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道徳の「評価」の原則自体が「ただの建前」「綺麗事」に過ぎない

 「特別の教科 道徳」が,小学校ではこの4月から,中学校では来年4月から全面実施となる。

 教科書については最後にコメントするとして,問題は「評価の充実」についてである。

 評価の基本的な方向性は,専門家会議が答申を受けて以下のように(一部のみ)示している。

●数値による評価ではなく,記述式であること。

●他の児童生徒との比較による相対評価ではなく,児童生徒がいかに成長したかを積極的に受け止め,励ます個人内評価として行うこと。

●他の児童生徒と比較して優劣を決めるような評価はなじまないことに留意する必要があること。

●個々の内容項目ごとではなく,大くくりなまとまりを踏まえた評価を行うこと。

 まさか道徳の授業の時間に,口先で述べたことや「正解」っぽく書いたものをもとにして評価する教師はいないだろう。子どもを見ていれば,「そうではない行動や態度」など,いくらでも見ることができるからである。

 道徳の授業のときだけ張り切る子どもがいたら,気持ち悪くないか?

 道徳の授業の最大の課題は,「そこでは偉そうに言っていたのに,授業で,行事で,部活動で,登下校中に,実行・実現できていない」か,「実行・実現する機会が実際にはない」ことにある。

 なぜ道徳教育が学校の教育活動全体の中に位置付けられていないといけないか,だれでもわかることだろう。

 「いかに成長したか」を受け止めるということは,「今までいかにできていなかったか」を前提としなければならない。

 そして,ある時点でできるようになったからと言って,今後の他の場面でもできるとは限らないことは,子どもの方がよく知っている。

 最近の子どもは,通知表をお互いに見せ合うことがある。

 だれかが特別な目で見られていないか,ひいきされていないか,軽い扱いを受けていないかを確認するためでもある。教師の側が「他の生徒と比較する」意図はなくても,子どもがお互いに評価を見せ合えば,そこに「優劣」が見えてきてしまう。

 道徳は,「比較して優劣を決めるような評価」がなじまないのはもちろんのこと,そもそも評価自体がなじまないことを忘れてはならない。

 綺麗事を言われるよりも,「できていないことはできていない」としっかりと指摘してもらって,改善への意欲を高めてもらうことを子どもたちはもちろん,保護者も求めている。

 もう一つ,道徳は,「目標・指導・評価の一体化」が必要ない時間だと公言されているのも気になる。

 道徳の授業は,内容項目ごとに教材が使われてきた。これからは内容項目ごとに教材が配列されている教科書が使われる。

 それなのに,評価は「大くくりなまとまり」を踏まえて行え,という。

 要は,教科書を使った毎週1時間の授業よりも,日頃の学習・生活全般のふり返りが必要なのであり,せっかく子どもが自律的に自らをふり返ろうとしても,「特別の教科 道徳」の授業では,教科書を用いた学習に拘束されて,特定の内容項目の面に限定して考えなければいけなくなる。

 「主体的・対話的で深い学び」をしようとするときに,教師の指導の自律性だけでなく,子どものふり返りの自律性も奪われてしまう恐れがある。

 教師がつくる年間計画に基づいて授業は実施されるから,子どもの側に取ってみれば,自主性や主体性,自律性などすべて剥奪されたもとでの時間になるのが「特別の教科 道徳」である。

 「教師の指導力向上」をもし本気で目指すのならば,教材を自分でつくったり探したりできる機会を与えるべきである。残念ながら,「教科」ではなかった道徳教育の世界に,「指導力」を語らせること自体が無理な相談なのだろう。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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