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2018年1月

小学校における学級崩壊要因の拡大に備えて

 教育改革が「改悪」に過ぎない最もわかりやすい例が,小学校における英語の必修化である。

 小学校教員の「ナマの声」も届くようになった。

 「せっかく苦手な英語に縁のない仕事につけると思ったのに・・・」

 小学生の子どもを持つ身としては,各学校に,「最も英語の指導に自信がない教師」の授業を公開していただきたい。中途半端な力量で自信満々にやっているものの,発音がひどい教師の英語を聞き続けるのは酷である。

 それよりも自信なさげ,申し訳なさげに,とてもじゃないが中学校の英語科の教師に見せられたものではない,ただの遊びのような授業を突きつけられる方が,「いかに時間を無駄にしているか」を実感することができる。

 実践力が低い教員の授業を参観することで,どこにどのような問題が潜んでいるのかを明確にすることができる。どこのだれがこんな学習指導要領をつくったのか,と国民の怒りを一つにまとめることも可能だろう。

 小学校の学級崩壊の要因には様々なものがあるが,

 とにかく授業がつまらない,という子どもの悩みが根本にあるように思う。

 指導力のない教員は,「楽しい授業」をしなければならない,と焦る。

 しかし,「学び」がなく「遊び」にすぎない授業はすぐに飽きられて,すぐに崩壊に向かうのである。

 子どもだって,「バカにされていた」ことがわかるのだ。

 楽しい授業ができる教師のおかげで,とんだとばっちりをうけている,という悩み方もあり得るが,子どもが「わかる喜び」を実感できない以上は,机に縛り付けておくことはそもそも困難であろう。

 子どもはいくらでも立ち歩いて構わない,という学習形態が存在してしまうのも無理はない。

 英語の授業が始まることで,小学校に学校崩壊要因が加わることとなる。

 どのような対策が取れるだろうか。

 保護者の方では,英語の塾に通わせるという短絡的な発想が蔓延するだろう。
 
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小学校に望む本当の「働き方改革」=小学校が変われば「中1ギャップ」解消に一歩近づく

 まともな学校では,自分で自分を「リーダー」と呼ぶような教師はいない。

 生活指導というと,「それに適した先生」の仕事のように思えるかもしれない。

 テレビドラマで「生活指導主任」の役者は,体が丈夫そうで,怖そうなタイプが選ばれる。

 しかし,実際の教育現場で,優れた生活指導主任の資質は何かと問われれば,

 私は「調整力」だと即答したい。

 管理職はもちろんだが,教師たちの声に耳を傾けつつ,基本方針を徹底してもらえる「話法」が必要である。

 「みんなで~しましょう」

 「私たちは,~しています」

 という「話法」で語れるかどうかが,まずは生活指導主任としての第一歩である。

 自分の考え(あるいは管理職の考え)を他人に押し付けるタイプの人が生活指導主任になると,

 どうしても教師集団のコミュニケーションが希薄になっていく。

 生活指導には,日々起こる新しい事態への機敏な対応が求められる。

 迅速,敏速,俊敏,・・・・そんな「動き」が生活指導の・・・・学校の,命運を握る,と言っても過言ではない。

 しかし,「問題となる事態」を見過ごす教師が一人でもいると・・・・

 あるいは,「問題となる事態」を隠す教師,一人で何とかしてしまおうとする教師がいると・・・。

 共有されるべき情報が共有されないことが,「荒れる学校」から変われない原因の一つである。

 授業は個人の技能次第でいくらでも生徒をひきつけることができるが,

 生活指導は教師全体の揺るぎない統一感が命である。

 だれの口からも,同じような状況では同じような言葉が発せられる学校であることが,

 「荒れる学校」から変わるための条件の一つである。

 「信頼される学校」に変わるために欠かせない条件の一つである。

 だから,「私はこうした」という話をいくらしても,現場の教師の「助け」にはならない。

 生活指導には,「私たちはこうした」という「話法」が欠かせない。

 「私たちの学校は,すべての教師がすべての子どものことを真剣に考える学校です」

 という言い方をすべての教師ができる学校づくりが,生活指導主任の最も大切な仕事となる。

 しかし,小学校にはそもそもそのような「話法」が通用しない空気があるようだ。

 学級ごとに異なったルールが存在するのは当たり前。

 その理由。「子どもが決めたから」。

 当然のことだが,「どうしてあっちはよくてこっちはだめなの」という話になる。

 「クラスが違うんだから,当然だ」という「話法」になる。

 こういう風土の学校では,教師たちが「私たちはこうする」という「話法」が使われることはまれだろう。

 あっちでは試しに「学び合い」をやっている,こっちでは「ドリル中心」でやっている,

 そっちでは「指導書どおり」にやっている。

 授業はそれでいいのかもしれないが,

 授業の基盤となる「生活」が,学級によって異なってしまっていては,中学校に進学したときのギャップに子どもは苦しむことになってしまう。

 どうして学校にマンガを持ってきてはいけないのか。

 どうして休み時間にゲームをしてはいけないのか。

 どうして放課後にお菓子を食べてはいけないのか。

 小学校のときは,よかったのに。

 昔は「いけないものはいけない」という言葉が通じたが,今はそうではない。

 小中のスムーズな接続に最も必要なのは,

 学習指導の問題ではなく,

 生活指導の問題である。

 生活指導の「話法」の有無が,問題なのである。

**************************

 以上は,2014年2月16日の記事:『生活指導の充実を図るための教師の「話法」』の冒頭を一部改変したものである。

 「私のクラスには,そんな問題はない」なんていう反応に意味がないこと,むしろ罪が重いことがわからない限り,小学校の学校経営がつとまるはずもない。管理職がいなくなるのも時間の問題だったのである。

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【都立高校入試】 インフルエンザにかかってしまった場合は・・・

 文科省からの指導もあり,インフルエンザに罹患して入学試験(検査)が受けられない中学生に対して,東京都教育委員会は以下のような方針を発表しています(HPより。日程を書き加えてある)。

 まだ続くチャンスが残されているので,すでに終了した推薦入試については,追検査は行われません。

*************************

 第一次募集において、インフルエンザ等の学校感染症(以下「インフルエンザ等」という。)に罹患し、受検することができなかった者に対して、志願した都立高校の受検機会を確保するため、以下のとおり追検査を実施する(分割募集を実施する都立高校を除く。)。

<実施日程>
○ 分割後期募集・全日制第二次募集と同日程で実施

   3月6日(火)  入学願書受付 

   3月9日(金)  入学検査実施

   3月15日(木)  合格発表

<応募資格等>
○ 第一次募集の検査日当日に、インフルエンザ等に罹患した者又はインフルエンザ等の罹患により出席停止中の者で、第一次募集で出願した都立高校を受検することができなかった者(1教科でも受検した者は除く。)のうち、インフルエンザ等学校感染症罹患者に対する措置を申請し、当該都立高校長から承認を得た者

<出願方法・出願手続>
○ 第一次募集において、インフルエンザ等の罹患により受検することができなかった都立高校にのみ出願することができる。
○ 追検査に出願した場合は、分割後期募集及び全日制第二次募集を実施する都立高校に出願することはできない。
○ 出願の際に、所定の入学願書のほか、医療機関の証明書又は中学校長が出席停止の措置を行ったことを証明する書類を提出する。

<学力検査等の実施>
○ 国語、数学、外国語(英語)の3教科及び面接等(各都立高校が定める。)
○ 学力検査会場は、都教育委員会が指定する。学力検査以外の検査会場は、各都立高校が受検票により指定する。

※ 募集人員は、平成29年10月に発表予定の「平成30年度都立高等学校第一学年生徒募集人員」に定める。
※ 実施要綱に定める内容のほか、追検査の実施に必要な事項は別途定める。

***********************

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小学校における究極の「働き方改革」

 公立小学校は,午後6時までに,次の利用者・従業員のために,場所を空けなければならない,という仕組みにすれば,小学校教員の「長時間労働」は抑制できます。

 午後6時から,塾,予備校,英会話教室,そろばん教室,料理教室,音楽教室,ピアノ教室,絵画教室,ダンス教室,体操教室,地域スポーツなどなどの開始です。

 塾に通う子どもも,一度,帰宅を義務づけます。だらだらと学校に居続けることは禁止です。

 授業料をできるだけ低く設定できるように,また,参入数を多く確保するために,使用料は限りなく安くします。

 子どもがいろいろな教室に通っているうちに,

 「午前中の授業に出る意味はないのではないか?」

 「午後6時からの教室の方が楽しいし,力がつくし,役に立つ」

 と感じ始めることによって,さらに教員の勤務時間は短くすることができ,やがてゼロになる。

 教員は再就職先を探すために,自分も教室で習い事を始める。

 究極の「働き方改革」が完成です。

 我が家の近所にある小学校は,かなりの崩壊度を誇っており,理想のカリキュラムマネジメントが,

 「午後6時からが大事」になりかねない猛威を振るっているようです。

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「深い学び」をイメージできない教員が多い理由

 いちいち説明するまでもないことでしょうが,自分がやったことがないことを人に教えることは難しいことです。

 音楽や美術,技術・家庭や保健体育で「深い学び」を実現させようとする人たちが落とし穴にはまることを,

 指導主事はしっかりと予見し,その防止のために力を尽くさなければなりません。

 世の中には,自己陶酔型の「深い学び」が溢れていますが,そんなものは無視して,子どもたちが学ぶ姿の実態から,本当の「深い学び」をくみ取れる感性が教員には求められています。

 現場に苦しみを植え付ける元凶になるのが,資質・能力という誤ったものの見方・考え方を前提にしてしまうことです。違う場所に正しいと誤解してどんどんボタンをとめていく事態は,避けられないのかもしれません。

