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「働き方改革」を「働きがい改革」で先行させてきた企業と数字合わせだけの対応で終わる企業

 数字合わせだけでの対応でお茶を濁そうとする企業が取り組むのは,

 プレミアムフライデーのような「曜日・時間指定」の硬直的な時短政策ばかりでしょう。

 それは「働かずにすむ方法」を重視する「働かず改革」であり,せっかくの「働き方改革」という言葉が死んでしまいます。

 「働くこと」を「楽しいこと」と捉えるか,「苦行」と捉えるか,という前提の違いでも様々な食い違いが生じてきますが,いずれにしても,「改革した後」が「楽しい」「充実している」と思えるようでなければ意味がないことがわかっている経営者と従業員がセットになっている企業では,とっくの昔に「働きがい改革」が行われています。しかし,従業員の感覚に頼る評価では意味がないと考える「真面目な経営者」がいる企業では,数字上で具体的な変化が見てとれるような改革を上から押しつけてきます。錦の御旗を掲げて改革を迫る経営者に,あえる歯向かう気概のある従業員はそもそも存在しないのでしょう。

 学校現場では,「学び方改革」が20年前にスタートしていたはずでした。

 しかし,ほとんど何も変わらなかった。それを示すデータがあるのですが,示してはまずいからなのかどうか,政府は公表していません。私は「死蔵データ分析」にかかわった一人です。

 また新しい学習指導要領が公示され,一部の人たちは期待を寄せていますが,残念ながら,雑誌などで宣伝されているのは「教え方改革」であり,それを理解できない人が教壇に立っても,何も変わらないか,児童生徒の学習は劣化して,「ゆとり」と似たような失敗を繰り返すことになります。教師たちの「学び方改革」を学校時代に遡って行わないとダメそうなのは,雑誌の記事のレベルを考えてもよくわかります。

 実際のところ,学校の「学び方改革」が始まるたびに,おいしい思いをしているのはだれでしょうか。

 下手な改革に手を染めることのない,保守的な学校とその生徒たちです。

 テストのためではない「学びがい」が実感できる教育をしていれば,「改革」の必要はありません。

 ときどきおかしな教師が紛れ込んだりすると,子どもたちは,しっかりと意思表示を起こしてくれます。

 保守的な学校では,教師よりも,子どもたちの方がはるかに保守的なのです。

 教師が自分の力量を切磋琢磨できる学校とそうでない学校の違いは,「授業がつまらない」と意思表示できる子どもの行動力にかかっています。

 子どもたちが「つまらなさ」を主張してくる教師には,共通点があります。

 致命的な欠点なのでしょうが,「教科の専門分野に弱い」という点と,「生徒の気持ちがくみとれない」という点であり,中等教育の現場では哀しいほどのお荷物です。

 こういう「お荷物」たちが学校における「働き方改革」という仕事に熱心になり出すと,どういう問題が生じるでしょうか。

 おそらく校種を限らずあらゆる学校で問題になっていることでしょうから,ご想像におまかせしますが,結果として,生徒が活躍できる場面が減るのと,一部の教師に(それもたいていたくさん仕事を抱えている教師に)仕事が集中するという事態が待っています。

 学習指導要領に示された趣旨から言っても,生徒が主体になって動ける場面をいかに確保するかが重要な学校ですが,不思議にそういう場面が気に入らない人がいるんですよ。よくわからない思考回路なんですが,自分が責任を持っているわけでも指導するわけでもない取り組みをなくせば,自分たちの仕事に余裕ができると主張してくる教師がいます。意味不明さ加減に教師も子どもも絶句です。「相手が何を考えているのか」ということに全く関心がないか,「言ってくれなければわからないだろう」とキレたりする性格なので,思わず静観してしまう事態に陥る正真正銘の「お荷物」です。

 「働き方改革」というと必ず「省力化」が話題になります。しかし,「省力化」のつもりが,逆に仕事が増えることも多々あります。紙に書く手間をパソコンに打ち込む手間に変えただけですが,内容が合っているかどうかを照合する手間とか,それをコピペしたときに正しい部分が打ち出されたかを確認する手間とか,かえって仕事が増えるようなことを学校では「省力化」となぜだか呼ぶ癖があるのです。不思議ですね。事務処理能力が高い人というのは,チェックなども難無くこなすので,仕事の全体量が増えたようには感じられずにすむからでしょう。

 普通の学校に,子どもによる「浄化作用」を期待するのは難しいかもしれません。

 ただ,「子どもたちの声が届く」かどうかは,教育現場としては生命線であると言ってもよいでしょう。

 子どもの「学び方改革」と教師の「働き方改革」が一緒に実現できてしまう教育方法の宣伝もしつこいほど繰り返されていますが,そんなものに振り回されて仕事を何倍にも増やすよりは,みんなで子どもをしっかりと見つめる姿勢を共有した方が,余計な仕事は何分の1かに減り,その分,やりがいのある真っ当な仕事が増えるのではないかと考えています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より