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芸の世界から思想の世界へ

 『なぜ私たちは生きているのか』(平凡社新書)の高橋巖さんの言葉から気づかされたことですが,

 教育を語るとき,それが「芸」のレベルであるのが,一般的な教員養成の世界に求められていることです。

 だれも,「思想」のレベルを理解させてあげようとは思っていないようで,学生も同じです。
 
 「思想」から入られると,人間は頭も心もシャットダウンしてしまうので,意味はありません。

 大学がやってしまっている教育の失敗は,学習の主体性を無視していることです。次に紹介した高橋さんの「心の旅鴉」の心得に則していないことが原因なのです。

>この悪魔である私たちが,いままず第一にやるべきことは,自分を知ることではないでしょうか。以前私は自分をあらためて意識するために,「心の旅鴉(たびがらす)」という心得を考えたことがありました。この旅は七つの過程を辿ります。

一,自分と親しくなる。

二,親しい人と親しくなる。

三,親しくない人と親しくなる。

四,縁のないところに縁をつける。

五,自分のためにではなく,人のために。

六,まず芸術を通して。

七,思想を通して。

 学生さんたちは,今まで縁のなかった私の学校やその生徒たちの学びの姿にふれることができました。

 そして,教師になった後のことを考え,自分が子どもたちのためにできることを考えています。

 ただ,聞いてくる質問はいちいちその意図を探らないと答えにくいものばかりでした。

 学生は,「板書の量はどれくらいがいいのか」とか,「できない生徒への説明をどう工夫したらいいのか」とか,

 具体的な単元なり事例などに基づかないと答えられない問いを平気でしてきます。

 「一番綺麗にまとめられた生徒のノートのコピーを全員に配った」ときに,

 「人のノートを見せてもらうと,自分もわかった気になる」とやる気を持たせることに成功した事例を紹介しながら,

 「書記係」にあたった生徒がすべての板書をする授業,

 「班活動」の成果をすべて黒板に書かせる授業なども紹介し,

 「できるだけ教師が書かずにすむ授業の方法を考えてみよう」

 「最低限,これだけは必要だ,という板書は何だろう」などと問いかけてみたりしました。

 芸のレパートリーが増えると,最後は思想の段階です。

 私は,小学校の授業参観も機会があればと薦めています。

 どうしてここまで板書にこだわるのか?(定着もしないのに・・・)という疑問を持つことが大事なのです。

 ノートを全く取っていない子どもが多いため,板書は書いて終わりになってしまっている。

 そこで,「板書とは何か」を真剣に考えるきっかけになっていくのです。

 小学校の板書に対する「思想」が見えてきます。

 ああ,見栄えが大事なんだ,と気づけば,小学校教育の問題に気づくことができます。

 1週間見続けていると,ある教科の板書はあんなに手がこんでいるのに,他の教科は教科書を読むだけだな,とか,教師はどうやって手を抜けるのかもわかっていきます。実は子どもも同じように手を抜いていることが見抜けます。何かが優れている教師のクラスの子どもが必ずしも高い学力を示すことができない理由が想像できるようになります。

 百人一首がやけに強いとか,新聞作りが上手とかいうクラスの出身者は多いけれど,どの教科の学力もずば抜けて高い,というクラスはあまり見かけません(学校の小規模化で比較の機会もなくなってしまいましたが)。

 教師は何のためにそこにいるのでしょう。

 授業をするのは何のためでしょう。

 そういう問いが,自分の中からふつふつと湧いて出てくる感覚にさせることが大事なんですね。

 でも,私は学生の方々と再び会うことがないと思っていますから,あえて思想にふれるようにしています。

 大学の教師の中にも,一神教の終末論と仏教の末法思想の区別がついていない人がいます。

 思想レベルの話ができないのは,あまり深く物事を考えていないからと,自分の言葉に責任を感じていないからです。大学の先生は専門を大事にしますが,ごく一部に,専門外のことまで口にする無責任な人がいます。

 責任感とか使命感というのは,相手に伝わるものです。

 いい加減なことばかり言っている人は,無責任な人であり,使命感も上っ面だけです。

 信用というのは,相手の責任感とか使命感が伝わってこない限り,こちら側から自動的に発生する気持ちではありません。「信用しないお前が悪い」と言われても困るのです。引き合いに出された宗教の側にも迷惑がかかっています。

 思想を語るときは,あえて技術レベルのことも合わせて説明します。採用試験の面接官ならこういう話,管理職ならこういう話,研究発表ではこういう話,ここまでは技術の話。でも,授業ではこういう話,という階段状の話法を使うと,思想は簡単に理解してもらえます。

 自分の責任感とか使命感が子どもに伝わる教師でありたいと願うきっかけを,学生自身の内側から生み出してもらうことを私は目指して協力しています。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より