「道徳があるからやってんだろ」と詰られる子どもたち
行動の規範を教える方法は様々あるが,昔からさまざまな「形から入る教育」があった。
その「形」には,「挨拶の仕方」のように,理想型というか定型を直接的に教え込むタイプのものもあれば,
「茶道」「武道」のように,「応用をきかせるため」に教えるものもある。
ブランド品を着せるだけで,着ている人間は立派になる,と考える人はいないだろうが,
「形」から入る教育には,明らかな失敗事例が多発するため,摩擦も増える。
「柔道」の世界では,指導者レベルの人間が犯した罪が,「柔道」そのものの価値を大粉砕してしまったようだ。
「武道」をやってもこんなにひどい人間になるのもいるんだ,という共通認識ができたことは貴重だったのかもしれない。
教育の世界では,そもそも「道徳」という時間(これからは「特別な教科」)が存在すること自体が,摩擦の原因になることは,義務教育の教師ならだれでもわかることだろう。
家庭環境が荒れた子どもの中には,「教師が気に入るような真面目な行動」が大嫌いで,周囲の子どもが
別に当たり前のように行動していても,「あいつは教師の気に入られるような行動をしている」と邪推し,
からかったり,暴力をふるったりするのが出てくる。
中には,本当に「良い子のふりをしなければならない」苦痛に耐える必要があるのが「道徳」である。
教育というのは,本来,こういう「邪推」が一切生まれない環境でできることが理想であるが,進路がからむ中学校だと,ただでさえ「教師」と「子ども」の関係は「お互いに嘘が必要」になってくる。そこへ最大の癌の「道徳」がのしかかってくる。
あいつ,ボランティア活動を熱心にやっているが,あれは「奉仕の精神」の評価ねらいだな。
学校に内緒でやってるんなら,評価できるのに・・・・。
「なぜ評価してはいけないのか」がわからない連中たちと教育の話をするのは疲れる。
「勘違いされたくない」という純粋な子どもの心を最も強力に邪魔している「道徳」。
「道徳」の次に問題になってくるのは,「どこどこ小学校」などという学校の「看板」である。
他の地域からわざわざバスで通学しにきて,「うるさい」「邪魔だ」と迷惑扱いされている子どもに
ブランド品を着せて,どうにかしようとする,という発想は「道徳」以下だが。
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