脱教職聖職論に飛びつく若者の未来
教職員組合に所属する教員の中にも,遅い時間まで教材研究や生徒指導に付き合ってくれた人がたくさんいた。
近くの中華料理店や飲み屋で先輩の先生方と夕食を一緒にとる機会が多かった20代の経験がなければ,今の自分はいなかっただろう,と実感できる。
しかし,「憲法が保障している個人の権利=私の幸福追求権」を頑なに主張し,困っている子どもを置いてさっさと帰宅する人もいた。
子どもたちが求めているのはどちらのタイプの教師だろうか。
学校の子どもたちは「一人も見捨てるつもりはない」と言いながら,
勤務時間を過ぎたら,「俺には家族がいる」と言ってさっさと帰ってしまう教師を見て,
「ああ,こういう人がいるおかげで,ブラック企業が一掃されて,自分もひどい目に遭わないですむだろう」と希望に目を輝かせる子どもがいるだろうか。
若い教師たちの中にはいるかもしれない。そういう若者の未来を見てみたい。
教育現場からの脱落者の言葉を聞いて,現実的な希望を持てる人がいるだろうか。
たまに現場に介入してくる「外部」の人間の不平不満が現場の教師や子どもたちを幸福にできる世界があれば見てみたい。
私は家族を大切にする教員を軽蔑しようとは思わない。
家で原稿を書いたり,家事をやらせたりしている教員も,別に軽蔑はしない。
ただ,学校に残してきた同僚や子どものことに心を奪われている父親を見た家族は,何をどう感じるのだろうと心配になる。
一銭ももらえない長時間家事労働に文句を言ってストライキに入る家族がいたりすれば,帰らざるを得ないのかもしれない。
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