 しかし,子どもの方を見ながら授業をすれば,高校生や大学生,大人を相手にするよりはるかにわかりやすく「深い学び」の本質を理解することができます。

 自分の頭を使って物事を考えようとしない教員が増えてきているのは,だれのためでしょう。

 「深い学び」を語る資格を持つことを自覚できる教員を増やすためにすべきことは何でしょう。

 できるだけ早い時期に,今まで「正しく」行ってきたつもりの,「観点別学習状況の評価」が誤っていたことを認めないといけません。

 個別の児童生徒の「思考力・判断力・表現力」の指導・評価場面が全くないのに,別の観点の尺度を使って評価していたことを認めさせることなしに,「深い学び」の実現に向かうことは不可能なのです。

 「正しく」できていないものを,できていることにする,という悪い習慣を消さなければならないのは,もちろん教育の世界だけではありません。

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官僚との「飲み会」をセッティングする大学のセンセイ

 私の知り合いの官僚は,自ら「飲み会」の場所を確保してくれるような気さくな方であり,とてもではないが公言できない情報がたくさん得られる機会をつくってくれている。

 身も蓋もない学校の話をたくさん書いてきたが,さすがに本家本元の情報をここで公開することは不可能である。

 省庁は別だが,教育の現場にとても高い関心をもってくれている人に出会うこともある。その方はとても謙虚であり,そのおかけでお互いに非常に濃密な情報のやりとりが可能になった。

 官僚との「飲み会」をすれば,誰が誰をどれくらい信用しているかが,手に取るようにわかる。

 信頼しなければならない人が信用されていないことを知ることも,長い目で見れば重要なことだろう。

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教員の業務負担軽減を考える業務がただ負担増加を招いているだけという笑えない実態

 おそらくですが,教育の世界で,真っ先に業務負担軽減を実施するところは,

 しらばくすれば最も業務負担が増える学校になります。

 教育という仕事の本質を理解せずに,時間の長さとか人の数とか単純な数字で何かを判断しようとする人間が改革にかかわることで,現場の混乱が避けられなくなる事態が続いています。

 業務負担を減らすための会議にかかわった先生が嘆いていらっしゃいました。

 「こういう会議こそ,負担しか増やさない」と。ろくでもない改善策を潰すための労力は相当なものでしょう。

 教育の世界には,現場の実態をほとんど知らない事務方と,私たち実働部隊という二種類の人間がかかわっていますが,事務方を家でも学校でも問題ばかり起こしている子どもをもっている人ばかりにすれば,少しはまともな「改革」が進展するかもしれません。

 
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教員の業務負担を軽減させる方法

 教育の仕事の業務量の中には,本来はしなくてよい仕事もたくさん含まれているのですが,

 それは本来しなくてよい仕事ができるのを防ぐためでもあります。

 この意味がわからない人が業務量を減らそうとすると,

 教育現場の仕事量は間違いなく増加します。

 心配事が増えるのも考えものです。

 業務負担を軽減させるには,増やすべき仕事があるのですが,

 その担い手を育てない限り,教育現場に未来はありません。

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「何何の仕方」改革が失敗する理由

 「働き方改革」は,今後上手に進めることができるでしょうか。

 教育の世界では,「~の仕方」という言葉が出てくるとき,現場ではたいてい成果が出せずに終わっています。

 「生きる力」が登場したとき,「学び方を学べる」総合的な学習の時間が始まりましたが,今,どうなっていますか?

 今度は,「見方・考え方」を働かせる学習が始まろうとしていますが,小学生が教科ごとにそれらを働かせることは可能だと思いますか? 

 高校の教育や授業を改善させる目的で,小学校から続く串を用意したのでしょうが,小学校でそれが機能するでしょうか?

 内容を語る力がなくなったときに,人間は何かの「方法」に頼ろうとします。

 教養が失われたときに,人間は何かの「手段」に頼れば何とかなると考えます。

 お粗末な内容のオンパレードによって,「方法」や「手段」が「戦犯」になることがわかっている教育改革。

 学校現場は,「働き方」の問題ももちろんあるでしょうが,「仕事の質」を問わずして,「方法」で何かが解決すると思ってしまう人こそが,「改革されるべき存在」なのです。

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どうして「本」に書かないと気がすまないのだろう?

 自分の教育理念等を広めるために,「本を書く」ことを選択する人がいますが,

 「本」の宣伝を自分のHPやブログでする余裕があったら,どうして

 HPやブログに内容をそのまま載せないのでしょう?

 新書の半分も文字の分量がないような内容を,わざわざ「本」にする意味はどこにあるのか?

 ・・・それは,本が仕事の「業績」になるからなんですね。

 売りものをつくれば,「お仕事」をしたことになる。

 世間に広める気があるわけではなくて,金を出して買ってくれる人にだけ情報を提供する。

 これを公務員の立場でやっている人もいる。

 本当に人の役に立つ気があるの?と聞いてみたいものです。

 ある小学校の研究会の参加費は5000円です。

 5000円払って,平日に授業や協議会に参加する小学校のセンセイがいるのは奇特なことです。

 小学校内に,複数の出版社がずらっと売りものを並べて待っている風景を見て,何か感じる人はいないのでしょうか。

 「働き方改革」より前に,何かすることがあるのでは・・・?

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出始めたら止まらない膿

 どこがどのように病んでいるかを説明できない組織では,「膿を出し切る」という能動的なことはできず,

 ただただ繰り返される問題に謝罪等でその都度対応せざるを得なくなる。

 また,膿を出しているそばから内部が腐っている場合,「垂れ流し」の状態が続くことになる。

 私は学校でそれを経験した。

 自分たちに課題があることを認められない組織では,何も解決できない。

 論文のインチキがバレるたびに,優秀な研究者が現場から退いてしまえば,何がそこに残されるのだろう。

 お相撲さん達が参加していた国技館での研修が報道されていたが,

 「ああいう形態」での研修に意味がないことは,学校教育が実証してきている。

 「立ち直る」方法を教えてくれるのは,案外,中学生だったりするかもしれない。

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もしZ省に入省試験があったら・・・

 省として「正しい」答弁ができるように,漢字の意味を理解しているかどうかのテストを行います。

 次の文章を読んで,あとのア~エの中から正しい文を1つ選びなさい。

 2億円を1億円に値下げできませんか。

 1億円以下は無理です。1億500万円でどうでしょう。

 ア 1億500万円は,価格であって金額ではない。

 イ 1億500万円は,価格でも金額でもない。

 ウ 1億500万円は,金額であって価格ではない。

 エ 1億500万円は,金額であるが,価格ともいう。

 Z省の正解は,ウです。

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教員養成の質の向上と優秀な教員志望者の減少の因果関係

 行政は,自分たちにとって都合の悪い情報は開示しません。

 文科省の「口裏合わせ」や「想定問答集」に見られたように,嘘をつくのが前提で動く組織もあります。

 隠されたり嘘をつかれたりするので,データはあてになりません。

 政治家が「エビデンス」を連呼するようになったのは,自分が嘘をつきやすくするためと,部下たちがマニュアルに従って嘘をつきやすくするためであるように思います。

 ただ,「エビデンス」などなくても,実態を見るだけで,優れた資質能力を備えた教員志望者が減少していることがわかります。

 教育職員免許法の改正によって,優れた資質能力を備え,高い学力をもった学生が集まる大学で,教員志望者が減少していくことが危惧されています。大学によっては,教職課程を放棄せざるを得ないところも出てくるでしょう。

 自分の専門分野と,教職課程の履修が両立し得ないカリキュラムになっている非教員養成系国立大学もあります。

 これでは,そもそも教職課程を置いておく意味がありません。

 あまり学力が高くない学生が多い大学の教職課程を担当している先生に聞いたことがあるのは,「まず採用試験に合格できない」ということです。

 そうすると,こういう大学でも,教職課程を置いておく意味も感じられない。

 では,改正された法律に基づく新カリキュラムで履修した学生は,優秀な教員になれるのか?

 制度設計の前提から間違っていると考えざるを得ません。

 採用試験の倍率が低ければ,新カリキュラムで優秀な成績を取ったわけではない学生も大量に合格してしまう恐れがあるのです。

 採用試験の倍率が下がる可能性がある制度のあり方が,まず前提として大問題なのです。

 以上の考えは,「内外教育」1月16日号の巻末に掲載されていたコラムの趣旨とほぼ同じです。

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子どもは弱者を襲う

 学校で「いじめ」の対象になるのは,子どもだけとは限りません。

 法律上では「児童生徒」が対象でも,学校現場ではセンセイに対する「いじめ」が発生しており,そのために病気休職や退職に追い込まれたりしています。

 「いじめ」の対象になるのは,多くの場合,弱い子どもです。ごくまれにそれまでグループを仕切ってきたリーダー的な存在の子どもになる場合もありますが。

 同じように,センセイを対象にする「いじめ」も,弱い人に集中します。

 非常勤講師で実験し,それが上手くいくと,常勤講師に「格上げ」していく。

 まさか教育を専門的な職務にしている立場の人間が,「私は子どもにいじめられて困っています」とは言えないから,どうしようもない状態になるまで,同僚にも管理職にも相談できず,他のクラスや子どもに迷惑がかかった段階で,表面化します。しかし,表面化したときにはどうようもない状態になっているので,手の打ちようがなく,公立学校の場合は,「異動」や「クラス替え」で「問題解決」を図ります。

 マスコミも含めて,もう少し早めに「センセイを対象にしたいじめ」の実態を明らかにする努力をすべきかもしれません。

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消された学校像~完コピをつくるなら,どこがモデル校に?

