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2018年3月

道徳の「評価」の原則自体が「ただの建前」「綺麗事」に過ぎない

 「特別の教科 道徳」が,小学校ではこの4月から,中学校では来年4月から全面実施となる。

 教科書については最後にコメントするとして,問題は「評価の充実」についてである。

 評価の基本的な方向性は,専門家会議が答申を受けて以下のように(一部のみ)示している。

●数値による評価ではなく,記述式であること。

●他の児童生徒との比較による相対評価ではなく,児童生徒がいかに成長したかを積極的に受け止め,励ます個人内評価として行うこと。

●他の児童生徒と比較して優劣を決めるような評価はなじまないことに留意する必要があること。

●個々の内容項目ごとではなく,大くくりなまとまりを踏まえた評価を行うこと。

 まさか道徳の授業の時間に,口先で述べたことや「正解」っぽく書いたものをもとにして評価する教師はいないだろう。子どもを見ていれば,「そうではない行動や態度」など,いくらでも見ることができるからである。

 道徳の授業のときだけ張り切る子どもがいたら,気持ち悪くないか?

 道徳の授業の最大の課題は,「そこでは偉そうに言っていたのに,授業で,行事で,部活動で,登下校中に,実行・実現できていない」か,「実行・実現する機会が実際にはない」ことにある。

 なぜ道徳教育が学校の教育活動全体の中に位置付けられていないといけないか,だれでもわかることだろう。

 「いかに成長したか」を受け止めるということは,「今までいかにできていなかったか」を前提としなければならない。

 そして,ある時点でできるようになったからと言って,今後の他の場面でもできるとは限らないことは,子どもの方がよく知っている。

 最近の子どもは,通知表をお互いに見せ合うことがある。

 だれかが特別な目で見られていないか,ひいきされていないか,軽い扱いを受けていないかを確認するためでもある。教師の側が「他の生徒と比較する」意図はなくても,子どもがお互いに評価を見せ合えば,そこに「優劣」が見えてきてしまう。

 道徳は,「比較して優劣を決めるような評価」がなじまないのはもちろんのこと,そもそも評価自体がなじまないことを忘れてはならない。

 綺麗事を言われるよりも,「できていないことはできていない」としっかりと指摘してもらって,改善への意欲を高めてもらうことを子どもたちはもちろん,保護者も求めている。

 もう一つ,道徳は,「目標・指導・評価の一体化」が必要ない時間だと公言されているのも気になる。

 道徳の授業は,内容項目ごとに教材が使われてきた。これからは内容項目ごとに教材が配列されている教科書が使われる。

 それなのに,評価は「大くくりなまとまり」を踏まえて行え,という。

 要は,教科書を使った毎週1時間の授業よりも,日頃の学習・生活全般のふり返りが必要なのであり,せっかく子どもが自律的に自らをふり返ろうとしても,「特別の教科 道徳」の授業では,教科書を用いた学習に拘束されて,特定の内容項目の面に限定して考えなければいけなくなる。

 「主体的・対話的で深い学び」をしようとするときに,教師の指導の自律性だけでなく,子どものふり返りの自律性も奪われてしまう恐れがある。

 教師がつくる年間計画に基づいて授業は実施されるから,子どもの側に取ってみれば,自主性や主体性,自律性などすべて剥奪されたもとでの時間になるのが「特別の教科 道徳」である。

 「教師の指導力向上」をもし本気で目指すのならば,教材を自分でつくったり探したりできる機会を与えるべきである。残念ながら,「教科」ではなかった道徳教育の世界に,「指導力」を語らせること自体が無理な相談なのだろう。

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子どもの人間関係に対する不感症の影響力

 言語ではなく目線や表情,しぐさだけで相手にシグナルを送るコミュニケーションが発達している日本では,「言語化されたもの」の分析だけでは何も分かったことにはならない。頭の中で考えてはいたが,口に出していないことが山ほどあるのが人間の思考というものである。

 「指示があったか」と言われて,証拠に残る「文字による指示」や「言語による指示」を想定するかもしれないが,じっと見つめられただけで,相手の意図を察することができることを「信頼関係」という。

