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2018年2月

京大で起こっていることとは何か?

 入試問題の作問では,工夫した新しいタイプの問題を出そうと思えば思うほど,ミスのリスクが高まる。

 学生の創造性を豊かに育てようとしている京都大学が,つまらない問題を出題すれば,非難のもととなるほか,進学を敬遠する人が増えるかもしれない。

 つまらない問題を出している大学では,つまらない授業が行われていると考えるのが自然である。

 私は問題を見ていないので何とも言えないが,京大の出題ミスは「挑戦」が原因の一つであったことを願いたい。

 しかし,出題ミスの原因は,他のことも考えられる。

 それは,「退職等に伴うベテランの作問者の減少」である。

 経験の浅い人ばかりで作問をすると,ミスに気づきにくい。

 優秀でかつ作問能力が高かった人たちがどんどん現場からいなくなっているのではないか。

 それは,高校や小中学校でも起こっていることではないか。

 大学の附属学校での作問ミスもよく起こっている。

 学年末考査の時期である。

 中高のテストに誤りはないだろうか。

 何度も見直しを行い,ミスが発見されたら,速やかに対応したい。

 なお,国立大学のイメージダウンにつながるニュースは徹底的に報じる姿勢がマスコミに貫徹している。

 運営交付金を減らしたい文科省にとっても,財務省にとっても,私大出身の政治家たちにとっても,私大にとっても,有益な印象操作ができる。
 
 「国立大学はもういらない」。

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「お上の意向」と教育

 先日は,あるテーマに関連した全国の代表者が集まる会議に出席してきました。

 そこでいくつかの自治体(都道府県)の代表から,「(テーマについては)学習指導要領に示されたから~」という言葉が発せられました。

 会議の主催者は,行政ではありません。

 それなのに,「お上の意向に従って」という話法で発言をされる。

 教育委員会という組織は,「行政委員会」としての役割を果たさなくなっていることがよくわかります。

 私は分科会で,わざとらしく,「私が指導主事なら~」と「教育者としては~」という別々の言い方でテーマに迫ろうとする姿勢の重要性を話しました。

 本心では同じことを考えている人が多いことを願いたいですが,私の直感では,「子どものため」という感覚が麻痺
した方々が多いことが実感できました。

 子どもたちが気の毒でなりません。

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「美」を競う世界における「得点主義」とは?

 フィギュアスケートは,何を競い合う競技と言えるのだろう。

 金メダルをとった選手が,「得点主義」(得点が高くつく後半にジャンプを集中させるなど)と批判されているらしい。

 「得点が高ければそれでいいのか」という感覚は,教育で言えば,「点数」を取るコツを塾に仕込まれた子どもに対する反感に該当する。

 最近の「学力テスト」対策への過熱状況を考えると,全国の小中学校で「得点主義」が蔓延していると考えてもよいだろう。

 「総合的な学習」に力を入れるより,国語と算数をシッカリ指導してくれ,という要求は,当然,保護者からも寄せられてくる。管理職と保護者に後押しされたら,「調べ学習」より「ドリル学習」の方が効率がよいし成果も示しやすいから,「得点主義」を跳ね返すことはなかなかに困難だろう。

 「点数では測定できないものの尊さ」を教えてきた学校教育が,危機に瀕している。

 そういう意味では,「あんなの真の金メダルとは言えない」という批判が存在することは頼もしいことである。

 単なる負け惜しみではないことを祈りたい。

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道徳の害悪

 道徳の授業を受ける子どもの中は,「このことについて,センセイはどうなのだろう?」「どんな考えをもっているのだろう?」などと疑問にもつ子もいる。そして,センセイが教えたこととやっていることの違いに気づき,「だまされていたこと」に心を痛めるのである。

 「こんなやつに道徳なんて教える資格はないだろう」と見られている人ほど,子どもを感動させたり,よい意味で悩ませたり,心を強くさせることもある。

 内面の「心」を直接的に扱うことになる「道徳」は,物理的なものに例えると「心臓手術」に似ている。

 転んだときにできた皮膚のかさぶたをとるのも怖がる子どもたちに,心臓をつかませる授業をすることは,「罪」なのではないか,という自覚を教師たちには持っていてほしい。

 「あんた程度のオトナに,とやかく言われる筋合いはない」と突き放せる子どもは問題ではない。

 オトナやセンセイの影響を強く受ける弱い子どもがいることを知っておいてほしい。

 「道徳」が大嫌いになるばかりか,オトナ不信に陥る子どももいる。

 「道徳」が「害悪」になっていない証拠をセンセイ方には示せるようにしておいてほしい。

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実践発表は何のためにする?