 時事通信社の「内外教育」とはどんなものか,管理職以外の先生方にはわからないかもしれない。

 私も,指導主事時代にしか読んだことがなかったものだった。

 たまたま,事務室の机の上にあったので,表紙のコラムを久しぶりに読んでみた。

 校種は別だが,私と同じ教科の指導主事の先輩で,文科省にも長くいらした先生の愚痴が書かれていた。

 平たく表現すれば,「学習指導要領」の質が変わったことを嘆いておられる。

 大学の先生の仕事は,文科省の主張の完コピをするだけになったから,存在意義もないことに気づかれたのだろう。

 全国学力調査の余波なのか,政権の性格が世の中全体にコピーされ始めているのか,理想の学校像というか,学校づくりの大原則,基本方針が変化してきている。

 かつては当たり前だった,学校づくりにかける大切な思いが,消されているのである。

 コラムには,私が「必ず失敗する新学習指導要領」と評価している根拠と同じような内容が書かれていた。

 主体性を求めているくせに,時間はもちろん,内容から方法まで,完全にがんじがらめにする新学習指導要領は,「お上に黙って従う=主体的な態度」という支離滅裂な精神構造を鉄筋コンクリートで固めるようなものである。

 思考停止を強いている人間に,「多面的・多角的な見方・考え方」など育てられるはずもない。

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学校は教員のためではなく,子どものためにある

 当たり前のことなのですが,学校は子どものためにある場所です。

 しかし,占有時間の長さの違いから,学校は子どものためではなく,自分のためにあるものだと勘違いする教員が紛れています。

 コンビニを「お客様」のためではなく,「自分」の冷蔵庫がわりに使っている経営者もいるかもしれませんが,「お客様」が来店しない限り,経営は成り立ちません。

 病院も同じです。病院は医師のためにあるのではなく,患者のためにあるのです。

 学校は,子どものための場所でなければなりません。

 だから,学校で抱え込んであげるべきは,苦しい立場にある子どもたちです。

 学校で守ってあげるべきなのは子どもであって,指導力不足教員ではないのです。


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なぜ新しい学習指導要領が失敗に終わることがわかっているか

 新しい情報は,やはり自分の足で稼がないと,なかなか入手できないものです。

 今回の指導要領改訂にかかわった人物が表舞台に出てくるようになったようなのですが,そのおかげで,人物の表に出にくい経歴を知る立場の人が現れ,情報を得ることができました。

 私の予想が当たっていたようです。

 教育の話題というのは,なかなかニュースとして扱う価値がないようで,すでに公開されている情報の中に,さまざまな矛盾があるのに,だれもそれを追及しようとはしていないようです。

 大学の先生などは,それだけ官庁の力を恐れる環境に置かれ始めたということなのかもしれません。

 批判できない大学人の存在価値はないような気もしますが,時代は国家総動員体制に移行しているようです。

 なぜ新しい学習指導要領が失敗に終わることがわかっているのか。

 今までの失敗とは,また質の異なる失敗が起こることが目に見えています。

 教育の理念というか理論の骨格に当たる部分を語れる大学の先生がおらず,

 教育方法とか教育評価という,本筋とは別の,内容についての専門性がないセンセイの声しか拾えない環境にあることも,失敗に終わることに気づけない原因かもしれません。

 成功体験のない人たちなのですが,なぜか失敗感覚というものもない。

 「資質・能力」=「学力」という図式の意味をきちんと説明できるセンセイはいるでしょうか?

 小学生と高校生が同じような「見方・考え方」に閉じ込められる「教科」に存在意義はあるでしょうか?

 「教科」を解体することが,新しい学習指導要領の隠された本当のねらいである,というのなら,よく理解できます。
 
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教員が他の公務員と少し異なるところ

 私は3年間行政の立場にいたので,教員の特殊性を客観的にながめることができました。

 教員は,普段,「上司」の気配をそれほど感じずに仕事ができます。

 行政では,「上司」がいなければ仕事が先に進めないようにできています。

 数々の文書は,「法令通りに職務を遂行してきた記録」なのです。

 そういう文書は現場ではほとんど皆無です。

 その代わりに,子どもたちのために,記録をしっかりと残すこともできます。

 私が作っていた学級だより,学年だよりは,今でも大切な財産です。

 行政にいるときは,「すぐにすべきことが何もない」時間があります。

 教員は,勤務時間のほとんどを常に「子ども」と一緒にいるので,いつも必ず「すべきこと」があります。

 目の前にいる「子ども」は教育という仕事の対象であり,様々に掲げられた目標を達成させるために,多くの働きかけをしなければなりません。

 消防士さんで言えば,火事が常に起こっている状況です。

 警察官で言えば,犯罪が常に起こっている状況です。

 たとえは悪いですが,たとえに近いことが本当に起こることもしばしばです。

 裁判官は,常に複数の案件を抱えて,頭をフル回転していないといけないように,教員も,同じような状況にいます。

 ですから,生半可な使命感では続かない職業です。

 その「半端のなさ」を理解してもらえる機会が,大学にはあまりないのでしょう。

 「動機付け」も非常に大切なのに,それを得るきっかけもない。

 覚悟が決まっていない人が現場にいることが,どれだけ教員たちと子どもたち両方の負担になるか,分かってほしい人は分からないもので,それほど気にする必要がない人が気にしてしまう。

 世の中,難しいものです。

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人間の醜さを露呈させる教育方法

 人間には,多様な種類ごとにレベルの異なる醜さが備わっています。

 たとえば,「自分にとって得だと思えることだからやる」という利己主義。

 私がその文化を知らない地方には,利己的な子どもばかりをどうしたら動かせるようになるか,悩みもしないで,その利己主義を利用する安易な教育方法に走る人間がいるようですね。

 教師にとって,これほど醜悪な判断の仕方はありません。

 それが醜悪に思えない地方の人がいるのは意外です。

 また,どんな人にでも分け隔てなく接することができることが善だという,平等主義を平気で放棄できる地方もあるようです。こっちは何となくわかります。近い奴ほど憎い,という感覚は,閉鎖的な地方独特の文化ですね。

 嫌な奴とは付き合うな,という「教え」を,利己主義に固まった子どもにすれば,どんなことになるのか。

 醜いという言葉では表現しきれないほどの腐臭を発する教育を語る人間がいるんですね。

 「身近な地域」との交流がなく,遠く隔てた地方に存立の意義を見いだそうとする人たちにとって,「郷土」とはどんな意味をもっているのでしょう。

 どれだけ「地域」の子どもをバカにしようが,「こういう風にだけは育ってほしくない」と思える大人はいないのでしょうか。

 大丈夫ですかね。

 まだ風邪とかインフルエンザくらいに軽く思っている管理職が哀れです。

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価値を落とすことで慰めとする「負け組」の行動を許さない

 あることに失敗したとき,あるいはうまくいかなかったとき,それを自分の実力不足のせいにすると,心が痛む。

 心が痛まないようにするために,「悪いのは自分ではなくて,『あること』自体,あるいは他人がおかしいのだ」と責任転嫁,責任回避してしまうと,その人は完全な「負け組」になってしまう。

 好きになるときは長所ばかりを見て,ふられたら,短所ばかりを探す。そういう自分だけが傷つく話に,「重み」はない。

 しかし,『あること』が教育に関するもので,「負け組」が教師の場合,教師だけが「負け組」になるだけではすまないという問題がある。

 子どもたちが「負け組」に巻き込まれてしまうのである。

 「一斉授業は問題が多い」と批判する人は,

○教師ばかりが話したりまとめを黒板に書いたりしているだけで,子どもたちはただ聞いて黒板をノートに写しているだけである。

○教師はだれが何をどの程度理解しているか評価しようともせず,評価するつもりがないから,発言しようとしない子ども,考えようとしない子ども,寝ている子ども,塾の宿題をしている子どもがいる。

 などを「問題」として例示するのだろうが,これは100人くらいを対象とする大学の講義の話だろう。

 40人規模の授業では,そもそも「一斉授業」とは言っても,ペアワークやグループでの話し合い,発表,ワークシートなどをもとにした作業,自己評価,他者の主張の記録と評価などを行うことがある。

 だから「大学のような講義形式の一斉指導」をしているわけではない教師たちにとって,そもそも「アクティブ・ラーニング」の重要性や必要性が訴えられたのは大学においてのことであり,大学で一斉指導をしている人たちの多くは,「教員免許=教育や学習指導についての専門性を持っているという肩書き」がない人たちで,大学教員向けの「講義の仕方」の本まであることを知ると,「なるほどね」と大いに納得できるのだ。

 もちろんある一定の割合で,大学の講義形式の一斉指導を好む教師がいることも,間違いはなく,小→中→高校と校種が上がっていくにつれて,その割合は高くなっていく。

 講義一辺倒の授業をしてしまうのは,「先生らしさ」を勘違いしている教師の自己満足・自己陶酔を促す効果があるからであり,「手抜き」をしているように見せない効果もあるからである。

 ただ,大学の教員と同じように,講義一辺倒の授業から抜けだそうとするときに,一定の困難が教師たちに立ちはだかっている。たかだか3週間の教育実習で,教師もどきの授業をしただけで,教育効果が高い学習指導ができるわけではない。そもそも子どもたちの個性を知らない人間が子どもの前に立たされているのである。教材内容に関する知識や理解の欠如もすぐにばれてしまうし,思考を軸とする授業を受けたことがない教師たちにとっては,「何をどう考えさせたらよいのかわからない」という壁にぶち当たる(本当は,教育実習でこの壁と向き合わせる必要があるのだが・・・)。

 本当に手抜きで未熟な授業を展開していて,子どもがついてこれないとき,自分の問題を棚上げしてしまう「負け組」が,「一斉授業が悪い」という思考経路にはまる可能性を私は危惧している。

 「一斉指導」「一斉授業」というスタイルの価値を貶めることで,それができない「負け組」の教師たちが救われる環境が,一部の学校でできつつある。「負け組」による誤った選択から生まれる教育環境ほど,子どもたちにとって不幸なものはない。


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アメリカと日本で同時に起こっていること

 トップが露骨な差別感情をむき出しにするからと言って,その国の国民全部が品位のない人たちばかりだとは限らない。ただ,人間が抱く嫌悪の感情というのは,特定の個人から,なぜだか同じ属性をもつ多数の人間に拡大していってしまう。人種差別と縁が切れないのに不思議と圧倒的パワーをもっていたアメリカという国の瓦解へのカウントダウンが始まっている気がする。

 「寛容」という言葉が辞書にないかのように思える自国第一主義の国の「同盟国」「友好国」「属国」である日本の未来も決して明るくない。

 アメリカで起こっていることが,しばらくしてから日本でも起こり出すという現象が,政治の世界でも見られるだろうか。

 モノ真似国家と揶揄された近代のはじめだが,「モノ真似以外」の部分が非常に分厚かったことは,なかなか実感しにくい。ただのモノ真似しかなかったら,根付くことがないのが「文化」というものである。

 さて,今,アメリカと日本で同時に起こっていることとは何だろう?

