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「負け組」の逆襲~「学校は勉強するところであるべき」

 教育現場の現状を知るにつれて,わかってきたことがある。

 昔なら,「働き方改革」とか,「部活動の外部委託」の話など,鼻にもかけない教師たちが多かった。

 今では,声を上げられる教師が増えている。

 なぜだか,こうした現象は「負け組」の逆襲に見えてくる。

 「学校は,勉強するところであるべきだ」という,一見すると正しそうだが,多くの人が「それが何の役に立ったのか?」と反感も持っている言葉を,堂々と口に出せる環境になってきたことは,何を意味するのか?

 「学校は,勉強するところだ」という言葉を真に受けて,勉強ばかりしていた子どもたちは,

 成長して,教育公務員になれて,自分を「勝ち組」だと思っているのだろうか。

 実は,「学校生活を楽しんだ人たち」のことが,恨めしいのではないか・・・つまり,大人の言うことを聞いていた自分たちが,「負け組」だったことに気づいてしまったのではないかと思われる。

 教師になっても,自分が子どもたちのために役に立っているという気がしない。

 それこそが,自分がかつて「負け組」だったことの証明になってしまっているわけである。

 しかし,もう手遅れかも知れないが,「逆襲」する方法がある。

 それは,学校を本当に「勉強だけをするところ」にしてしまうという方法である。

 時代は,学校よりも塾の方を本当に自分に合った「勉強をするところ」にしてしまっているから,「負け組」の逆襲は,「完全敗北」への近道にしかならないのだが・・・。

 学校教育の息の根を止めるのが,不幸な学校生活を送った経験のある教師たちであった,という「史実」ができあがるのは,時間の問題かもしれない。

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教育」カテゴリの記事

コメント

コメントありがとうございます。

学校の教師にとって,自分が週に十数時間程度担当している授業が,子どもの成長の役に立っている実感を得られるだけでなく,実際にすべての子どもがしっかりと実力をつけるという業績を残せることは,とても幸せなことですよね。しかし,残念ながら,成果がなかなか出せない教師がたくさんいます。
勉強ができるのに,コミュニケーションが上手にとれない生徒がいるとします。
こういう子どもを見ていて,教師として,どんな働きかけをしたいと願うでしょうか。
勉強ができるのに,いじめを繰り返したり,いじめを見ても笑って見ないふりをしたりする生徒がいます。教師として,何が足りないと自覚すべきでしょうか?
教材研究はたくさんできているのに,生徒との人間関係を築くことに失敗している教師が抱えている課題とは何でしょうか?
授業の中で子どもを生き生きと動かせない教師は,行事を担当させても,部活動をもたせても,うまくいかないのです。
それはなぜでしょうか?

非常勤講師の先生方は,授業が「主たる業務」というより,ほとんど授業だけが業務です。非常勤講師として60歳まで学校でつとめる気力のある人はどれだけいるでしょうか。

教師の主たる業務である授業を、まるで二の次三の次の業務であるかのような書きぶりに感じられました。
それならば、「学校は授業なんかやめて、行事と特活と部活だけやればよい」という教育制度改革を提言されたらいかがでしょうか。

学校の勉強軽視が、「勉強でちゃんとした成績を残すためには、塾や家庭教師が必須である」という保護者の考えを生み出し
そしてそれが、保護者の経済力の差により、塾にいけるかいけないかという格差を生み出しているのだと思いますが。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より