 実質的には指示されていても,「指示はなかった」と言えてしまうのが日本におけるコミュニケーションなのである。

 だから,「いじめ」の特定・認定も非常に難しい。証拠は何も出てこなかったりする。

 むしろ,「いじめられた」と主張している側の「被害妄想」だと思われてしまう。

 担任教師には,非常に高度な感覚が要求されている。

 「空気を読む」「目を読む」技量が重要である。

 それが,当たっている場合も,当たっていない場合もあるだろう。

 「いじめ」を防ぐためには,当たっていないのではないか,と思われる事例でも,当たっているという前提で動く必要がある。

 「推定無罪」ではなく,「推定有罪」である。

 大事なのは,「いじめている」側に,悪い思いをさせないように留意すべきことを伝え,

 言いたいことがあれば言葉で表現させることである。

 日本では「無言の圧力」ほど恐ろしいものはない。

 教師が「いじめ」を疑っている雰囲気を出すだけで効果がある「初歩的」な場合もあるが,

 「いじめ」はない前提で話を進めているかのように思わせる技量も必要である。

 何も話していなくても,とても神経を使うのが教職という仕事である。

 「鈍感の極み」と子どもに思わせることができる教師が最強なのだが,

 もし本物の「鈍感」「不感症」だったりすると,すべての人に悲劇が訪れる。

 全く神経質には見えないのに,神経を研ぎ澄ます状態が維持できる・・・

 武道を必修にするのは,子どもよりもむしろ教師が取り組んだ方が効果があるかもしれない。

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労働時間の短縮より通勤時間の短縮を

 私は教員になったときから,「働く時間」よりも「通勤の時間」にこだわっていた。

 自営業を営む家庭で育ち,中学受験をさせられてひどいラッシュで通学しなければならない経験を6年間重ねたからか,

 「なぜ家から遠いところに勤めなければならないのか」という疑問を持っていた。

 自営業を継げば,通勤時間など1秒たりとも要しない。

 通勤時間など,人生の時間の浪費だと思っていた。

 大学は自宅から最も近いところを選び,アルバイトも自宅から自転車で15分以内で行ける範囲にある塾を選んだ。

 教員に採用されたとき,自宅から自転車で8分の中学校への赴任が決まったときは,とても嬉しかった。

 6年間勤めて,異動の希望は同じ自治体を選んだところ,入る希望がほとんどなく,出たい人ばかりだったからか,また5年間,今度は自転車で12分で通える中学校に着任した。

 この2校目の学校はとても荒れており,さらにこの中学校の場合は,教員は勤務時間が終わるとさっさといなくなっていった。部活動もさかんでなく,職員室を最後に出るのが非常勤講師の先生だったこともあるらしい。

 2校目の中学校が荒れていたのは,要するに子どもがエネルギーを発散する時間に飢えていたからで,授業で(教科だけでなく,道徳や特別活動でも)そのエネルギーが出せるように工夫していったところ,すぐに一定レベルの学力がつくようになり,子どもが生き生きし始めて,学校に楽しそうに通っていく姿を見た保護者の信頼を得て,他の地域から生徒が集まるような中学校に変貌していった。

 この中学校にいたことで困ったのは,区や都だけでなく,国の仕事も頼まれるようになり,学校で指導案づくりや報告書などを仕上げる時間が取られるようになったことで,自宅に帰れば塾のテキストや市販本の原稿を書いたりするアルバイトも増えており,寝る時間がほとんどなくなってしまったことである。

 しかし,たくさんの仕事を兼ねることができたのも,ひとえに通勤で余計な時間と体力を使わずにすんだおかげであった。

 さすがに学校以外の仕事が増えすぎて,出張が多くなってしまったときに,校長から教育管理職候補を選ぶ試験を受けるように言われ,「学校にこれ以上の迷惑をかける前に,指導主事になってしまおう」と思い,受験したら合格してしまった。