 少し先のことを考える必要性に気づかせてくれる人物は,意外と優秀な政治家なのかもしれない。


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私は立派な非常勤講師と特別支援学級の子どもたちを見てきた

 学校の教師にとって,自分が週に十数時間程度担当している授業が,子どもの成長の役に立っている実感を得られるだけでなく,実際にすべての子どもがしっかりと実力をつけるという業績を残せることは,とても幸せなことですよね。しかし,残念ながら,成果をなかなか出せない教師や子どもがたくさんいます。

 勉強ができるのに,コミュニケーションが上手にとれない生徒がいるとします。

 こういう子どもを授業中に見ていて,教師として,どんな働きかけをしたいと願うでしょうか。

 勉強ができるのに,いじめを繰り返したり,いじめを見ても笑って見ないふりをしたりする生徒がいます。

 教師として,何が足りないと自覚すべきでしょうか?

 教材研究はたくさんできているのに,生徒との人間関係を築くことに失敗している教師が抱えている課題とは何でしょうか?
 
 授業の中で子どもを生き生きと動かせない教師は,行事を担当させても,部活動をもたせても,うまくいかないのです。

 それはなぜでしょうか?

 非常勤講師の先生方は,授業が「主たる業務」というより,ほとんど授業だけが業務です。非常勤講師として60歳まで学校でつとめる気力のある人はどれだけいるでしょうか。

 私が赴任した2校目の中学校には,放課後の部活動の指導にあたる教師がほとんどいませんでした。

 荒れがひどい子どもたちは,時間をもてあまして,次々に非行に走ります。

 校庭では,陸上部だけが活動していました。

 その指導にあたっていたのは,非常勤講師の方でした。

 当然,無給ですね。放課後すぐに開始しても,勤務時間には含まれませんから,完全なボランティアです。

 この部活動に参加していたのは,荒れた学校の中では真面目で成績のよい生徒ばかりでした。

 非常勤講師の方は,練習中,とてもよく生徒とコミュニケーションをとっていました。

 悩みごとの相談にも乗っていたようです。

 「この人が,本当の崩壊を崖っぷちで救っていたのだ」と思いました。

 陸上部に参加している特別支援学級の子どもたちの元気な姿にも励まされました。

 常勤の先生たちは,どんな毎日を送っていたのか。

 かなり早い時間から,職員室はがらんとして,すみの方にあったソファーでたむろしている中学生の人数の方が多い,という状態もありました。

 授業が成立せず,鬼ごっこで時間が過ぎて,大幅に進度が遅れていた前年度の借金を中3で取り返すのは大変なことでした。

 ソファーの撤去や自習の廃止(=時間割の入れ替え)など,2ヶ月くらい,教師はもちろん子どもの抵抗にもあいましたが,「正常化」がもたらす効果を信じることができたおかげで,学校も立ち直り,部活動もさかんになってきました。

 子どもが自らの意思に基づいて困難を乗り越えようとする活動の場面が与えられることで,学校の空気が一変します。

 学習の成績は,「あとからついてくるもの」でした。

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「負け組」の逆襲~「学校は勉強するところであるべき」

 教育現場の現状を知るにつれて,わかってきたことがある。

 昔なら,「働き方改革」とか,「部活動の外部委託」の話など,鼻にもかけない教師たちが多かった。

 今では,声を上げられる教師が増えている。

 なぜだか,こうした現象は「負け組」の逆襲に見えてくる。

 「学校は,勉強するところであるべきだ」という,一見すると正しそうだが,多くの人が「それが何の役に立ったのか?」と反感も持っている言葉を,堂々と口に出せる環境になってきたことは,何を意味するのか?

 「学校は,勉強するところだ」という言葉を真に受けて,勉強ばかりしていた子どもたちは,

 成長して,教育公務員になれて,自分を「勝ち組」だと思っているのだろうか。

 実は,「学校生活を楽しんだ人たち」のことが,恨めしいのではないか・・・つまり,大人の言うことを聞いていた自分たちが,「負け組」だったことに気づいてしまったのではないかと思われる。

 教師になっても,自分が子どもたちのために役に立っているという気がしない。

 それこそが,自分がかつて「負け組」だったことの証明になってしまっているわけである。

 しかし,もう手遅れかも知れないが,「逆襲」する方法がある。

 それは,学校を本当に「勉強だけをするところ」にしてしまうという方法である。

 時代は,学校よりも塾の方を本当に自分に合った「勉強をするところ」にしてしまっているから,「負け組」の逆襲は,「完全敗北」への近道にしかならないのだが・・・。

 学校教育の息の根を止めるのが,不幸な学校生活を送った経験のある教師たちであった,という「史実」ができあがるのは,時間の問題かもしれない。

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小5の受験生の社会科勉強法

 中学受験用のカリキュラムだと,小5の1月で,歴史の学習が終わる。

 公立小学校のカリキュラムでは,小6で学習する範囲である。

 SAPIXの1月のテストの平均点を聞いて驚いた。

 社会科は,100点満点で30点程度。

 上位の子どもにたちに差をつけるためのテストを受けさせる塾である。

 こういう問題を解かされた子どもたちと,

 まだ全く歴史の学習をしていない子どもたちとの間に,どんな「格差」が生まれているのだろう?

 そもそも,中学校で学ぶレベルの歴史学習に,どんな意味があるのだろうか?

 SAPIXに通って授業を受けている子どもでも,大部分の子どもが理解できていない問題を出す意味は,どこにあるのだろうか?

 授業ノートも見せてもらったが,内容は「つまらない」の一言に尽きる。

 女子の平均点は20点代らしいが,それは無理もないだろう。

 まだ中学校の教科書を読んだ方が,「予習」にもなってよいかもしれない。

 さすがに「受験に出やすい内容」がしっかりと出ているプリントであるが,

 もし「教育的配慮」を進学先の中学校が考えるならば,もう少し出題する内容を検討するか,

 学習指導要領に示されていない内容を出題することをやめるとか,

 やるべきことがあるのではないか。

 「歯止め」は学習指導要領ではなく,「入試問題」にかけるべきだと思われる。

 勉強嫌いになってしまった「受験上がり」の子を「勉強好き」にする醍醐味も味わえるのであるが。


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税金が正しく納められない原因

 ネットニュースでは,今年の確定申告では,一定の混乱が見られるだろうという予想が書かれている。

 原因は,国税庁長官にあるという。

 野党の代表が「おかしな説明をしていた人」と呼び,「確定申告前にけじめをつけるべき」と主張している。

 もし本当に確定申告で混乱が発生するとしたら,原因はどこにあると説明するべきなのか。

 担任の先生がある生徒に「死ね」と発言したとする。

 クラスの生徒が,別の弱い生徒に「死ね」と発言し,他の生徒や教師から注意を受けたとき,

 「先生も言ってるんだから,いいだろう」と発言の「正当性」を主張したとしたら,どうか。

 こういうときに,「道徳教育」の質を問う,ということも可能だろうが,

 今の時代のように教員が次々に犯罪行為をしたり,子どもにバカにされたりしているときに,

 「道徳教育」そのものが本当に成り立っているのか,という「前提」を問う必要もあるだろう。

 日本の教育の質がそこまで低下し,

 「許せない国税庁長官がいたら,税金などいくらでもごまかしてかまわない」何ていう価値観が広がるようだったら,いつどこでどのように立て直すことができるのだろう。

 今の学校教育を立て直しても,効果ができるのは・・・少なくとも確定申告を行う年齢まで待つとしたら,かなりの年数を経てからのことである。

 「あいつが悪いから,オレも悪いことをしてもいい」という子どもレベルの判断基準でも,

 害が広く他人に及ばない場合もあろうが,税金に関して言えば,影響力は甚大である。

 だからそもそもそういう事態を招かないように政治をコントロールすべきだ,という考え方もできるだろう。

 確定申告,どうなるだろう。

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AとBなら,Bの方がまし,という判断で道を誤った人たち

 教室での学習のリーダーは,(教科)担任の教員です。

 このリーダーが選択を誤ると,被害を受けるのはもちろん教室の子どもたちです。

 じっくり課題に取り込ませるにしろ,多くの事実を語りながら,その関係性に気づかせるにしろ,だれかが調べたことを発表させ,討論させるにしろ,学習では一面的な見方・考え方にとらわれない思考に基づく理解が必要で,わかったことを表現させることによって各自の理解度や思考のあり方を評価することが可能となります。リーダーにとって必要最低限の仕事は,評価の材料=作品を作らせることです。

 その具体的な作品をもとにして,評価の練習をさせてくれる教員養成系大学はどれくらいあるでしょうか。 

 大学の教科教育という専門分野というか専門的な領域がなかなか現場の役に立っていないためか,その存在意義を深く感じられている教師はごくごく少数で,やる気のある人たちは,評判の高い教師に学ぼうとその現場に足を運びます。一部の学校で行われている研究発表のように,優れた大学の先生の話も聞ける場合は一石二鳥なのですが,話が難しすぎると,「やはり子ども相手に実践しているわけではない人は,ダメだね」という印象で終わってしまう。もったいないことです。

 大学の教育学部には,教科教育の専門ではない人もいて当然です。今,どちらかというとこっちの方が現場のニーズがあるらしいことが,さらに残念です。

 教科教育ではない別の分野から,AよりBの方がまし,という判断?から,一部の「できる」子どもを利用する授業のやり方を推奨している人が登場したのは何年前だったのでしょうか。