 先日,ある大学の教育学部で行われた実践発表に参加するために飛行機で移動して,すぐに飛行機で帰ってくるという2日間を過ごしました。往復数万円がかかりましたが,このお金をどのようなかたちで子どもたちに還元できるか,考えてみました。

 が,日本の教育界がなぜダメなのかも,つくづく実感できてしまって,少々つらい思いを抱いています。

 実践発表とは,そもそも何のためにあるのでしょう?

 私が肌感覚でビリビリと感じたのは,「発表のため」という意識に尽きます。

 「発表のために発表する」

 日本各地で同じような意識を,教師だけでなく,おそらく子どもたちも植え付けられているのでしょう。

 本当に無意味です。

 直言はしませんでしたが,私の言葉の本当の意図に気づいてくれた人が何人いるかはわかりません。

 しかしとても心許ないです。

 ここが不思議なところですが,大学の先生を責める気持ちにはなれませんでした。

 学校の先生や学生たちを指導するのも,大変なことなのでしょう。

 研究っぽいことをしただけで満足している方はいないと思いたいですが,

 「成果と課題」が何も見えていない「実践研究」って何なのでしょう?

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「道徳があるからやってんだろ」と詰られる子どもたち

 行動の規範を教える方法は様々あるが,昔からさまざまな「形から入る教育」があった。

 その「形」には,「挨拶の仕方」のように,理想型というか定型を直接的に教え込むタイプのものもあれば,

 「茶道」「武道」のように,「応用をきかせるため」に教えるものもある。

 ブランド品を着せるだけで,着ている人間は立派になる,と考える人はいないだろうが,

 「形」から入る教育には,明らかな失敗事例が多発するため,摩擦も増える。

 「柔道」の世界では,指導者レベルの人間が犯した罪が,「柔道」そのものの価値を大粉砕してしまったようだ。

 「武道」をやってもこんなにひどい人間になるのもいるんだ,という共通認識ができたことは貴重だったのかもしれない。

 教育の世界では,そもそも「道徳」という時間(これからは「特別な教科」)が存在すること自体が,摩擦の原因になることは,義務教育の教師ならだれでもわかることだろう。

 家庭環境が荒れた子どもの中には,「教師が気に入るような真面目な行動」が大嫌いで,周囲の子どもが

 別に当たり前のように行動していても,「あいつは教師の気に入られるような行動をしている」と邪推し,

 からかったり,暴力をふるったりするのが出てくる。

 中には,本当に「良い子のふりをしなければならない」苦痛に耐える必要があるのが「道徳」である。

 教育というのは,本来,こういう「邪推」が一切生まれない環境でできることが理想であるが,進路がからむ中学校だと,ただでさえ「教師」と「子ども」の関係は「お互いに嘘が必要」になってくる。そこへ最大の癌の「道徳」がのしかかってくる。

 あいつ,ボランティア活動を熱心にやっているが,あれは「奉仕の精神」の評価ねらいだな。

 学校に内緒でやってるんなら,評価できるのに・・・・。

 「なぜ評価してはいけないのか」がわからない連中たちと教育の話をするのは疲れる。

 「勘違いされたくない」という純粋な子どもの心を最も強力に邪魔している「道徳」。

 「道徳」の次に問題になってくるのは,「どこどこ小学校」などという学校の「看板」である。

 他の地域からわざわざバスで通学しにきて,「うるさい」「邪魔だ」と迷惑扱いされている子どもに

 ブランド品を着せて,どうにかしようとする,という発想は「道徳」以下だが。

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アルマーニを着用する小学生から見える社会とは

 島崎藤村,北村透谷,近衛文麿らが卒業した小学校での話題が,ニュースを賑わせている。

 「東京の銀座に位置する公立の小学校。一体,どんな子どもが通っているのか・・・」と思われるかもしれないが,

 通わせている保護者の中には,至って「普通の方」がいらっしゃることがわかった。

 「アルマーニの制服は高すぎる」という苦情?が寄せられているという。

 学校側(校長)としては,後は説得を続けるだけだろうが,大きく報道されたことで,

 「説明責任」を果たすべき範囲が世の中全体に広がってしまった。

 もう少し後だったら,オリンピックの報道ですべてかき消されたかもしれないのだが・・・。

 今回の8万円とか9万円といった金額が,「過度の負担」に当たるかどうかは,

 容易に判断できるものではない。アルマーニでなくても,いいモノなら,それくらいかかる私立の学校は

 あるだろうから。ただ,「過度な負担」に当たる家庭がいれば,それは困るだろうから,区から補助が出る,

 というやり方もあるだろうが・・・。

 私は,小学校でも「形から入ろうとする教育」は今時珍しい,と逆に感心してしまった。

 これも周回おくれのトップランナーの類か。

 「アルマーニが似合う小学生」とは,ちょっと大きく出すぎている感じもするが,

 これだけの「桁違い感」は,どこか本当にスケールの大きな子どもを育ててくれそうな予感もする。

 中学校で言えば,部活に入って,ユニフォームだの,ジャージだの,個人の道具などが色々と必要なところなら,10万円くらい軽く飛んでいくだろうと思われるが,こういう部活の必要が「過度な負担」として社会問題になったことはないのではないか。

