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価値を落とすことで慰めとする「負け組」の行動を許さない

 あることに失敗したとき,あるいはうまくいかなかったとき,それを自分の実力不足のせいにすると,心が痛む。

 心が痛まないようにするために,「悪いのは自分ではなくて,『あること』自体,あるいは他人がおかしいのだ」と責任転嫁,責任回避してしまうと,その人は完全な「負け組」になってしまう。

 好きになるときは長所ばかりを見て,ふられたら,短所ばかりを探す。そういう自分だけが傷つく話に,「重み」はない。

 しかし,『あること』が教育に関するもので,「負け組」が教師の場合,教師だけが「負け組」になるだけではすまないという問題がある。

 子どもたちが「負け組」に巻き込まれてしまうのである。

 「一斉授業は問題が多い」と批判する人は,

○教師ばかりが話したりまとめを黒板に書いたりしているだけで,子どもたちはただ聞いて黒板をノートに写しているだけである。

○教師はだれが何をどの程度理解しているか評価しようともせず,評価するつもりがないから,発言しようとしない子ども,考えようとしない子ども,寝ている子ども,塾の宿題をしている子どもがいる。

 などを「問題」として例示するのだろうが,これは100人くらいを対象とする大学の講義の話だろう。

 40人規模の授業では,そもそも「一斉授業」とは言っても,ペアワークやグループでの話し合い,発表,ワークシートなどをもとにした作業,自己評価,他者の主張の記録と評価などを行うことがある。

 だから「大学のような講義形式の一斉指導」をしているわけではない教師たちにとって,そもそも「アクティブ・ラーニング」の重要性や必要性が訴えられたのは大学においてのことであり,大学で一斉指導をしている人たちの多くは,「教員免許=教育や学習指導についての専門性を持っているという肩書き」がない人たちで,大学教員向けの「講義の仕方」の本まであることを知ると,「なるほどね」と大いに納得できるのだ。

 もちろんある一定の割合で,大学の講義形式の一斉指導を好む教師がいることも,間違いはなく,小→中→高校と校種が上がっていくにつれて,その割合は高くなっていく。

 講義一辺倒の授業をしてしまうのは,「先生らしさ」を勘違いしている教師の自己満足・自己陶酔を促す効果があるからであり,「手抜き」をしているように見せない効果もあるからである。

 ただ,大学の教員と同じように,講義一辺倒の授業から抜けだそうとするときに,一定の困難が教師たちに立ちはだかっている。たかだか3週間の教育実習で,教師もどきの授業をしただけで,教育効果が高い学習指導ができるわけではない。そもそも子どもたちの個性を知らない人間が子どもの前に立たされているのである。教材内容に関する知識や理解の欠如もすぐにばれてしまうし,思考を軸とする授業を受けたことがない教師たちにとっては,「何をどう考えさせたらよいのかわからない」という壁にぶち当たる(本当は,教育実習でこの壁と向き合わせる必要があるのだが・・・)。

 本当に手抜きで未熟な授業を展開していて,子どもがついてこれないとき,自分の問題を棚上げしてしまう「負け組」が,「一斉授業が悪い」という思考経路にはまる可能性を私は危惧している。

 「一斉指導」「一斉授業」というスタイルの価値を貶めることで,それができない「負け組」の教師たちが救われる環境が,一部の学校でできつつある。「負け組」による誤った選択から生まれる教育環境ほど,子どもたちにとって不幸なものはない。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より