 赴任先は島だったが,驚いたことに,宿舎から歩いて何分もかからないところに役所があり,人生で最も短い通勤時間の生活を送ることができた・・・と思ったら,1週間に2回の出張が入ることがざらになり,片道2時間以上かかり,ほとんどの場合に宿泊を伴う生活になった。

 移動時間が長いと,ゆっくり本が読めることは魅力的だったが,1ヶ月に20万円近く出張費を立て替える生活を送りながら,やはり,「このお金は無駄ではないか」と思い始めた。

 私の自宅の前の公園の向こうに中学校がある。

 ここに勤めるのが今の夢であるが・・・。

 通勤費も税金で負担されている。もちろんご近所様の子どもの先生になりたくはない,という人もいるだろうが,電車で1~2駅過ぎれば全く別の地域になるはずである。できるだけ通勤費にかかる税金を節約してもらえないものだろうか。時間もお金も節約できる方法をぜひとも採用してほしい。

 もちろん,在宅での勤務が認められる流れも,今後拡大していくだろう。

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企業や学校のブラック化を防ぐ意味で,「皆勤賞」の廃止は有効的か?

 私はかつて高校球児で,土日の練習試合などにも休んだことはなかった。

 月月火水木金金の生活を送っていたわけである。

 高校の学校生活でも皆勤賞をとったことが,もしかしたら現在のブラック生活に結びついているのかもしれない。

 15年前に指導主事として教育委員会に勤務していたとき,学校から出欠席のことで質問があったので経験年数の長い方に問い合わせたところ,「まだ皆勤賞を出している学校があるのか」と言われたことがあったが,「何をどこまで出席扱いとするかでもめる」原因の一つが,「皆勤賞狙い」であることはよく知られている。

 また,体調が悪いのを我慢して登校してしまった生徒が,実はインフルエンザにかかってしまっていて,感染拡大の原因になる場合もある。


 欠席の日数が少なければ少ないほど,勤勉で体が丈夫な生徒であることが想像できる。

 遅刻もなければ,規則正しい生活ができる,信頼できる生徒だと解釈される。

 その究極のかたち,完全無欠のゴールが「皆勤賞」である。


 この「皆勤賞」というのを完全に廃止させることを文科省が指導すれば,日本人の「ブラック体質」は払拭できるだろうか。

 私はそうは思わない。なぜなら,そういう「ブラック体質」というDNAは,学校が育むのではなく,社会全体がもっている「伝統」だからである。

 面積はそこそこ広いものの平地が少なく,資源も少なく,海に囲まれている日本が社会を成長させたり維持させたりするためにとった戦略が,「長時間働くこと」だったから。

 土地(資本)や資源を海外に求め,植民地を拡大していった国々の成長戦略を真似しようとしたときにも,伝統的な「長時間働く」方法で成果をあげていったが,戦争に負けたことで,「働く時間を短くする」生き方を選択できなくなった。

 「働く時間を短くする」には能力を向上させるしかないのだが,能力が高くなった人にはどんどん仕事が舞い込んできて,働く時間はさらに長く,しかし,成果も大きくなって成長していく,というのが日本型の資本主義の仕組みになった。

 労働時間の短縮を実現するためには,富士山のように裾野の広い能力向上を推し進めるか,目の前の手にすることができる利益を放棄して,働くのをやめるしかないのだろうか。

 
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どのような都立高校が2次募集,3次募集をしているのか?(地方国立大の教員のウソ)

 地方の国立大学の教授がウソを書いているので一応,指摘しておく。

 「普通科の2番手校,3番手校が定員を割っている」

 などと書いているが,実際に大幅に定員を割っているのは,

 「下位校」だけである。

 学校数が多い東京都立高校の場合,模擬テストの業者が行っているランク分けは,全部で6つもある。

 都立トップ校(日比谷や西など)・・・偏差値72以上(偏差値は業者のもの)