 子どもを利用する教師の姿は我慢できるとしても,「損得」という価値観で子どもを誘導したり,将来はこんなに悲惨なものだと恫喝したりする神経には,強烈な違和感を覚えます。

 学生のレベルに合わない欧米の理論を押しつけたり,自分が実践したわけでもない方法を押しつけたりする方がまだましのような気もします。

 利用された子どもたちの姿をネタにして稼ごうとする人たちは,何か大切なものを見失っていないでしょうか。

 歴史上では,AとBなら,Bの方がまし,という判断で道を誤った人たちが本当にたくさんいます。

 どれくらいたって「誤りでした」と認めてくれるのかわかりませんが,どうやったら被害を最小限に食い止めることができるかを考えています。

 教師は,失敗から多くのことを学ぶことができますが,失敗する意味もない失敗というものがあります。

 だれかいい加減な未来予測に惑わされないまともな人が1人でもいれば,子どもは救われるのですが。

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部活動の扱いの迷走~学習指導要領総則編から~

 まず,現行の学習指導要領総則編から,「部活動の意義と留意点等」を確認しておく。

第5節 教育課程実施上の配慮事項 13 部活動の意義と留意点等

 (13) 生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,地域や学校の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。

 実は,平成10年版では,クラブ活動との関連で言及がなされていた記述がなくなっていた「部活動」である。

 平成20年版では,上記にように示された。

 しかし,平成29年版=次期学習指導要領では,

 「教育課程外の学校教育活動と教育課程との関連」という項目の中でふれられることになった。

教育課程外の学校教育活動と教育課程の関連が図られるように留意するものとする。特に,生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,学校や地域の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行い,持続可能な運営体制が整えられるようにするものとする。

 現行でも次期学習指導要領でも,部活動の「完全外部委託」があり得ないことは明らかである。

 実際に,地域のテニススクールに通っている小中学生は多いと思われるが,学習塾と同じで,子どもが勝手に通っているだけで,「学校との連携」があるわけではない。下手に商業スクールが学校に入ってくれば,「勧誘」が進められることが容易に予想できる。

 さて,解説の文章に目を向けると,部活動の意義(このタイトルは消えたが)が現行よりも詳しく示されている。

中学生の時期は,生徒自身の興味・関心に応じて,教育課程外の学校教育活動や地域の教育活動など,生徒による自主的・自発的な活動が多様化していく段階にある。少子化や核家族化が進む中にあって,中学生が学校外の様々な活動に参加することは,ともすれば学校生活にとどまりがちな生徒の生活の場を地域社会に広げ,幅広い視野に立って自らのキャリア形成を考える機会となることも期待される。このような教育課程外の様々な教育活動を教育課程と関連付けることは,生徒が多様な学びや経験をする場や自らの興味・関心を深く追究する機会などの充実につながる

 特に,学校教育の一環として行われる部活動は,異年齢との交流の中で,生徒同士や教員と生徒等の人間関係の構築を図ったり,生徒自身が活動を通して自己肯定感を高めたりするなど,その教育的意義が高いことも指摘されている。

 そうした教育的意義が部活動の充実の中のみで図られるのではなく,例えば,運動部の活動において保健体育科の指導との関連を図り,競技を「すること」のみならず,「みる,支える,知る」といった視点からスポーツに関する科学的知見やスポーツとの多様な関わり方及びスポーツがもつ様々な良さを実感しながら,自己の適性等に応じて,生涯にわたるスポーツとの豊かな関わり方を学ぶなど,教育課程外で行われる部活動と教育課程内の活動との関連を図る中で,その教育効果が発揮されることが重要である。

 下線部に注目しながら,教育課程全体との関連で「部活動」の意義を簡単に述べるとすると,「主体的・対話的・多様な人間関係の中で・深い学びができる」場である。

 「部活動の指導ができない」と言っている教員がいたとしたら,人事考課に直接影響することになる。

 なお,次期学習指導要領解説編では,「部活動」の課題を棚上げしているわけではない。

③ 一定規模の地域単位で運営を支える体制を構築していくことが長期的には不可欠であることから,設置者等と連携しながら,学校や地域の実態に応じ,教員の勤務負担軽減の観点も考慮しつつ,部活動指導員等のスポーツや文化及び科学等にわたる指導者や地域の人々の協力,体育館や公民館などの社会教育施設や地域のスポーツクラブといった社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うこと,をそれぞれ規定している。

 各学校が部活動を実施するに当たっては,本項を踏まえ,生徒が参加しやすいように実施形態などを工夫するとともに,生徒の生活全体を見渡して休養日や活動時間を適切に設定するなど生徒のバランスのとれた生活や成長に配慮することが必要である。また,文部科学省が実施した教員の勤務実態調査の結果では,中学校教諭の部活動に係る土日の活動時間が長時間勤務の要因の一つとなっており,その適切な実施の在り方を検討していく必要がある。なお,先述の教員勤務実態調査の結果を踏まえ,平成 29 年6月 22 日に文部科学大臣が中央審議会に教員の働き方改革に向けた総合的な方策の検討について諮問した。

 さらに,スポーツ庁では運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン作成の検討を行っているところであり,こうした議論についても注視する必要がある。

 ガイドライン作成が困難を極めることが想像できるのは,「部活動」と一言で表現しても,スポーツの種類によって全く内実が異なるからである。それでも,「これ以上はやり過ぎ」というラインは引くべきだろう。

 先に述べたように,私は土日の練習試合をほとんど実施しなかった。自分が草野球をやっていたからである。

 子どもたちは,自主的に地域の体育館に集まって活動をしていたらしい。

 ただ,体育館で怪我をした場合,学校が責任をとれなかったのは気の毒のような気もする。

 まずは「実態把握」が欠かせない,ということだろうか。

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部活動の思い出語り

 部活動と一言で表現しても,その内実は千差万別。

 運動部で言えば,強いか弱いか(強くしようとしているか),

 吹奏楽部などのコンクールがある部活動なら,賞をねらっているかどうかでも,中身は全く異なったものかもしれない。

 指導者が名を知られている人がどうか,生徒のリーダーシップが発揮できる学校かどうか,

 保護者がどれくらい熱心か,などなど,同じ自治体にある学校を見渡しても,全く様相が異なっていたりする。

 私の初任校は,月曜日の1時間目の道徳の時間が,全校の朝礼が長引き,部活動の表彰で終わってしまうことがあるほどの「部活学校」だった。表彰状やカップの置き場に苦労するという有様で,区の優勝程度だと,教科の準備室に無造作に放置されていたりする。この学校のすごいところは,たとえばバスケットボール部は週に2回しか体育館が使えない(うち1回は半面のみ)のに,ブロック大会でも優勝ができるチームがつくれるところにあった。しかも,私は休日に練習試合を入れないため,もし強豪校並みに強いチームと練習試合を重ねていたら,東京都や関東の大会も狙えたかもしれない。・・・が,顧問の私が気むずかしかったために,ミニバスで技術だけあるような選手はレギュラーにはなれなかった。

 狭いグラウンドをシェアしてノック練習をしている野球部を横目で見ながら,バスケット部はひたすら走らされていた。「スタミナだけは,どんなチームにも負けない」というのがスローガンだったが,よく選手たちはやめずについてきたものである。数年おきに学年同窓会で集まるたびに,感謝される言葉は「あのときに鍛えられた精神力があるおかげで今がある」という,漫画のような世界にいるのである。

 私は大学で野球部に所属していたから,野球部を任されるのが当然,と思い上がっていたが,結局,1校目では野球部の顧問にはなれなかった。絶対に顧問を譲らない,頑固な先生がいたのである。

 私のような人間が語る「部活動」など,何の参考にもならないだろう。

 どこにでもあるような話でもあるし,どこにもない話でもある。

 「絶対に恨んでいる子どもたちがたくさんいる」という後悔しかないような指導をしてしまったが,それはもう取り返しがつかない。私に謝らせるために,毎回呼んでいるようなものだろう,と思っている。

 教え子たちには,卒業してからも教えられることが多い。

 私は,期待をかける生徒と,そうではない生徒がいた。

 しかしなぜか,期待をかけていなかった(と思われる)生徒たちが,よく私に感謝の言葉を述べてくれる。

 その後の意外な成長や活躍に,本当に意外だから驚かされる。

 教育というのは,狙い通りにはいかないものである。自分が決めゼリフを吐いた後に,しっかりとその言葉を受け止めてほしい生徒はすぐに忘れてしまい,あまり気にかけていなかった生徒が聞いていて覚えてくれるものだと思い知らされる。そのとき「本気を出している」ように見えなかった生徒の方が,実は成長しやすかった,なんていう「教訓」は,普通の教師生活にも役に立っている。

 教員7年目の2校目で初めて野球部を持ったときは,嬉しかったが,部活動に熱を入れる余裕がない荒れた中学校だった。幸いにも,2年目に部活動ができる学校に変えることができたが,そのために小学校6年生たちをグラウンドに呼んで一緒に野球をしたりした。ほぼ全員背が低くて,明らかに他校より体格が劣っているチームだったが,強豪校を苦しませることがあった。それでも,高校や大学の野球の世界と,中学校の部活動という教育の場には天と地ほどの違いがあることで,自分の方が苦しまされた。休日に練習試合を入れないという方針は同じだったが,ゲームで養うべき勘が野球には多すぎた(おそらくバスケットボールでも同じだったろうが,強いチームだと,大会の試合を消化している過程でその勘は磨かれていった)。練習ではしないミスが,試合で出てしまう。

 練習試合を休日に入れるべきかどうか。自分は入れなかったが,そのために「勝つ」という経験ができずにもったいない思いをする子どもたちがいたことは,ほぼ確かなことである。

 では,練習試合だけ,だれかに引率と指導を頼めたら,どうか。気になってしまって,結局,試合に行ってしまっただろう(休日は,自分が草野球をするために練習試合を入れなかった)。

