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教師が全員の前では語れない言葉

 教師の発話能力というのは,得た情報の量が増えるにつれて高度化が必要になってくる。

 まずは,全員の前で語るべき言葉と,子どもを限定してから語るべき言葉を区別しなければならない。

 ときどき,この区別ができない教員を見かけるのだが,経験不足が原因だから,教えてあげなければならない。発話に失敗しても,即時的に失敗に気づける(子どもがしっかりと反応することによって)学校もあるが,そうではない学校もある。

 もちろん,いくら教えても無駄,という人もいるから,あきらめしかないのだが,フォローのために,

 四六時中,「何を言うか」に注意していないといけなくなるのがつらい。

 内容によっては,というか子どもによっては,その1人だけに話しかける言葉もある。

 そんな言葉の使い分けは当たり前だろう,と思われるかもしれないが,

 声の大きさの調整ができない教員がいて,その子どもに話しかけている言葉が周囲の子ども全員に聞こえてしまう,というケースもある。やられた子どもはショックというより,どちらかと言えば諦めの表情である。

 言葉というのは,「伝えること」よりも,「他の関係ない人は伝えない」配慮をしっかりするべきときがある。

 その工夫は声を小さくするとか,他の人がいない場所に移動するとか,さまざまな方法が考えられるが,いちいち呼びつけてするわけではない声かけは,他の人との距離が適度に離れた瞬間を逃さずにするしかない。


 一般企業につとめる人は,入社のときや結婚式のときでも,数百人を前に話しをする機会というのはあまりないだろうが,教員の場合には,経験年数が浅い人でも普通に訪れる。

 40人に対して語っているのと同じような内容を話すだけなら,どんな教員でもできなければならないが,100人を超える「群衆」に向かって語りかけるときは,いくつかのNGを想定しておくべきである。

 私が今まで聞いたことがある教員の言葉の中で,聞いている生徒の集中力が最ももたなかったのは,外見上は「ただ話が長い(たいした内容がない)」という人だったが,一番問題だったのは「自分(だけ)が興味のあること」を延々と続けることだった。「そんな話にこっちは興味はない」という聞き手の気持ちを一切無視した話の内容はNGである。

 また,「一般的すぎる」「(一部または全部の生徒に)難しすぎる」言葉もNGである。わざわざ時間を割かれて全員が一斉に聞かされる理由はない。

 もちろん,例外はある。私は集会で「生物学」の話しかしなかった当時の校長のおかげで,本を読むようになった。生物学の本ではないが,「専門的な話というのはおもしろそうだ」という興味を高めてくれたのは,全く意味がわからない話をしてくれた学者の先生のおかげであった。

 子どもに寄席と言っても何のことかわからないかもしれないが,たとえ寄席でも,好きではない噺家さんのときには寝ている(ように見える)人がいる。子どもはこういう態度を許してもらえないからつらい。

 噺家さんは,ときどき反応の鈍い観客を「いじり」にかかる。

 教師も授業で同じようなことをする場合もあるだろうが,そういう「技」で子どもをつなぎ止める人は哀しい。

 何が語るべき言葉で,何は語るべきではない言葉なのか。

 その区別をしようとする発想を磨いていきたい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より