 都立2番手校(戸山,青山,新宿など)・・・偏差値67以上

 都立3番手校(駒場,小山台,竹早,白鷗など)・・・偏差値62以上

 上位校(上野,江戸川,広尾など)・・・偏差値57以上

 中堅校(深川,雪が谷,飛鳥など)・・・偏差値46以上

 この下に,3次募集人数が36名と最多の八潮,

 34名の蒲田,31名の大森などの「下位校」がある。

 経営が苦しい私立の学校が授業料の実質無償化という政策で救われたことに間違いはないだろう。

 専門学科(今では「職業科」とは呼ばない)で定員割れした高校は普通科よりも多い。

 自身の著書の主張との整合性をとろうとして,虚偽の情報を流すのはやめてほしい。

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また官僚が嘘をついたのか

 私も行政に3年間身を置いていたので,事務方がどういう動き方をするのかはよくわかっている。

 議員からの要請があると,そのとき取り組んでいた仕事をすべて放置してでも,すぐに要請に応えようとするのが事務方なのである。

 前川氏がどこでどんなことを話しているかを,事務方が自主的に調べようとすることなど,まずあり得ない。

 そもそも前川氏がこの期に及んで自らが違法行為を働くこともない(事務方トップだった人をそこまで疑う神経もおかしいだろう)。

 授業の内容を文科省が知ろうとする理由は,少なくともそれを伝えなければならない相手がいるからである。

 命令があるから動けるのが事務方なのである。

 毎日新聞の報道によれば,前川氏の授業内容については,文科省に対して,国会議員からの問い合わせがあったということである。時系列に沿って,その後,文科省から名古屋市教委に照会がなされている。

 しかも,照会のメールに使われた文章は,だれかに質問されたそのままの内容をコピペして使ったと思われる「事務方らしくないもの」であった。これも,行政にいたことがある人なら,だれでもわかることである。

 議員の指示に従って,名古屋に問い合わせた,というのが真実なのだろう。

 事務方への議員からの照会メールが公開されれば,事務方は「本当はだれが悪い」と開き直ることができる。

 政治の透明化とは,議員が役所に何をどのように利用しているかが国民にわかる仕組みを作ることであり,メールのやりとりも含めてすべてオープンにすることを希望する。

 文科省は「あくまでも私たちの判断で行った」「照会があった議員の名は言えない」としているようだが,省内からは「執拗な要請で対応に苦慮していた」という声が漏れてしまっているわけで,政権政党から事務方が引っかき回されている構図が見え見えになってしまったのである。

 「官僚の嘘のつき方」というマニュアルが,霞が関の人たちだけのものではなく,国民全体に知れ渡ってしまった。

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財務省からのアクセス

 このブログに,財務省からのアクセスがあった。

 あらゆる発信源を探らせられているのだろうか。

 もし財務省に協力して関わった教育の内容についてだとすると,

 生徒の評判は悪かった,と記しておく。

 データに基づいてダラダラ話すのは官僚の癖であるが,

 文書があり,原稿があってそれを読めばよいとする,

 AI時代の敗者的な立ち振る舞いは,教育現場では通用しない。

 「勉強して出直してこい」といっても,自分たちは
 
 「それで通用した人間たち」だから,よくわからないのかもしれない。

 子どもを徹底的な批判者とか,怒りに燃えた政権攻撃のリーダーと

 想定して授業を構想すれば,もう少しましになったのかもしれない。

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国民不名誉賞の贈呈を

 国民名誉賞が政治の道具として使われているという批判がある。

 政治を批判したい人たちは,

 国民不名誉賞の贈呈式を企画したらどうだろう。

 不名誉賞をもらった人たちが選ぶ名誉賞の価値も地に堕ちてしまうが。

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東大現役合格者の情報から納得できたこと

 高校の卒業間近になって,中学校のときの教え子が会いに来てくれた。

 「節目節目できちんと挨拶に来ます」という律儀な青年は,東大に合格したという。

 十数名いるらしい中学校の同級生の東大合格者名を聞いて,今年はなるほど,と思った。

 考える基本がきちんとできているタイプのメンバーである。

 塾でちょちょっとやっていい成績をとる,というタイプの卒業生は落ちていた。

 表面的な知識だけでも,早慶なら合格できるが,東大はそうはいかない。

 東大の問題は,よく練られており,基本がわかっていればできる,という証明を卒業生たちがしてくれたことをうれしく思う。

 よく聞くと,早慶でも,落とすためのヘンな問題は少なくなり,東大に寄せてこようとしているらしい。

 万々歳である。教科書を隅から隅までなめ回すような下らない高校の授業を防止できる。

 最近の家は壁で重さを支えるタイプもあるようだが,せめて「壁」ができるような授業を受けている生徒たちに東大に受かってほしい。柱が立てられる方がよいのは言うまでもない。