 私からすれば,部活動の外部委託は論外であるのだが,たとえばいいチームを育てた顧問が異動し,次の持ち手がいないために廃部になったりする場合は,外部委託の制度があるのなら,利用させてあげたいと思う。

 ただ,顧問が交代したとたんに「チーム」が実質的に死滅してしまう事態も起こりうる。
 
 部活動というのは,それだけ「繊細」なものである。

 教育はもともと「繊細」なものなのだが,「お前たちが大変なら,金を使って助けてやるよ」と言ってくるような無神経さと同居できる教師とできない教師がいることは理解しておいてもらいたい。

*********************

 あるブログで,「毎年必ず3年生をレギュラーから外す」という指導法への疑念が語られていた。

 私は,これを読んで,「毎年必ず2年生をレギュラーに入れておく」という方針のことかと予想した。

 特に大きな大会への出場経験は,次のチームの柱となる資質を育ててくれる可能性がある。

 もちろん,3年生の代わりにレギュラーになる2年生の実力が確かなものである必要はある。

 下手な下級生を出して試合に負けては元も子もないのである。

 どうでもいい話だが,私も都大会の最終回で,3年生の代わりに2年生を代打に送った。

 センター前にヒットを打って,3年生のためにチャンスを作ってくれた。

 都大会での経験や活躍ができたことで,この2年生は次の代の中心選手となった。

 部活動の大会には,「次の代につなぐための采配」というものがあり得ることを記しておいた。

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教師が全員の前では語れない言葉

 教師の発話能力というのは,得た情報の量が増えるにつれて高度化が必要になってくる。

 まずは,全員の前で語るべき言葉と,子どもを限定してから語るべき言葉を区別しなければならない。

 ときどき,この区別ができない教員を見かけるのだが,経験不足が原因だから,教えてあげなければならない。発話に失敗しても,即時的に失敗に気づける(子どもがしっかりと反応することによって)学校もあるが,そうではない学校もある。

 もちろん,いくら教えても無駄,という人もいるから,あきらめしかないのだが,フォローのために,

 四六時中,「何を言うか」に注意していないといけなくなるのがつらい。

 内容によっては,というか子どもによっては,その1人だけに話しかける言葉もある。

 そんな言葉の使い分けは当たり前だろう,と思われるかもしれないが,

 声の大きさの調整ができない教員がいて,その子どもに話しかけている言葉が周囲の子ども全員に聞こえてしまう,というケースもある。やられた子どもはショックというより,どちらかと言えば諦めの表情である。

 言葉というのは,「伝えること」よりも,「他の関係ない人は伝えない」配慮をしっかりするべきときがある。

 その工夫は声を小さくするとか,他の人がいない場所に移動するとか,さまざまな方法が考えられるが,いちいち呼びつけてするわけではない声かけは,他の人との距離が適度に離れた瞬間を逃さずにするしかない。


 一般企業につとめる人は,入社のときや結婚式のときでも,数百人を前に話しをする機会というのはあまりないだろうが,教員の場合には,経験年数が浅い人でも普通に訪れる。

 40人に対して語っているのと同じような内容を話すだけなら,どんな教員でもできなければならないが,100人を超える「群衆」に向かって語りかけるときは,いくつかのNGを想定しておくべきである。

 私が今まで聞いたことがある教員の言葉の中で,聞いている生徒の集中力が最ももたなかったのは,外見上は「ただ話が長い(たいした内容がない)」という人だったが,一番問題だったのは「自分(だけ)が興味のあること」を延々と続けることだった。「そんな話にこっちは興味はない」という聞き手の気持ちを一切無視した話の内容はNGである。

 また,「一般的すぎる」「(一部または全部の生徒に)難しすぎる」言葉もNGである。わざわざ時間を割かれて全員が一斉に聞かされる理由はない。

 もちろん,例外はある。私は集会で「生物学」の話しかしなかった当時の校長のおかげで,本を読むようになった。生物学の本ではないが,「専門的な話というのはおもしろそうだ」という興味を高めてくれたのは,全く意味がわからない話をしてくれた学者の先生のおかげであった。

 子どもに寄席と言っても何のことかわからないかもしれないが,たとえ寄席でも,好きではない噺家さんのときには寝ている(ように見える)人がいる。子どもはこういう態度を許してもらえないからつらい。

 噺家さんは,ときどき反応の鈍い観客を「いじり」にかかる。

 教師も授業で同じようなことをする場合もあるだろうが,そういう「技」で子どもをつなぎ止める人は哀しい。

 何が語るべき言葉で,何は語るべきではない言葉なのか。

 その区別をしようとする発想を磨いていきたい。

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部活動の夢と現実

 部活動についての記事で,多くの方が興味をもって読んでいただいたようで,続編を書かなければならないと思い,キーボードを叩いている。

 スポーツの世界では,トップの選手たちの多くは所属する中学校や高等学校の部活動で練習しているわけではないが,中学校や高等学校の部活動で汗を流している生徒の中にも,都道府県大会や全国大会出場など,トップの世界を夢見ている人たちがたくさんいる。

 部活動に親しむ生徒たちの動機,力量,やる気は多様である。

 その多様な希望なり力量なりに応えているのが,学校の教師たちであるが,そこで悲鳴が上がっている,という話。「働き方改革」の流れに乗って,文科大臣もモーションを示してるようだが,今までの「あり方」を放置していた張本人,親玉だから,そう簡単に動くことはできないだろう。

 「部活動でもっている中学校」の実態を説明できないのも無理はない。調査をしていないのだから。

 しかし,中学校の教師ならだれでもわかっている,という「鎖国」時代みたいな情報格差があるのが面白い。

 スポーツクラブの場合は,商売でやっている。力量ごとにクラスが替ったり,大会などに参加したりすることもできる。経営規模によって受け入れ可能数が異なるが,そもそも有料のスポーツクラブの場合は経済的な余裕がない家庭の子どもは入れない。

 今,スポーツクラブの経営が非常に困難になっており,その原因は,学校でただでできる仕組みになっているからだ,という主張をしている人がいるのだろうか?

 逆に,学校の部活動がなくなって,その受け皿をスポーツクラブが請け負わされることになったとしたら,どうなるのだろう?子どもはスポーツクラブに行くだろうか?

 「外部委託」の「外部」が何を示しているかわからないが,学校は「校庭」や「体育館」という場所を「外部」の人たちに貸し出すのだろうか?

 完全な委託があり得ないのは,「場所」の問題だけ考えてもわかる。

 では「部分委託」になるわけだが,どの「部分」が委託になるのだろうか?

 別に,「外部の人材」は「教育者」ではないから,教師ではないとできないことがある,と言いたいわけではない。

 しかし,その「資格」はどういう方法で認めるのだろう? 「報酬」はどうするのか?

 もし教育公務員の兼業禁止規定をなくすか,「報酬」のある部活動の兼業許可を出すようにしたら,どのくらいの教師が兼業の申し出をするのだろうか?

 学校の教師たちが部活動の指導に携わるとき,多くの場合は,「教育的意義」がわかっており,「教育的効果」が見て取れるから,生徒同様に「やる気」も「充実感」も感じることができる。しかし,「効果」は1日,2日で出るものではない。もちろん,毎日充実感を覚える子どももいるだろうが,部活動の教育的意義は,長期のスパンで見てあげる必要がある。

 だが,「短期の成果」を求められる風潮が,学校の教員という職業の人間にも,おかしな「変化」をもたらしてきている気がする。

 「授業中に寝ているこんなやつらに,部活動に参加する権利はない」 「こんなレベルの練習で,全く試合にも勝てない部活動には存在する意味はない」と真面目に考えている人はいないだろうか?

 「授業中に寝ているこんなやつら」は,学校に来る資格はない,とは言えないことはわかっているはずだが,本心ではどうなのか?

 子どもの立場から反論すれば,「そんなレベルの授業で,全く私たちの興味や関心が高められない教師など,存在する意味はない」ということになる。

 部活動を引きはがされ,丸裸にされた教員たちに何が残るのか。わざわざ教員養成系の大学に進んでまで,教育のあり方を学んでいる学生たちにとって,「何が待っているかわからない」現場というのは,魅力的に見るのか,どうなのか。
 
 子どもから「先生」として慕われる,ということの意味とは何だろう。

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部活動のことを何もご存じないド素人さんはどなた?

 教育の世界にどんなに長くいても,他校種のことはほとんど何もわからないものです。

 肌感覚から何からが,全く違うので。日本人ていうのは,同質性が高いとか言いますが,

 小学校と中学校なんて,異質すぎて,小中一貫校などは破綻状態のところばかりでしょう。

 というより,破綻しているから小中一貫校になってしまうのですが。

 同じ自治体の同じ校種でも,他校に移れば何もかもが「違っている」ことに気づくほどの場所が,

 「学校」というところなのです。

 小学校の場合は,隣のクラスに入るだけで,「違う学校」に来たのかと驚くこともできるでしょう。

 そういう教育に関する話題で,部活動ほど,「何も知らない人たちが本当に多い」と思わざるを得ないものはありません。

 ときどき,「部活動の外部委託」みたいな話が出ますね。

 「そうなるといいなあ」と思っている先生たちがいることは,理解できます。

 今は,中学校,高校,大学のころに熱心に運動部や体育会活動をしていた人は,教員採用試験に合格できないのでしょう。放課後は塾で真面目に勉強していた人たちにとっては,学校の教師になったら,びっくり仰天でしょうね。授業中はほとんど寝ている子どもたちが,生き生きと部活動に取り組んでいる。「こんなのおかしいっ!」ていうことになる。

 学校現場としては,今までは若いのが頼りだったのに,こんなのばっかりになれば,いよいよ部をつぶし,新入生に逃げられて,規模を小さくして,どうにか「部活が命」でいる教師を異動させることができる,でもいずれ廃校になる,なんていう悪循環から抜け出せないでいます。

 もちろん,部活動を熱心に指導している若い先生たちも多いのでしょうが,こういう人たちが学校で孤立しているんじゃないかと心配になっています。・・・どうしてか?

