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部活動の夢と現実

 部活動についての記事で,多くの方が興味をもって読んでいただいたようで,続編を書かなければならないと思い,キーボードを叩いている。

 スポーツの世界では,トップの選手たちの多くは所属する中学校や高等学校の部活動で練習しているわけではないが,中学校や高等学校の部活動で汗を流している生徒の中にも,都道府県大会や全国大会出場など,トップの世界を夢見ている人たちがたくさんいる。

 部活動に親しむ生徒たちの動機,力量,やる気は多様である。

 その多様な希望なり力量なりに応えているのが,学校の教師たちであるが,そこで悲鳴が上がっている,という話。「働き方改革」の流れに乗って,文科大臣もモーションを示してるようだが,今までの「あり方」を放置していた張本人,親玉だから,そう簡単に動くことはできないだろう。

 「部活動でもっている中学校」の実態を説明できないのも無理はない。調査をしていないのだから。

 しかし,中学校の教師ならだれでもわかっている,という「鎖国」時代みたいな情報格差があるのが面白い。

 スポーツクラブの場合は,商売でやっている。力量ごとにクラスが替ったり,大会などに参加したりすることもできる。経営規模によって受け入れ可能数が異なるが,そもそも有料のスポーツクラブの場合は経済的な余裕がない家庭の子どもは入れない。

 今,スポーツクラブの経営が非常に困難になっており,その原因は,学校でただでできる仕組みになっているからだ,という主張をしている人がいるのだろうか?

 逆に,学校の部活動がなくなって,その受け皿をスポーツクラブが請け負わされることになったとしたら,どうなるのだろう?子どもはスポーツクラブに行くだろうか?

 「外部委託」の「外部」が何を示しているかわからないが,学校は「校庭」や「体育館」という場所を「外部」の人たちに貸し出すのだろうか?

 完全な委託があり得ないのは,「場所」の問題だけ考えてもわかる。

 では「部分委託」になるわけだが,どの「部分」が委託になるのだろうか?

 別に,「外部の人材」は「教育者」ではないから,教師ではないとできないことがある,と言いたいわけではない。

 しかし,その「資格」はどういう方法で認めるのだろう? 「報酬」はどうするのか?

 もし教育公務員の兼業禁止規定をなくすか,「報酬」のある部活動の兼業許可を出すようにしたら,どのくらいの教師が兼業の申し出をするのだろうか?

 学校の教師たちが部活動の指導に携わるとき,多くの場合は,「教育的意義」がわかっており,「教育的効果」が見て取れるから,生徒同様に「やる気」も「充実感」も感じることができる。しかし,「効果」は1日,2日で出るものではない。もちろん,毎日充実感を覚える子どももいるだろうが,部活動の教育的意義は,長期のスパンで見てあげる必要がある。

 だが,「短期の成果」を求められる風潮が,学校の教員という職業の人間にも,おかしな「変化」をもたらしてきている気がする。

 「授業中に寝ているこんなやつらに,部活動に参加する権利はない」 「こんなレベルの練習で,全く試合にも勝てない部活動には存在する意味はない」と真面目に考えている人はいないだろうか?

 「授業中に寝ているこんなやつら」は,学校に来る資格はない,とは言えないことはわかっているはずだが,本心ではどうなのか?

 子どもの立場から反論すれば,「そんなレベルの授業で,全く私たちの興味や関心が高められない教師など,存在する意味はない」ということになる。

 部活動を引きはがされ,丸裸にされた教員たちに何が残るのか。わざわざ教員養成系の大学に進んでまで,教育のあり方を学んでいる学生たちにとって,「何が待っているかわからない」現場というのは,魅力的に見るのか,どうなのか。
 
 子どもから「先生」として慕われる,ということの意味とは何だろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より