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2017年12月

12月31日 6×3×2×3=12+24+72=4×9+8×9

 除夜の鐘が108回つかれるのは,四×苦+八×苦を追い払うため,などと説明していましたが,6×3×2×3が最も正しい解釈なのでしょうか。

 今年も本当に苦しいことが多い1年でした。

 鐘の音で苦しみが癒される文化というのもなかなかよいと思われますが,仏教というと,どうしても「葬式仏教」の印象が強く,より辛気くさくなるイメージもあります。

 一時期,若いお坊さんたちが女性の悩みごと相談を受けるなんていう番組が流行っていましたが,いつの間にか消えてなくなりました。

 悩みごとの相談をする場は,日本にはたくさんあります。

 病院の医師。

 カウンセラー。

 町の小さい商店主。

 代議士。

 占い師。

 日常の世界では,なかなかお坊さんに人生相談を持ちかける機会はありません。

 今,学校現場で,教師に悩みごとを相談できる小学生や中学生,高校生,大学生はそれぞれ何%ずついるでしょうか。

 『なぜ私たちは生きているのか』(平凡社新書)を読んでいたら,佐藤優氏と高橋巖氏が似たような経験をしていることに興味を持ちました。私もかつてしたことです。別の本で紹介されていましたが,尾木ママも同じでした。

高橋巖>(戦前は)教育委員会などなかったので,小学校は先生と子どもの結びつきが強く,クラスそれぞれに個性があって,顔つきがクラスごとにどこか違っていました。先生は子どもの家で夕食をご馳走になったり,日曜には子どもを自分の家に呼んで,将来の夢を話し合ったりしました。いじめっ子がいたら,先生はその子を呼んで,ぼくたちの組をいじめのない組にしたいので,先生の助手になって手伝ってくれないか,と頼んだりしました。

 さすがに家に呼ぶのは無理としても,大会で優勝したときに焼き肉やでパーティーをした思い出が残っています。

 佐藤優氏の場合は,学生が教師を評価するシステムがあるため,もし学生に食事をおごったりすると,接待によって評価を金で買おうとしている,という話になってしまうので,履修しても単位がつかない非正規の講座で教えているとのこと。こういう講座の方が人気があるとすると,大学っていうところの価値が透けて見えてしまいます。  

 制度によって,教師と子どもとの間には,底が見えない恐ろしい崖のような断絶が生まれてしまいました。

 国のねらいは達成できたとしても,それが社会の強化につながるのかどうか。

 そんな苦悩が除夜の鐘で洗い流されるわけではありませんが,一緒に悩んでいる人がいるということが救いになっています。

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12月30日 6・3・3・4制

 サウジアラビアで義務教育が制度化されたのは,2004年ということで,まだ最初の年の小1は大学生になったばかり,ということでしょう。日本と同じ6・3・3・4制が採用されたということです。朝の6時とか7時とかに授業が始まるそうで,農耕で生きてきた人が多い日本でも,同じ始業時間にした方がよいのではないかと思ってしまいます。

 私が秋に訪問した小中一貫校では,義務教育を4・5制に移行するチャンスをうかがっているようです。

 5年生から制服を身をまとうと,もはや小学生には見えません。

 授業の態度もまるで違っていました。

 これで学力の向上度合いが一気に高まったら,日本中に波及する可能性もあるのでしょうが・・・。

 私はこのブログで何度も書いていますが,現在行われている日本の学習評価の仕組みは,おそらく海外の教育者には理解不可能だと思います。そもそも外国語への翻訳が不可能な「規準」があるのですから。

 「おおむね満足」が「b」(「3」),「十分満足」が「a」(「4」)の,「おおむね」と「十分」のカッティングポイントはどこにあるのか?

 さらに,「十分満足の中でも特に優れている者」(「5」)って何?