 何か,態度がでかいんですよね。若い顧問の先生たちの。

 専門委員を30年もやっているとか,そういう人たちが偉そうにしているんならわかるんですが・・・。

 縮こまって逆に頭をたくさん下げているのは,いかにも引率だけ,責任を持たされてやって来ました,審判はできません,っていう年配の先生たち。

 こういう状態っていうのは,若い熱心な部活動の顧問の先生たちが,現場で浮き上がってしまっている証拠なんじゃないかと,気になります。手塩にかけて育てた生徒とは別れたくない,しかし,「お前出て行け」というオーラを全身で浴びて,いずらくなっていくジレンマがあるのでは・・・。

 さて,話題は「部活動の外部委託」。

 私は,小学校の英語の指導など,授業の外部委託ならいくらでもできる(実際に,公立中で教え始めた塾の先生がいましたからね)と思うんですが,無免許運転をOKにしたら,そもそも免許更新制度なんて必要ない(今もそうですが,むしろ教員免許そのものの意味がなくなる)いうことになりかねない。

 特別の教科になった道徳など,無免許なんですがいいのでしょうか?という話。

 部活動の指導には,免許は不要だから,というのが行政の判断でしょう。

 でも,部活動だけは,どう考えても,アウトです。もちろん,成功事例なんて,いくらでもつくれますね。しかし,1%にも満たない学校の成功を示したところで,それが99%の学校でも同じようにできるとは限らない。成功事例になるはずだったけどダメだったところは闇に葬り去られる。教育の世界では,失敗事例を堂々と認めて失敗事例として公開する慣習がないのです。だから,今の学習指導要領と同じで,失敗しているのに,成功していることにして,現場の苦労だけが増えていく。

 部活動の外部委託が本決まりになったら,どうなるか。

 中学校の教頭,副校長の先生方と同じ苦労をしたがる人がいるとしたら,転職した方がもっと充実したいい仕事がいくらでもできますよ。

 「学校が大変」と聞くと,外部の人間を入れれば楽になる,という発想の人がいるとしたら,これ以上のド素人はいません。

 野球部,サッカー部,陸上部,水泳部,剣道部,柔道部,テニス部,バスケットボール部,バレー部,バドミントン部,卓球部,吹奏楽部,合唱部がある中学校で,それぞれに指導ができる専門家が集められるのであれば(その仮定?がそもそも誤っているわけですが),有名な指導者がいるところにドーッと雪崩を打って新入生が集まっていくことになります。ただでいい先生に習えるんだから。

 どのくらいの権限が与えられるのかわかりませんが,「完全委託」じゃないと意味がないですから,誰をレギュラーにするかとか,ペアをどうするかも,「外部」の人たちが権限を握ることになるのでしょう。練習試合も,「遠征」が増えるかもしれません。強い部活動の年間の遠征費用を聞いたら,皆さん驚かれるでしょうね・・・。怪我,喧嘩,いじめなどのトラブルも,委託された人たちが責任を持つのでしょう。

 すごい世界が待っているような気がしますね。

 今でも十分,すごい世界なのですが。だから「委託」という蜘蛛の糸が垂れ下がってきているわけです。

 そのすごい世界の中に,自分自身がいる,という自覚を持っている中学校教師が,だんだん減っていく,という現実を見極めなければなりません。

 なかなか本題に入れませんでした。

 「部活動の外部委託」なんて,教師の余計な仕事がどれくらい増えるかを試算できる人をまず近くにおくことを行政は考えるべきでしょう。
  
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「×すぞ!」「△ね!」は日常会話の言葉

 45歳の若い市長が記者に対して投げつけた「×すぞ!」「ぶっ×す」という言葉は,一部の小中学生の間では,日常的に使われいる言葉である。

 会話の途中でよく「△ね!」(△=「せいしのさかい」のし)という言葉を言う中学校1年生がいるのだが,小学生に聞いてみても,やはり「よく使う言葉」の一つになっているらしい。

 なぜそれほどまでに自然に出てくる言葉になってしまったのかを考えると,家で親によく言われているから,という仮説が成り立つ。

 では今の30代,40代は本当にそういう言葉を使っているのか?・・・公の場で新聞記者に対して使っている人がいた。しかも,市民による選挙で選ばれた人物である。

 こういう「ことば」に関する調査を実施している機関はないのだろうか。

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教師の二枚舌

 子どもたちは,道徳の時間に「教師の二枚舌」をたらふく味わうことができる。

 大人の言葉を信用できなくなる機会を,小学生のころから学べるチャンスが広がっていることの意味は大きい。

 批判的精神を養う上で,批判の対象が目の前にいてくれると非常に心強い。

 中学校では,小学校での「崩壊事例」をたくさん紹介してくれるが,原因のほとんどは教員にある。

 成熟が早い子どもたちは,すでに親などから「大人」を見る目が養われているのだが,

 そういう子どもたちから見て,崩壊状態を招きやすい教員の特質は「子どもっぽさ」にあるという。

 すぐへそを曲げるとか,まるで子どものような「扱いにくいさ」をもつ一方で,

 機嫌がよいときは,子どもが好きなものを自分も好きだという二枚舌を使って子どもたちの気を引こうとする。

 クリスマスのサンタさんがいるといって子どもを騙し続けた経験がある大人たちは,

 それを本気で信じている我が子を見て,何を感じ取るべきなのだろう。

 サンタさんを信じてしまうような小学生に対して,教員が何を言うかは非常に大きな意味を持つ。

 崩壊が子どもたちに与えるキズの深さをあまり真面目に考えている人はいないのかもしれないが,表面化しないいじめ=訴え出ていないいじめもからんでいる可能性も高い。

 今度だれかに,小学生時代に学級崩壊を経験したことがあるとない人の離婚する確率の違いを調べてみてほしい。

 ついでに調べてほしいことはたくさんある。小学校時代に,毎回クラス替えがあった人とそうではなかった人,担任の先生がよく替わった人とそうでない人ではどうか。

 家庭の成育歴を上回るような相関関係が認められれば,次の段階は,因果関係を知るために教育内容をしっかり把握すべきだという自覚を高めることができるのだが・・・。

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芸の世界から思想の世界へ

 『なぜ私たちは生きているのか』(平凡社新書)の高橋巖さんの言葉から気づかされたことですが,

 教育を語るとき,それが「芸」のレベルであるのが,一般的な教員養成の世界に求められていることです。

 だれも,「思想」のレベルを理解させてあげようとは思っていないようで,学生も同じです。
 
 「思想」から入られると,人間は頭も心もシャットダウンしてしまうので,意味はありません。

 大学がやってしまっている教育の失敗は,学習の主体性を無視していることです。次に紹介した高橋さんの「心の旅鴉」の心得に則していないことが原因なのです。

>この悪魔である私たちが,いままず第一にやるべきことは,自分を知ることではないでしょうか。以前私は自分をあらためて意識するために,「心の旅鴉(たびがらす)」という心得を考えたことがありました。この旅は七つの過程を辿ります。

一,自分と親しくなる。

二,親しい人と親しくなる。

三,親しくない人と親しくなる。

四,縁のないところに縁をつける。

五,自分のためにではなく,人のために。

六,まず芸術を通して。

七,思想を通して。

 学生さんたちは,今まで縁のなかった私の学校やその生徒たちの学びの姿にふれることができました。

 そして,教師になった後のことを考え,自分が子どもたちのためにできることを考えています。

 ただ,聞いてくる質問はいちいちその意図を探らないと答えにくいものばかりでした。

 学生は,「板書の量はどれくらいがいいのか」とか,「できない生徒への説明をどう工夫したらいいのか」とか,

 具体的な単元なり事例などに基づかないと答えられない問いを平気でしてきます。

 「一番綺麗にまとめられた生徒のノートのコピーを全員に配った」ときに,

 「人のノートを見せてもらうと,自分もわかった気になる」とやる気を持たせることに成功した事例を紹介しながら,

 「書記係」にあたった生徒がすべての板書をする授業,

 「班活動」の成果をすべて黒板に書かせる授業なども紹介し,

 「できるだけ教師が書かずにすむ授業の方法を考えてみよう」

 「最低限,これだけは必要だ,という板書は何だろう」などと問いかけてみたりしました。

 芸のレパートリーが増えると,最後は思想の段階です。

 私は,小学校の授業参観も機会があればと薦めています。

 どうしてここまで板書にこだわるのか?(定着もしないのに・・・)という疑問を持つことが大事なのです。

 ノートを全く取っていない子どもが多いため,板書は書いて終わりになってしまっている。

 そこで,「板書とは何か」を真剣に考えるきっかけになっていくのです。

 小学校の板書に対する「思想」が見えてきます。

 ああ,見栄えが大事なんだ,と気づけば,小学校教育の問題に気づくことができます。

 1週間見続けていると,ある教科の板書はあんなに手がこんでいるのに,他の教科は教科書を読むだけだな,とか,教師はどうやって手を抜けるのかもわかっていきます。実は子どもも同じように手を抜いていることが見抜けます。何かが優れている教師のクラスの子どもが必ずしも高い学力を示すことができない理由が想像できるようになります。

 百人一首がやけに強いとか,新聞作りが上手とかいうクラスの出身者は多いけれど,どの教科の学力もずば抜けて高い,というクラスはあまり見かけません(学校の小規模化で比較の機会もなくなってしまいましたが)。

 教師は何のためにそこにいるのでしょう。

 授業をするのは何のためでしょう。

 そういう問いが,自分の中からふつふつと湧いて出てくる感覚にさせることが大事なんですね。

 でも,私は学生の方々と再び会うことがないと思っていますから,あえて思想にふれるようにしています。

 大学の教師の中にも,一神教の終末論と仏教の末法思想の区別がついていない人がいます。

 思想レベルの話ができないのは,あまり深く物事を考えていないからと,自分の言葉に責任を感じていないからです。大学の先生は専門を大事にしますが,ごく一部に,専門外のことまで口にする無責任な人がいます。

 責任感とか使命感というのは,相手に伝わるものです。

 いい加減なことばかり言っている人は,無責任な人であり,使命感も上っ面だけです。

 信用というのは,相手の責任感とか使命感が伝わってこない限り,こちら側から自動的に発生する気持ちではありません。「信用しないお前が悪い」と言われても困るのです。引き合いに出された宗教の側にも迷惑がかかっています。

 思想を語るときは,あえて技術レベルのことも合わせて説明します。採用試験の面接官ならこういう話,管理職ならこういう話,研究発表ではこういう話,ここまでは技術の話。でも,授業ではこういう話,という階段状の話法を使うと,思想は簡単に理解してもらえます。

 自分の責任感とか使命感が子どもに伝わる教師でありたいと願うきっかけを,学生自身の内側から生み出してもらうことを私は目指して協力しています。


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目に見えるものを信じさせられない人に必要なものとは?