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主権者激怒教育のモデル

 決裁文書書き換え問題のように,信用失墜によって法治国家としてのメンツを丸潰れにし,官僚が「はきちがえた忠誠心」をもっていることを白日の下にさらす事件は,主権者を激怒させるきっかけにはなるが,教育の面からすると,「そんな人間でも国家の中枢を担える」「国家の中枢に入れば,そういうことをさせられることになる」「バレないだけで,いくらでも同じようなインチキが行われているのだろう」という哀しい認識を醸成させていくことになる。

 学校でわずかな時間だけ,「主権者教育」をしている教師の中には,バカらしくてやってられない,と呆れかえる人も多いだろう。

 省庁のトップが責任を取ろうとしないその姿勢も,主権者を激怒させる原因の一つである。

 行政のトップも同様である。

 報道でもあるように,ことの発端は国会における首相の不用意な一言に尽きる。

 行政マンたちが,「関係があったのなら,職を辞する」というコメントの「関係」を拡大解釈して,安全策をとったつもりが,「やってはならないこと」「あってはならないこと」など,文書の世界にはない,という「常識」を大宣伝することになったのである。

 教育現場には,「これでもか」というレベルのインパクトの強い「道徳教材」がある。

 模擬選挙などやっている場合ではない。

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バレる嘘を平気でつくのは子どもだけではなかった

 すぐにバレる嘘や誤魔化しは,オトナの場合,「忠誠心」のなせる技なのか。

 最近,完全に嘘だとバレていても,堂々と主張できる子どもが増えてきていることが気になっていたが,親もそのレベルであり,国家の中枢にいる官僚までもが似たもの同士だったとは。

 先入観も多少あることは認めるが,国会中継を見ていて,「嘘をついているかどうか」が簡単に見破られてしまう人も増えている気がする。前長官もそうだった。

 ツジツマを合わせようとするための嘘が,どんどん自分のクビを締めていくのに,嘘をつくのが自分の使命であるかのような感覚で,誤魔化し続ける人たちが動かす国家とは何だろう。

 「国家を取り戻す」というスローガンができてもおかしくない状況である。

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上司から有印公文書を改ざん(偽造)しろと指示されたら,どれだけの部下が断れるか?

 たった1件の違法行為が,国家の信用を揺るがすこともあれば,たまたま一部の人間がやったことで,他の大多数は絶対にやらなかったはずだから,「事故のようなもの」と言えることもあるだろう。

 上司から,「組織を守るために,有印公文書を改ざんしろ」と指示されたら,どれくらいの部下が要求を突っぱねることができるのだろう。

 校長から,「この子の指導要録の成績(評定),1ではなく2にしておけ」と指示されたら,どれくらいの教師が書き換えずに教育委員会に相談することができるのだろう。

 初任者研修で,管理職の犯罪(セクハラ,パワハラなども含めて)を想定したシミュレーションをするのも何か悲しいものがある。

 日本は,実はまだまだ本当に「成熟」した国家になれていないのだろう。

 司馬遼太郎の作品をベースに制作された映画『関ヶ原』をDVDで鑑賞したが,石田三成は「不義」を嫌悪し,「正義」を貫いた人物として描かれていた。

 「不義なくば,世は統一できず」とでも言いたげな徳川家康は,三成と正反対で,醜悪な姿だった。役所広司でないと演じきれない役だったと思う。

 「正義は必ず負ける」というのが,政治の世界の常識なのだろうか。

 TVドラマなどは,「正義」の側が常に苦しめられ,追い詰められ・・・,しかし,土壇場で逆転する,というワンパターンの筋書きばかりだが,それは現実世界では実現しない正義に対する供養みたいなものなのだろう。