 おそらく,もう少しだけ報道がしつこくなると,教員達の服装にも言及されることになるだろう。

 子どもがアルマーニで担任が1万円福袋のスーツではまずいだろう。

 ジャージもブランド品を買うことになるのだろうか。

 東京都には,荒れているわけではないが,「絶対に行きたくない区」が3つあると言われている。

 杉並区,品川区,千代田区である。中央区ももうすぐ4つめの区として聞こえてくるようになるのだろうか。

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時間が足りなくならないアクティブ・ラーニング

 子どもが教師に利用され,道具として使われる仕組みのアクティブ・ラーニングは,時間通りに「学び」が終了できるのだという。それはそうだろう。道具は道具に過ぎないし,「終わり」が見える「学び」など,塾でもできるようなものだから,「始まる前から終わっている」ようなものである。 

 自分たちが子ども時代にしたことがない学習方法を,なんとかして「現役」の子どもに押しつけようとしている大人の必死さを,どう表現したらよいのだろうか。

 実は,子どもを道具として使う教育方法は,「手本」となる生徒がいて,他の生徒がみんなこれに習う(習わされる)・・・今から60年前の教育と同じである。生徒を道具に使う「詰め込み式」教育である。

 さて,どうして,「時間におさまるアクティブ・ラーニング」などと,すべてが満たされなければ許されないような要求ばかりするのだろう。

 この病的な教育への欲求は,「失敗作」に終わった自分たちのダメさ加減に対する反省の裏返しなのではないか。

 そんな改革が成功するわけがない。戦争に負けた国が勝った国の「精神的なもの」だけを輸入して勝つつもりでいるような,バカらしい発想はやめた方がよい。

 ついでに書いておくと,教育は意思疎通が困難な相手とも粘り強く対話して,一筋の光を探し共有しようとする営みを含んでいる。面倒臭いことはやらなない,コミュニケーションは遮断する,と宣言している人間に教育を語る資格などない。高校教師によく見られるパターンである。義務教育の教師から見ると,こういうのこそ教育のガンという。

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心なく才知ある者が,心あるも才知なき者を置き去りにする授業~考える道徳の末路

 考える道徳では,議論をかわす場面が出てくるはずである。

 社会科や国語で実践するかもしれないディベートと似たような状況に陥る可能性もある。

 資料の活用力があり,口が達者な生徒が評価される。

 はしたない人間が評価されやすく,奥ゆかしい人間が評価されにくい「特別の教科」の指導は大丈夫だろうか。

 中学校段階では,100字以上の長さの文章がさらっと書けない生徒が何%くらいいるか,ご存じだろうか。

 作文を宿題で済ませている小学校の教師には想像もできないだろう。

 ずけずけと自分の長所を並べ立てるような人間を好きになるような子どもに育てたいのだろうか。

 パン屋を否定し和菓子屋を否定しない判断基準をもつ人間たちから学べることは何だろう。

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入試問題のミスを探す専門家

 入試というのは,受験者はもちろんだが,選抜する側にとっても大きな負担となる。

 受験者は,できる問題を絶対に落としてはならない。

 選抜する側は,絶対に出題ミスを犯してはならない。

 最近のニュースではっとさせられたのは,京都大学の出題ミスである。

 大阪大学ではたいして驚かなかったと言えば,失礼になるかもしれないが,

 やはり京都大学のミスにはインパクトがある。

 近畿地方のある私立中学校では,受験生でもわかるミスをやらかしていたのだが,

 出題者の質が教育の質と深い相関関係にあるとしたら,学校選びの基準としても使えるかもしれない。

 大学の出題ミスに最初に気づくのは,予備校の教師の可能性が高いだろう。

 逆に言うと,ミスに気づけない予備校の教師には,少々ガッカリさせられる。

 入試問題の出題者側のチェックはしっかりと行われているはずだが,

 それでもミスは発生する。

 入学選抜の世界は,「働き方改革」とは一切無縁である。

 長期間の作業での緊張,秘密厳守のプレッシャーに耐え続けなければならない。

 そういう経験をしなくてすむ高校や中学校の教師たちも,大学入試問題を解いてみたらどうだろう。

 教え子たちより学力が低いというのはまずい。

 自分が教えた子どもが受験するテスト問題には,やはりできるだけ目を通すべきだろう。

 現場教師たちによる,出題ミスを探すための専門家集団というのができてほしいくらいである。

********************

 この記事を書いて公開する前に,体調を崩してしまった。

 その後,文科省内に入試ミス対応窓口が設置されたことを知った。

 だれがどのような「対応」をするのか知らないが,ここまでのことをしなければならない中央官庁というのも,実に惨めなものである。

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教育の「効率」は何で測定する?