 私はシュタイナーの人智学をよく理解している者ではないが,シュタイナーのことを信用できるのは,講演のなかで何度も

>どうぞ私の言っていることを信じないでください

 と主張する姿勢を貫く人物だったからである。

 私が「ナントカ道」という言い方を気に入っているのは,「ゴール」が想定されていないからである。

 どこまでも「道」は続くのであって,「道半ば」であるのは,初心者も熟達者も一緒,という感覚を大切にしたい。

 わかりもしない宗教の話を持ち出す素人がいる。一方ではデータですべて実証できるなどと「見える世界」の話をしておきながら,「信じない奴が悪い」などといった「カルト」みたいな態度でいるのはおかしな話である。そもそもデータを見せて信じさせるのが仕事のはずなのに,データも示されていないわずかな文字数の書籍を買わせて批判を封じようとする姿勢は,「カルト」そのものにしか見えない。

 宗教は「見えない世界」との折り合いをどう付けるかが鍵になるのだが,「このままでは崩壊する」と煽るだけの「カルト集団」のボスが「神」として君臨しているかのような傲慢さやいかがわしさを全身から発していることに気づけないほど教師たちはバカではない。

 「見えてしまっている世界」を見ないようにし,未来への恫喝に屈している一部の教師の目を覚まさせる方法を探さなければならない。

 潜入が必要となる。

 私が一番見てみたいのは,「カルト」が実践する道徳の授業である。

 そこで直接伝えることが可能だと想定できる「神」の言葉はいくらでもあるが,信徒と勘違いされても失礼にあたるだろうから,哲学者の言葉くらいにしておくべきか。

 『置かれた場所で咲きなさい』という本を一読しておかなければならないだろう。

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「働き方改革」を「働きがい改革」で先行させてきた企業と数字合わせだけの対応で終わる企業

 数字合わせだけでの対応でお茶を濁そうとする企業が取り組むのは,

 プレミアムフライデーのような「曜日・時間指定」の硬直的な時短政策ばかりでしょう。

 それは「働かずにすむ方法」を重視する「働かず改革」であり,せっかくの「働き方改革」という言葉が死んでしまいます。

 「働くこと」を「楽しいこと」と捉えるか,「苦行」と捉えるか,という前提の違いでも様々な食い違いが生じてきますが,いずれにしても,「改革した後」が「楽しい」「充実している」と思えるようでなければ意味がないことがわかっている経営者と従業員がセットになっている企業では,とっくの昔に「働きがい改革」が行われています。しかし,従業員の感覚に頼る評価では意味がないと考える「真面目な経営者」がいる企業では,数字上で具体的な変化が見てとれるような改革を上から押しつけてきます。錦の御旗を掲げて改革を迫る経営者に,あえる歯向かう気概のある従業員はそもそも存在しないのでしょう。

 学校現場では,「学び方改革」が20年前にスタートしていたはずでした。

 しかし,ほとんど何も変わらなかった。それを示すデータがあるのですが,示してはまずいからなのかどうか,政府は公表していません。私は「死蔵データ分析」にかかわった一人です。

 また新しい学習指導要領が公示され,一部の人たちは期待を寄せていますが,残念ながら,雑誌などで宣伝されているのは「教え方改革」であり,それを理解できない人が教壇に立っても,何も変わらないか,児童生徒の学習は劣化して,「ゆとり」と似たような失敗を繰り返すことになります。教師たちの「学び方改革」を学校時代に遡って行わないとダメそうなのは,雑誌の記事のレベルを考えてもよくわかります。

 実際のところ,学校の「学び方改革」が始まるたびに,おいしい思いをしているのはだれでしょうか。

 下手な改革に手を染めることのない,保守的な学校とその生徒たちです。

 テストのためではない「学びがい」が実感できる教育をしていれば,「改革」の必要はありません。

 ときどきおかしな教師が紛れ込んだりすると,子どもたちは,しっかりと意思表示を起こしてくれます。

 保守的な学校では,教師よりも,子どもたちの方がはるかに保守的なのです。

 教師が自分の力量を切磋琢磨できる学校とそうでない学校の違いは,「授業がつまらない」と意思表示できる子どもの行動力にかかっています。

 子どもたちが「つまらなさ」を主張してくる教師には,共通点があります。

 致命的な欠点なのでしょうが,「教科の専門分野に弱い」という点と,「生徒の気持ちがくみとれない」という点であり,中等教育の現場では哀しいほどのお荷物です。

 こういう「お荷物」たちが学校における「働き方改革」という仕事に熱心になり出すと,どういう問題が生じるでしょうか。

 おそらく校種を限らずあらゆる学校で問題になっていることでしょうから,ご想像におまかせしますが,結果として,生徒が活躍できる場面が減るのと,一部の教師に(それもたいていたくさん仕事を抱えている教師に)仕事が集中するという事態が待っています。

 学習指導要領に示された趣旨から言っても,生徒が主体になって動ける場面をいかに確保するかが重要な学校ですが,不思議にそういう場面が気に入らない人がいるんですよ。よくわからない思考回路なんですが,自分が責任を持っているわけでも指導するわけでもない取り組みをなくせば,自分たちの仕事に余裕ができると主張してくる教師がいます。意味不明さ加減に教師も子どもも絶句です。「相手が何を考えているのか」ということに全く関心がないか,「言ってくれなければわからないだろう」とキレたりする性格なので,思わず静観してしまう事態に陥る正真正銘の「お荷物」です。

 「働き方改革」というと必ず「省力化」が話題になります。しかし,「省力化」のつもりが,逆に仕事が増えることも多々あります。紙に書く手間をパソコンに打ち込む手間に変えただけですが,内容が合っているかどうかを照合する手間とか,それをコピペしたときに正しい部分が打ち出されたかを確認する手間とか,かえって仕事が増えるようなことを学校では「省力化」となぜだか呼ぶ癖があるのです。不思議ですね。事務処理能力が高い人というのは,チェックなども難無くこなすので,仕事の全体量が増えたようには感じられずにすむからでしょう。

 普通の学校に,子どもによる「浄化作用」を期待するのは難しいかもしれません。

 ただ,「子どもたちの声が届く」かどうかは,教育現場としては生命線であると言ってもよいでしょう。

 子どもの「学び方改革」と教師の「働き方改革」が一緒に実現できてしまう教育方法の宣伝もしつこいほど繰り返されていますが,そんなものに振り回されて仕事を何倍にも増やすよりは,みんなで子どもをしっかりと見つめる姿勢を共有した方が,余計な仕事は何分の1かに減り,その分,やりがいのある真っ当な仕事が増えるのではないかと考えています。

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AI時代に消滅せずにすむ職種とは?~「働きがい改革」に向けて

 私は新しい仕事を次々に創り出せる場を探し求めているのですが,今は「働き方改革」のおかげで逆風の嵐です。

 多くの学校で,「できるだけ仕事を減らすようにしましょう」という暗黙の了解ができつつあるのではないでしょうか。

 教師は忙しすぎると,いじめやトラブルを見逃しやすくなりますから,生徒をよく見るためにも,余裕は必要です。

 ただ,教師が楽をするようになると,子どもは不思議とよく見ていて,余計な仕事をつくってくれます。

 教師は,ほどほどに忙しい方が,それ以上忙しくされずにすむ職業なのです。

 今までは,作った仕事を自分がこなしていたのですが,歳もとってきて,場所を移動する時間がかかるようになってしまいました。新しい仕事は,基本的に生徒を動かすものなので,教師は見ているか場所と道具を貸してくれるだけでよいのです。それでも,「監督する責任が増すから嫌だ」という人が必ず出てくる。困ったものです。

 仕事の方は,毎日,いくらでも思い浮かびます。それだけ「自主的に動いてほしい」という願いでもあるのでしょうが・・・。

 ちょっと異動しにくい学校にいるおかげで,自由が利きづらいのですが,創造的な仕事がしたい人が多い学校とか,若いときに苦労したことがない教師が多い学校を見つけて,異動できるように努力したいものです。

 ある雑誌の特集で,AI時代に消滅せずに稼げる職種が10個ほど(弁護士,医師,宗教家,教師など)掲載されていました。

 これ以外にもいくらでもあるでしょうし,職種は消滅しなくても,させてもらえる仕事がなくなる人はいくらでもいるのでしょうが,私は「理由」として示されている内容に注目しました。

 教師は,「知識を教えるだけでなく,児童,生徒それぞれの心情やモチベーション管理,それぞれの適性に合った進路のナビゲーション能力が求められる」とあります。教わった教師の中で,これができない人の顔が思い浮かんだ人がいるかもしれませんね。教師の基本は子ども理解です。おまけに,弁護士のような仕事をする場合もあるし,カウンセラーもするし,仕事をプロデュースすることもある。

 「働き方改革」ではなくて,どこかで「働きがい改革」に取り組みたい自治体はないでしょうか・・・。

 教師が日々「働きがい」を感じてくれていれば,猥褻,セクハラ,体罰,交通違反などの「事故」を起こさずにすむはずなのですが・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より