 授業風景を見る限り,そもそもその指導内容では,不十分すぎる,という場合でも,評価が行われてしまうのです。指導の質が,能力向上を左右することくらい,研究者でなくてもわかります。

 ある教室では,教師はほとんど何もしていなくて,子どもだけで課題に取り組んでいる。

 この方法を正当化しようとする教師は,定期考査問題を「工夫」すればよいのです。

 授業で扱った課題だけをテストで丸丸出題してあげれば,できるのは当たり前でしょう。

 中学校レベルの教育内容で,知識や思考の転移が容易に図れるようなものはごく一部です。

 取り組まなかった課題の内容は,できるようになっていない,と考えるのが普通でしょう。
 
 でも,授業で扱っていないから,出題しない。ということは,評価の対象にもしていない。

 小学校では,学習した部分だけの単元テストをやる,という方法になります。

 学習していない部分は,配って終わり。子どもは大喜びです。 

 小学校の単元テストの内容を見ると,応用力が必要な問題はいっさいなく,ノート丸写しでもできるような問題ばかりで,私なら全部できていてやっと「b」にしかならない。しかし,小学校の教師たちの規準はもっと低いはずです。

 人によって違いがありすぎる学習評価が,入試の合否を左右する決定的な資料になり得るわけがありません。

 中学校の場合は成績一覧表の調査が行われていますが,小学校にはそれがない。

 担任が恣意的に高く(あるいは低く)評価を記入していても,バレない。

 今,世の中にはバレていなければすべて正義,バレたら悪,という価値観が蔓延しています。
 
 だから,中学受験では,小学校の成績を合否の判断材料に使わないところがほとんどでしょう。大学入試と同じです。

 もしも日本で落第あり,飛び級ありの仕組みができたら,こんな学習評価の仕組みでは持ちません。

 学校制度をいじろうとするよりも前に,学習のあり方について,教師の指導をチェックできる仕組みを整えるべきでしょう。そのときに,統一的な学力テストで判断しようとするのは誤りです。近い将来,AIを使った音声データの解析システムができあがるでしょう。それを個々の子どもにも使えば,全国同じ規準や基準で,学習評価を行うことも可能になります。ノートや作品の画像データの解析システムの構築に必要な評価規準データは,現場にあるはずなのですが・・・。

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12月29日 国際生物多様性の日

 植樹イベントが行われる国もあるようだが,偶然,昨日,椿の木を買ってきた。

 今日は,少し大きな鉢に植え替える作業をした。

 世界の生き物が危機に瀕している背景に,人間の欲があることは言うまでもない。

 アフリカのマウンテンゴリラの敵は,たとえば携帯電話を使う人間,作る人間,売る人間である。

 レアメタルの産地がゴリラの生息地と重なると,どんなことが起きるか。

 人間の生活スタイルや趣味が多様化するのに従って,犠牲になっていく生物がいる。

 そういう図式を堂々と広めると,需要が下がり,経済が停滞し,困る人たちがいるから,
 
 「知らないでおいてほしい」と願ってしまう。

 たこ焼き好きな人が,知らないといけない情報とは何か。

 事実を突きつけられないと,人間の心はなかなか動かない。

 そういう事実を知らされない教育を目指そうとしている人たちが手に入れるのは何か。

 これも生存競争の一環であると捉えておいた方がよいのかもしれない。

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現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか

 小学校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人は少ない。きりがないからでもあるし,学力を向上したければ,学校以外に頼れるところがたくさんあるからである。

 高校の教育内容にいちいち目くじらを立てる人も少ない。義務教育ではないし,学力が輪切りになっている高校では,Aという進学校で通じる話がEという生活指導困難校では通用しない(逆もある)からでもあるが,一番大きい理由は小学校と同じ。学力面では,高校の教師よりも頼りになる人が外にいくらでもいるからである。

 それなりの経済力がある家庭の場合は,学力向上を学校以外の教育産業にまかせることが可能である。

 小学校や高校を対象とした教育内容や教育方法の議論は,どれだけなされようが,主たる教材である教科書に寄りかかって学習を進めるような教師がいるうちは,ほとんど意味をもたないことは,大部分の学校が証明してしまっている。

 中学校の場合はどうだろう。中学校は中途半端な宙づり状態にある教育現場である。

 小学校や高校との最大の違いは,学校の成績が,進学にそれなりに大きな影響を及ぼす点にある。

 中学受験や大学受験との非常に大きな違いを高校受験が持っている。

 だから,教師や生徒は授業で手を抜くことはできない。教師が気まぐれにアクティブ・ラーニング風の授業をしたら,それに合わせてあげないといけないし,細かい知識ばかり問うような定期考査問題をつくってきたら,しっかり対応しないとよい成績が残せなくなる。

 都立高校は学力検査と調査書点(いわゆる内申点)の比率を7:3にしてしまったが,これまでは普通科の大部分が5:5の比率だったのである。

 「下級校の学習の成果を踏まえた進学指導」が成立する余地がかつては大きかったし,調査書点と実力の相関関係が怪しくなってきている今でも,中学校の成績がきちんと使われる場になっている。

