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金が金を呼ぶオリンピック

 タイトルの読み方は,「きん」が「かね」をよぶ,です。

 ここではテレビ局が視聴率を稼げる=広告収入を確保できる,金メダリストが食べていたものだったり,使っていた道具だったりが売れる,などといった意味ではありません。

 メディアを通して,メダリストがどれだけの現金収入を得ることができたか,というニュースが次々に報道されています。

 競技関係の協会から出されるご褒美(もちろんお金がなくて出せないところもある)をはるかに上回るボーナスが所属する企業からもらえたりする様子を見ると,「オリンピックのメダリストになればお金がたくさんもらえる」という印象が広められている気がします。

 すでにそういうケースがあるようですが,競技をする本人ではなく,親だったりが,「金目当て」に子どもを鍛えにかかる,という行動に出ないとも限りません。

 競技者にとっても,別に,「金目当て」をモチベーションにすることが,「悪」とはまでは言いません(寄付を目的にして頑張る人がいるかもしれませんから)が,私の価値観からすると,カネの話を公にするのは,非常に「醜い」という印象です。

 「金メダル」という,その競技者たちの頂点に立ち,お金に換えることはない価値のあるものを手にすることが目的であるアマチュアスポーツは,「スポーツを楽しむこと」が大切なのであって,プロのように「食べるための道具」「カネを稼ぐ手段」ではないことを子どもたちには理解してもらわないと困ります。

 日本では,国民一人一人が「スポーツをする」ことより,より多くの金を生む「スポーツを観戦する」ことの方に力が入れられている,というのはよく耳にする言葉です。

 もちろん,オリンピックを終えてプロになる人もいますから,その人が描くゴールは自由なのですが,「ご褒美の金額」は,ほどほどであることが,オリンピックの理念の尊さを穢さないためにも必要だと思います。

 ただ,ドラマ『陸王』でも描かれていたように,競技者にとって,「道具」たちは頂点に立つために非常に重要なアイテムになっており,無償で提供されている人もいる一方で,競技によってはスポンサーもつかず,代金をきちんと払って経済的に厳しいところもあるでしょう。ですから「金をもらうな」というは酷かもしれません。しかし,「金(きん)」がとれないと「金(かね)」がもらえない,というプレッシャーを選手が感じるとしたら,本当に逆効果になってしまいます。

 「メダリスト」という上位に入った人にはたくさんご褒美があって,それ以上に努力したり苦労したりお金をかけても結果が出せなかった人たちには,支援がない,という社会は,「美しい」社会でしょうか。

 かつて日本を「美しい国」と表現したことがある人たちは,どう思っているのでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より