自分のダメさを完全に棚上げできる才能の伝授
資質能力の向上は,そう簡単に望めるものではない。
能力の面ならまだしも,資質の面をよくしようとするなら,本人が相当「自分」と向き合ってくれないと難しい。
ただ,あまりに真剣に「自分」と向き合われると,子どもの前に立つ勇気や自信を喪失してしまうことも起こりうる。現在の自分の能力を客観的に評価できてしまうと,「子どもたちに失礼だ」という遠慮の気持ちが起こってしまい,「自分は教師に向いていないのではないか」「教師を辞めるべきではないか」と真面目な人ほど考えてしまう。
大学では,こういう状況に置かれた自分と事前に向き合っておける場を用意しておいてほしい。
切実感や臨場感,責任感のない大学という場で何をしても無駄かもしれないが・・・。
一方で,全く自分に向き合わない教師というのも一定数存在する。
すべてを他人のせいにする。
自分のダメさは完全に棚上げできる能力というのは,病気を防ぐための完全無欠のパワーのように見える。
しかもこの能力は伝染・感染しやすい。感染力も強いウイルスだから,油断できない。
必死な思いで教育しても良き資質能力が育たない一方で,近くにいて話を聞くだけで,簡単に育ってしまうのが悪しき資質能力である。たとえば「無責任体質」。
教材研究を不要とする教育方法を考案して,ごく一部の能力しか測定できないテストの点数が上がったことを口実に,少しでも学校にいる時間を短くしようと努力する教師を増やすのは容易なことである。「働き方改革」なる言葉が強力に後押ししてくれる。二重の意味で「時代の最先端」を行っている自分に酔うという「三重苦」をもった若者が増えてくるのだろうか。
こういう教師のおかげで,仕事が増えてしまっている人たちがいるが,まだ余裕があるかもしれない。
問題はいつ起きてもおかしくないのが学校現場であるが,どこで発生するか予想しやすい問題については,ゆとりをもって対処できるので,多忙感を抱かずにすむ。
しかし,多くの教師が「自分棚上げ型の無責任体質」になってしまうと,子どもが引くほどの露骨な非難の応酬が始まってしまう恐れがある。これはこれで,学校を落ち着かせる一時的な手段になるのだが,その先は崩壊が待っている。
管理職が逃げ出すほどの崩壊状態が起きる危機のある学校が増えていくと,ますます本気の管理職のなり手が減っていき,高給目当てのみの志願者が増えていくだろう。恐ろしい未来像になってしまった。
一部の教師の無責任体質がもたらす事態をカバーできている現状のバランスを崩しにかかる勢力に,どう対処したらよいのか。
そういうことを説明するための資質能力を育てるのは,やはり現場しかない。
« 脱教職聖職論に飛びつく若者の未来 | トップページ | 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか »
「教育」カテゴリの記事
- 教員になりたての人がすぐ辞める理由(2019.01.12)
- 教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない(2019.01.08)
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 列で並ぶこと自体が好きな?日本人(2019.01.01)
「教員の評価」カテゴリの記事
- 私でなくてもいい,私ではない方がいい(2018.12.14)
- ペーパーテストだけで「評価」ができる「教科」はない(2018.05.26)
- 子どもの人間関係に対する不感症の影響力(2018.03.28)
- 自分のダメさを完全に棚上げできる才能の伝授(2017.12.29)
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
この記事へのコメントは終了しました。
« 脱教職聖職論に飛びつく若者の未来 | トップページ | 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか »
コメント