度には445校の予定)

 ○職員室レイアウトの改善(私の2校目の勤務校で実施していたものと同じだった)

 すでに実施済みの自治体も多いかもしれないが,着実に前に向かう姿勢を教育委員会が示してくれるのは心強い。

 もし管理職の立場なら,各自の業務の進め方をグループウェアでチェックし,AIが人事考課をしてくれると「管理職の働き方改革」も実現できるかもしれない。

 過労死によって生かされる,というのも悲しいが,確実に大きな流れは起こっている。

 「ブラックな職場」の代表は官庁と学校であるが,保護者に「何でも要求するわけにはいかない」という自覚を芽生えさせている空気は,一部の教員たちにとっては「追い風」である。

 私のような「古い体質」の人間も,あと10年もすればいなくなるのだろう。

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再任用校長の「何でも言える」境遇が素晴しい

 定年退職した後も,校長を続ける人がたくさんいる。

 その数は本当に驚くほどである。

 副校長をみんな昇任させてしまうと,副校長が足りなくなるからだろうか。

 私は,再任用制度に反対はしないが,給料が低いのに責任は同じという立場が気の毒でならない。

 一方,再任用校長の中には,自分の希望というより,教育委員会からの「お願い」で続けている人もいるらしい。

 そういう立場からかどうかは分からないが,とても「口が軽くなる」人がいる。

 私の妻が小学校の保護者会に出席し,聞いてきた話が興味深い。

 ほとんど「愚痴」である。

 その対象は,大きく分けて2つある。

 1つは,新学習指導要領への移行措置に対する不満。

 もう1つは,「働き方改革」の流れからか,長時間労働をなくす,という号令がかかっているようで,

 帰宅時間を午後5時台にする,という目標を掲げているらしいのだが,

 (そのおかけで)「先生方は朝,5時台に来て仕事を始めている」とのことだ。

 12時間近い職場での拘束時間というのは,学校の常識であることがよくわかる。

 小学校の「登校班」への教師の付き添いの廃止なども決まったそうだ。

 「いつ辞めてもいい校長」の今後の「広報活動」に注目しておきたい。

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救命より伝統を大切にする相撲の世界の先行き

 「女性によって神聖な土俵が穢されること」を忌避する相撲の世界にも,いつか変化が訪れるときが来ると願っている。

 日本では,宗教や政治に関する話題を学校で口にすることも忌避されている。

 一方で,「異文化理解教育」とか「主権者教育」が大切だなどと言われる。

 道徳の授業としては,非常に典型的な「ジレンマ」を考えさせる教材として扱えるのだが・・・。

 今や,相撲界に遠慮する空気などどこかに吹き飛んでしまっている。

 こういう「好機」に変われるか変われないかが,「相撲」の未来にかかわってくるような気がする。

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「学級牢獄」の生活が始まる子どもたちへ

 教育を子どもたちにとって,気づいてはいけないことは,

 「自分たちにとって当たり前のことが,他の国(地域,学校)ではそうではない」

 という現実である。

 家庭の場合は,「自分の家庭とみんな同じような生活だろう」とは思わない。

 ある友達はお父さんがいないとか,いるけど実の父ではないとか,もっと裕福だろうとか。

 それに比べて「学級」は,どこでも似たようなものだと思っている中学生が多いのではなかろうか。

 先生がちょっと怖いとか,甘いとか,だかしないとか,暗いとか,ハイな感じとか,その程度の違いであって,黒板はあるし,机と椅子はほぼ同じようなサイズだし,ペラペラの上履きだってみんな同じで・・・。
 
 スポーツな得意な子がいて,勉強ができる子がいて,それぞれそうでないタイプもいて,友達が多い子がいて,実はLINEでつながっているだけで友達はいない子がいて・・・。

 日本における「違い」とか「個性」などは,その程度の幅しかないということは,よくよく考えると実はとても気味が悪いものだとは思わないだろうか。

 授業中に無断で教室から出て行こうとすれば,必ず呼び止められる。

 遅れて教室に入ってくれば,事情を聴かれるか,聴かれずにただ怒られるか。

 「学級活動」のあり方を示してくれる「教科書」はない。

 しかし,教師は「指導書」=学習指導要領の解説を持っている。

 小学校における「特別活動」の「学級活動」には,

 (1) 学級や学校における生活づくりへの参画
 (2) 日常の生活や学習への適応と自己の成長及び健康安全
 (3) 一人一人のキャリア形成と自己実現

 という3つの「内容」がある。

 学級とはどのような能力を身に付ける場所なのか,ピンと来るだろうか。

 (3)の項目は3つあり,

  ア 現在や将来に希望や目標をもって生きる意欲や態度の形成
  イ 社会参画意識の醸成や働くことの意義の理解
  ウ 主体的な学習態度の形成と学校図書館等の活用

 を教師は意図的・計画的に指導してくる。

 それが「指導」に値するものなのかどうか。

 ただ言いつけやルールに従っているだけなのかどうか。

 「主体性」とは何か。

 学級が「自己実現の場」なのか,「牢獄」「監獄」に過ぎないかを判断する基準はそこにある。

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教員の「働き方改革」騒ぎでモチベーションを下げる罪

 たとえば中学校の教員には,45分の休憩時間を自由にとる余裕はない。

 給食指導から生活指導,ときには清掃が入ったり,授業の準備をしたり,提出物のチェックをしたり,プリントを印刷したり,行事の打ち合わせをしたり,分掌の小さい会議があったり,部活動関係で外部と連絡を取り合ったりしているうちに,午後の授業が始まる。