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各省庁が一斉に「教育」へと目を向けるとき

 今,経済産業省,資源エネルギー庁,厚生労働省,財務省から直接的な依頼を受け,それぞれが掲げる教育(授業づくり)にかかわる仕事をしているが,以前にも書いたように,文科省からの要請だけはお断りした。

 たまたまなのか,一斉に省庁が教育に目を向けるきっかけがどこかにあったのかはわからないが,官僚の世界にも「生き残り戦略」が必要なのだろうという気配はひしひしと伝わってくる。

 現在,最も注目を集めることになった財務省だが,事と次第によっては・・という事態に,本当の意味で慌てているのは上層部だけなのだろう。

 「おいしいおもい」ができない,下の階層の官僚たちにとっては,もしかしたら霞が関が変わる「よい機会」と受け止められているかもしれない。

 これからかなりの勢いで減り続けていく若い世代に,どのようなメッセージを残すことができるか。

 「不正行為」「違法行為」を働く人たちというイメージを,どうしたら払拭できるか。

 自分たちに都合の悪いデータを出せる組織が信頼に値する,という感覚は,ニュースを通して養うことがやりやすい。

 子どもたちに「ホンネ」がもらせる度量がある官僚に近づいてもらうことを楽しみに待っている。

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自分へのパワハラ

 自分という人間に対して最も強い権力をふるえるのは,自分自身です。

 しかし,多くの人は,その権力を放棄して,人の言いなりになって動く。

 自分という権力者が,どのような価値を重んじているか,一番よくわかっているはずなのは自分自身なのですが,

 「主体的な学びが大事」などと口にする人に限って,常にだれかの価値観に振り回されている。

 買ったり読んだりする必要のない本を薦められて,右往左往している姿が最も情けない。

 「これはパワハラか?」と思えるくらい,もっと自分に強く出た方がよいのではないか,と言いたくなる人たちがいます。

 「そんな強気な自分は嫌いだ」と思っても,そういう強気な自分に動かされない限り,教育の仕事など,つとまるはずはない,と言ってくれるのは,今の時代,自分自身だけかもしれません。

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子どもを幸せにする教師が否定される時代

 ひどい時代になったものです。

 教師も「幸せ」にならないといけない。

 それは個人的な意味で。

 「子どもの幸せ」を願って必死に現場で戦っている教師からカネを巻き上げているのは,いったいどういう人間たちなのか。

 今まで,まともな教師たちが,子どもたちの幸せを願って仕事をしてきたから,今程度で収まっているのです。

 一部の問題教師たちが起こすトラブルも,だれがフォローしているのかと言えば,

 子どもたちの幸せのために身を投げ出せる教師たちなのです。

 家で嫌がる我が子と戯れることが楽しみだという人間の,教育を語る言葉には,耳を疑いたくなります。

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金が金を呼ぶオリンピック

 タイトルの読み方は,「きん」が「かね」をよぶ,です。

 ここではテレビ局が視聴率を稼げる=広告収入を確保できる,金メダリストが食べていたものだったり,使っていた道具だったりが売れる,などといった意味ではありません。

 メディアを通して,メダリストがどれだけの現金収入を得ることができたか,というニュースが次々に報道されています。

 競技関係の協会から出されるご褒美(もちろんお金がなくて出せないところもある)をはるかに上回るボーナスが所属する企業からもらえたりする様子を見ると,「オリンピックのメダリストになればお金がたくさんもらえる」という印象が広められている気がします。

 すでにそういうケースがあるようですが,競技をする本人ではなく,親だったりが,「金目当て」に子どもを鍛えにかかる,という行動に出ないとも限りません。

 競技者にとっても,別に,「金目当て」をモチベーションにすることが,「悪」とはまでは言いません(寄付を目的にして頑張る人がいるかもしれませんから)が,私の価値観からすると,カネの話を公にするのは,非常に「醜い」という印象です。

