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« 「負け組」の逆襲~「学校は勉強するところであるべき」 | トップページ | アメリカと日本で同時に起こっていること »

私は立派な非常勤講師と特別支援学級の子どもたちを見てきた

 学校の教師にとって,自分が週に十数時間程度担当している授業が,子どもの成長の役に立っている実感を得られるだけでなく,実際にすべての子どもがしっかりと実力をつけるという業績を残せることは,とても幸せなことですよね。しかし,残念ながら,成果をなかなか出せない教師や子どもがたくさんいます。

 勉強ができるのに,コミュニケーションが上手にとれない生徒がいるとします。

 こういう子どもを授業中に見ていて,教師として,どんな働きかけをしたいと願うでしょうか。

 勉強ができるのに,いじめを繰り返したり,いじめを見ても笑って見ないふりをしたりする生徒がいます。

 教師として,何が足りないと自覚すべきでしょうか?

 教材研究はたくさんできているのに,生徒との人間関係を築くことに失敗している教師が抱えている課題とは何でしょうか?
 
 授業の中で子どもを生き生きと動かせない教師は,行事を担当させても,部活動をもたせても,うまくいかないのです。

 それはなぜでしょうか?

 非常勤講師の先生方は,授業が「主たる業務」というより,ほとんど授業だけが業務です。非常勤講師として60歳まで学校でつとめる気力のある人はどれだけいるでしょうか。

 私が赴任した2校目の中学校には,放課後の部活動の指導にあたる教師がほとんどいませんでした。

 荒れがひどい子どもたちは,時間をもてあまして,次々に非行に走ります。

 校庭では,陸上部だけが活動していました。

 その指導にあたっていたのは,非常勤講師の方でした。

 当然,無給ですね。放課後すぐに開始しても,勤務時間には含まれませんから,完全なボランティアです。

 この部活動に参加していたのは,荒れた学校の中では真面目で成績のよい生徒ばかりでした。

 非常勤講師の方は,練習中,とてもよく生徒とコミュニケーションをとっていました。

 悩みごとの相談にも乗っていたようです。

 「この人が,本当の崩壊を崖っぷちで救っていたのだ」と思いました。

 陸上部に参加している特別支援学級の子どもたちの元気な姿にも励まされました。

 常勤の先生たちは,どんな毎日を送っていたのか。

 かなり早い時間から,職員室はがらんとして,すみの方にあったソファーでたむろしている中学生の人数の方が多い,という状態もありました。

 授業が成立せず,鬼ごっこで時間が過ぎて,大幅に進度が遅れていた前年度の借金を中3で取り返すのは大変なことでした。

 ソファーの撤去や自習の廃止(=時間割の入れ替え)など,2ヶ月くらい,教師はもちろん子どもの抵抗にもあいましたが,「正常化」がもたらす効果を信じることができたおかげで,学校も立ち直り,部活動もさかんになってきました。

 子どもが自らの意思に基づいて困難を乗り越えようとする活動の場面が与えられることで,学校の空気が一変します。

 学習の成績は,「あとからついてくるもの」でした。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より