底辺での思い出が頂点になる
私がかつて勤務していた中学校が,「底辺」に位置しているという理解は,正しくて誤っている。
常識では起こりえない問題行動が頻発する。
親も自分の子どもをどうしていいかわからないのだが,教師たちは文字通り路頭に迷っていた。
校長や教頭はひたすら教員の悪口ばかりを言う。
教員は校長や教頭の悪口ばかりを言う。
親は教員の悪口ばかりを言う。
教員は親の悪口ばかりを言う。
子どもたちは・・・。
こういう人間たちのせいで,すべてを台無しにされ続けてきたのである。
学力は低い,問題行動(犯罪行為)は起こす,秩序は乱す,部活動はさかんでない・・・。
「こういう中学校に自ら進んで異動しろ」「荒れた学校で働くことの意義は大きい」などと堂々と語れる指導主事は今,どのくらいいるだろうか。
かつてそのような指導主事が多かったのは,自分たちがそこで多くを学んで指導的な立場になれたからである。今では・・・・消耗戦が続く現場からはため息しか漏れてこないのだろうか。
荒れた学校でよくある光景を最初に紹介したが,これをなくすだけで学校はすぐによくなってしまう。
他人の悪口を言う暇があったら,子どもが必死にもがいている姿を自分はしっかり「見ていた」という痕跡を残せばよい。いちいち褒める必要はない。「見ていてくれている」ということが,どれだけの安心感や満足感をもたらしてくれることか。
私の勤務校では,たまたま,高度なネガティブ・ケイパビリティを持った教員が多かったせいか,荒れは次第に姿を消していった。
教育の専門家を名乗る者の中には,「底辺」の思い出が「底辺」のままで終わっている人間がいる。
そんな人間から学べることなど一欠片もないだろう。
さっさと「底辺校」から逃げ出した人間の言うことに耳を貸す必要はない。
その場に「居続ける」ことでしか得られないものが山ほどある。
論文をいくら積み上げたところで,何の意味もないことは現場の教師なら痛いほどわかるだろう。
地面をほじくって地中深くに沈んでいくような研究は意味がない。
荒れた学校での1日1日は,山頂が視界に入らないタイプの登山に似ている。
同僚や生徒たちと一緒に頂上で見た景色は生涯忘れることのできないものになる。
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