 「金メダル」という,その競技者たちの頂点に立ち,お金に換えることはない価値のあるものを手にすることが目的であるアマチュアスポーツは,「スポーツを楽しむこと」が大切なのであって,プロのように「食べるための道具」「カネを稼ぐ手段」ではないことを子どもたちには理解してもらわないと困ります。

 日本では,国民一人一人が「スポーツをする」ことより,より多くの金を生む「スポーツを観戦する」ことの方に力が入れられている,というのはよく耳にする言葉です。

 もちろん,オリンピックを終えてプロになる人もいますから,その人が描くゴールは自由なのですが,「ご褒美の金額」は,ほどほどであることが,オリンピックの理念の尊さを穢さないためにも必要だと思います。

 ただ,ドラマ『陸王』でも描かれていたように,競技者にとって,「道具」たちは頂点に立つために非常に重要なアイテムになっており,無償で提供されている人もいる一方で,競技によってはスポンサーもつかず,代金をきちんと払って経済的に厳しいところもあるでしょう。ですから「金をもらうな」というは酷かもしれません。しかし,「金(きん)」がとれないと「金(かね)」がもらえない,というプレッシャーを選手が感じるとしたら,本当に逆効果になってしまいます。

 「メダリスト」という上位に入った人にはたくさんご褒美があって,それ以上に努力したり苦労したりお金をかけても結果が出せなかった人たちには,支援がない,という社会は,「美しい」社会でしょうか。

 かつて日本を「美しい国」と表現したことがある人たちは,どう思っているのでしょう。

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東京五輪マスコット~「選択する責任」を小学生に負わせるのが主権者教育?

 東京オリンピックのマスコットキャラ決定を小学生の投票に委ねた経緯は,審査会の方の話をうかがって理解したつもりであるが,そもそもなぜマスコットが1組しか選べないのかという疑問については,どのような回答が用意されているのであろうか。

 教室での投票では,「ア」案以外を多く選んでいた子どもたちもおり,今はとてもがっかりしているかもしれない。

 オトナが「意思決定の難しさ」に苦悩するのはわかるが,なぜそれを小学生に丸投げするのかといったら,「マスコットは子ども向けだから」だという。

 まちではさまざまな地元キャラがいて,マスコット化しているが,喜んでいるのは子どもよりアダルトチルドレンたちだったりする。「なんで私たちに選ぶ権利を与えられていないのか」と本気で怒っている人もいるかもしれない。

 キャラの原型は子ども向けのアニメのキャラクターを連想させる各案だったが,「外国人の子どもたちにも受けがいいもの」という観点で言えば,「ア」案が「正解」だったのかもしれない。オリンピックは「世界の祭典」であり,「全日本選手権」ではないから。 

 東京都は,次のオリンピックには間に合わないが,「ボランティアなどにも積極的に参加したい」という感想を小学生に言わせることで,若者や大人たちへの刺激になり,ほくそ笑んでいるように思える。

 国も,「これは主権者教育にもつながる」と満足しているかもしれない。

 キャラクター投票のために小学校で使われたのは,何の時間だったのだろう。

 道徳の時間か?休み時間か?総合的な学習の時間か?社会科の時間か?

 この投票に,どのような教育的意義があると捉えるかによって,扱いは変わる。

 どこかのインタビューでは,「今回のような投票が全国一斉に行われる教育システムは素晴しい」というコメントがあったようだが,「断れない仕組み」があるとしたら,それは中国や北朝鮮と同じであることに不気味さを覚える神経があってほしい。全国の8割以上の小学校が参加した今回の投票は,少々「異常」ではないかと思われる。ただでさえ学習指導要領に示された内容を扱うので精一杯の学校現場に,「これをやれ」と言われて素直に従えてしまうのが,やたらと時間に余裕のある小学校らしいところと言えば納得もできるのだが。

 現在の小学生たちは将来,財政の破綻という悪夢を経験し,大増税に賛成せざるを得ない「投票行動」を宿命づけられている。

 自分たちの考えが採用されなかった子どもたちに対して,「主権者教育」なるものの「専門家」たちは,どのような言葉を投げかけるのであろうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より