 新学習指導要領関係の説明にやって来る講師の評判がよろしくない。

 やっと「順番が回ってきた」人たちだから,もう少し練度が高まるのを待つという方針もあろうが,

 たぶん今のままではダメである。その理由は詰まるところ,

 自分の頭で考えて出てきたものではない教育を「語らされている」からである。

 ころころと所属の大学を変えているある人は,よく講演に呼ばれているが,内容のほぼすべてが断片的な他人の言葉の羅列に過ぎず,聴いている側はカタログを広げられているに過ぎない。そういうものだと理解すれば,別に腹も立てずにすむが,要は「専門ではないことを語らされるときはこうなる」という典型の一つなのである。

 講師にとっては「効率」がよい仕事だが,聞く側にとってはどうだろうか。

 もともと実力のある人しか集まらない研究会では,「自分の言葉」でしか語らない人しか呼ばれない。

 「効率」をそれほど重視しない人たちは,内容の重さを知っている。

 残念なことだが,今後,教育の世界に新しい無意味な尺度がどんどん入ってくるだろう。

 「働き方改革」まっしぐらだから,「効率」がよい候補である。

 「効率的な授業」「効率的な教育」「効率的な事務処理」・・・・・しまいには,「効率的な生活指導」・・・

 まともな教師なら嘔吐感すら覚える暗い未来が待っている。

 「効率的な教材準備」とは何か?

 実験をせずに実験器具の使い方や注意事項を理解させることが,「効率的」なのか?

 生徒に生徒を教えさせることが「効率的」なのか?

 まさか児童生徒を「使役動物」のように利用する授業方法まで提案されるとは。

 教育に「効率」の概念を落とし込むことができるから,ダメになっているものがたくさんあることを現場の教師は散々味わわされてきたはずである。小学校の教師は,1分1秒に追われる中学校の生活を1週間だけ体験してみてほしい。時間を「効率」よく使うために,1度にいくつのことを同時進行していなければならないか。

 しかし,「手抜き」が「効率」という価値に置き換えられたことでますます自分の責任を果たそうとしなくなる教師が増えていくに違いない。子どもまで「使役」の対象にするくらいだから,学級王国は王様にとってさぞ過ごしやすい世界になっていくだろう。

 「効率」は何を何で割った数字か。成績上昇率と時間か。そもそも仕事に労力をかけない人間に,効率も何もあったものではない。
 
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「時間を守らない」という文化をつくるのはだれか?

 ある高校の体育の授業の開始状況を見ていた。

 始業のチャイムでだいたいの生徒がそろっていたが,そもそも「整列する」という習慣がない授業なのだろう・・・・だれがいるのかいないのか,一目ではわからない仕組みであった。

 教師は1分ほど遅れてやって来た。

 その教師が「時間を守らない」という習慣を獲得したのは,どの場所でだろう?

 子ども時代に通った学校がそうだったのかもしれないし,

 家庭環境に問題があるのかもしれない。

 しかし,決定的なのは,出身大学の「文化」なのだと思っている。

 「時間を守る」という「文化」をもっている大学もあり,授業の集合の仕方,挨拶の仕方,整列の仕方,動きの機敏さなど,特に指導しているわけでもなく,子どもたちはすべてに渡って優れた行動をとっている。

 社会人になれば常識となる「時間を守る」という「文化」は,一部の大学の教師には存在しない。

 そういう大学は,社会人になれなかった人の集まりだと思えてしまうほどの「至らなさ」である。

 話を戻すと,体育の教師が「時間を守らない」人間だった場合,

 学校運営にどういう支障が出てくるか。決して無視できないものになる。

 多くの教師が,時間割で,体育の授業の次に自分の授業が入ることを嫌がるようになる。

 なぜなら,子どもたちが授業に遅れるからである。

 教師の「時間を守らない」習慣は,必ず子どもたちに伝染する。

 落ち着いた学校でも,「時間を守らない」習慣の拡大によって,簡単に荒れ始まることを知っているから,体育教師がまとっている「文化」には敏感である。

 「時間を守る」人間と,「時間を守らない」人間のそれぞれがまとっているオーラがどんなものか,教育の素人でもとてもわかりやすいと思う。

 「時間を守らない」人間は,信用されない。

 そういう「文化」を育んむ大学に通っていた教師は,気の毒に思える。

 しかし,最も可哀想なのはそんな教師の教育を受けている子どもたちなのである。

 大学名を書きたいという強い衝動に駆られる。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より