 いかにも「忙しい」雰囲気が出てしまう時間帯であるが,生徒が自由に相談したり質問したりできる時間も昼休みに限られるため,良き教師は「忙しそう」にしない。

 緊急の事故や厄介な生活指導が入らない限り,生徒の声に耳を傾けるのが教師の義務だろう。

 「働き方改革」を事務方の発想で行うと,必ず「他人をこき使えばよい」という話になる。

 こういう発想の「改革」は目障りでしかない。

 成果は,「学校にいる時間の短縮」に過ぎない結果になるのは,目に見えている。

 行き帰りの荷物が重くなって,疲労度の方が増えるばかりだろう。

 
 一度,教育学部の大学生などに,どんな業務をどのくらいの手際よさで教師が片付けているかを調査してもらえるとありがたい。30人教師がいる学校なら,30人の大学生が必要である。

 意外なデータが出てくるかもしれない。大学生にとって,

 「中学校教師の仕事は,たかが知れている」と思える結果になるかもしれないし,

 「こんな仕事は自分には無理だ」と驚く結果になるかもしれない。

 あとは教師は何を見ているか,というデータの集積である。

 授業中の教師の目の先にあるものを,細かく分析するような暇な仕事は,大学のセンセイにしかできないだろう。

 生徒と黒板と教科書と窓の外。難しいのは生徒の場合である。

 全体を見ているようで,個人の動きを見ている場合もあるし,

 個人の動きを見ながら,全体を把握しているかもしれない。

 ただ,できるだけ「どこ」を見ているかを調べてもらえると,自分では気づけない「無駄」や「無為」を探り出せるかもしれない。

 一時期,ビデオを撮影してそれを分析するという時間が有り余っている人の仕事を見たことがあるが,実は目の動きというのは非常に早く,メモでは追いつけないことがわかる。

 それでも「何を見ているか」を探ろうとする努力を,一度,してみてほしい。

 勤務の実態は,そういうところで把握すべきである。

 時間が長いとか短いではなく,「何をどのくらいの時間,見ているか」で。

 調査のときだけ真面目にやる人ですら,驚くべき結果が出てくると思われる。

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言いたいことが言える教育を

 教員は,「おじいさんやおばあさんを敬う気持ちを育てる」という目標を持たされて,

 介護が必要な身内(家族)ではなく,高齢者一般を対象に道徳心を養わなければならない。

 ネットニュースで,小学校5年生の児童が,泣いている赤ん坊(その親?)を目の敵にする高齢者に残念な気持ちを抱いて新聞に投書し,それが取り上げられたことが紹介されていた。

 本当に小学生が投書したかどうかはともかく,

 「わがままな高齢者をどうするか」

 というのは,社会全体の許容力,包容力を高めるだけではすまない状況にあると思われる。

 寛容な心を欠いた高齢者に悩まされている人は少なくない。

 実際に,家庭でも同じような問題を抱えている児童はいるだろう。

 だから一方的に「おじいさんを敬う気持ち」を扱おうとすると,反発心しか子どもには芽生えない。

 和菓子屋さんだろうがパン屋さんだろうが,高齢者を働かせて当然と思っている人間のことはさておき,

 核家族の子どもたちにとって最も身近ではない血縁に抱く感情というのは,大家族時代のそれとは別物だろう。

 「特別な教科」になってしまった道徳が,キレる高齢者だけでなく,キレる児童たちを増やすのは目に見えている。

 「いじめ」の認定レベルは県によって完全にまちまちであり,その数が多いとか少ないとかいうことに全く統計的な価値はないのだが,「校内暴力」にしろ「いじめ」にしろ,覆い隠せないレベルの問題が今後どんどん増えていく。

 それを防ぐ方法は,もはや学校で学ぶのをやめるしかない,という結論にやがて行き着くだろう。

 「教科のように学ぶ」ことがいかにふさわしくないかということが,わからない人たちは,どういう育ち方をしたのか,聞いてみたい。

 「今日,とても情けない高齢者(先生でも,政治家でも,官僚でも,何でもよい)を見て,がっかりした」ということが新聞に対してでなく,学校で話題にできる方がよほど正常な世の中である。

 「昨日,校長先生が酔っ払って,ふらふらしながら歩いていた。部活動の指導にきたが,とてもお酒くさかった」

 こういう訴えを教員が聞いたときに,取るべき行動は何だろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より