 要は,中学校で通用する教育内容や教育方法の議論がなければ意味がないということと,中学校で通用しない教育内容や方法では意味がないということである。

 小学校や高校の実践ばかり集めても,「ああ,そういうことができていいね」と他人事で終わってしまう。

 どんな脚色をしても,バレずにすむのが小学校や高校である。

 捏造すればたちどころにバレるのが中学校であり,だから実践例が少ないのだろう。

 「地理総合」や「歴史総合」がどんな代物になるか,中学校側の目から見ていると,

 「大学の先生が中心になって考えると,ろくなことにならない」ことを証明するための実験をしているように見える。

 中学校教師の目から見れば,

 「これは何とかなる」

 「これでは中学校の繰り返しだ」

 「それでは小学校よりもレベルが低くなる」

 「これは無理だろう」

 などと生徒の実態を踏まえた感想がいくらでも出せる。

 義務教育でもないし未履修問題のような誤魔化し方ができる教育機関に期待することは実はほとんどないのだが,小中高のつながりを意識させる学習指導要領に変わっていくので,黙ってはいられない。

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自分のダメさを完全に棚上げできる才能の伝授

 資質能力の向上は,そう簡単に望めるものではない。

 能力の面ならまだしも,資質の面をよくしようとするなら,本人が相当「自分」と向き合ってくれないと難しい。

 ただ,あまりに真剣に「自分」と向き合われると,子どもの前に立つ勇気や自信を喪失してしまうことも起こりうる。現在の自分の能力を客観的に評価できてしまうと,「子どもたちに失礼だ」という遠慮の気持ちが起こってしまい,「自分は教師に向いていないのではないか」「教師を辞めるべきではないか」と真面目な人ほど考えてしまう。

 大学では,こういう状況に置かれた自分と事前に向き合っておける場を用意しておいてほしい。

 切実感や臨場感,責任感のない大学という場で何をしても無駄かもしれないが・・・。

 一方で,全く自分に向き合わない教師というのも一定数存在する。

 すべてを他人のせいにする。

 自分のダメさは完全に棚上げできる能力というのは,病気を防ぐための完全無欠のパワーのように見える。

 しかもこの能力は伝染・感染しやすい。感染力も強いウイルスだから,油断できない。

 必死な思いで教育しても良き資質能力が育たない一方で,近くにいて話を聞くだけで,簡単に育ってしまうのが悪しき資質能力である。たとえば「無責任体質」。

 教材研究を不要とする教育方法を考案して,ごく一部の能力しか測定できないテストの点数が上がったことを口実に,少しでも学校にいる時間を短くしようと努力する教師を増やすのは容易なことである。「働き方改革」なる言葉が強力に後押ししてくれる。二重の意味で「時代の最先端」を行っている自分に酔うという「三重苦」をもった若者が増えてくるのだろうか。

 こういう教師のおかげで,仕事が増えてしまっている人たちがいるが,まだ余裕があるかもしれない。

 問題はいつ起きてもおかしくないのが学校現場であるが,どこで発生するか予想しやすい問題については,ゆとりをもって対処できるので,多忙感を抱かずにすむ。

 しかし,多くの教師が「自分棚上げ型の無責任体質」になってしまうと,子どもが引くほどの露骨な非難の応酬が始まってしまう恐れがある。これはこれで,学校を落ち着かせる一時的な手段になるのだが,その先は崩壊が待っている。

 管理職が逃げ出すほどの崩壊状態が起きる危機のある学校が増えていくと,ますます本気の管理職のなり手が減っていき,高給目当てのみの志願者が増えていくだろう。恐ろしい未来像になってしまった。

 一部の教師の無責任体質がもたらす事態をカバーできている現状のバランスを崩しにかかる勢力に,どう対処したらよいのか。

 そういうことを説明するための資質能力を育てるのは,やはり現場しかない。

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脱教職聖職論に飛びつく若者の未来

 教職員組合に所属する教員の中にも,遅い時間まで教材研究や生徒指導に付き合ってくれた人がたくさんいた。

 近くの中華料理店や飲み屋で先輩の先生方と夕食を一緒にとる機会が多かった20代の経験がなければ,今の自分はいなかっただろう,と実感できる。
 
 しかし,「憲法が保障している個人の権利=私の幸福追求権」を頑なに主張し,困っている子どもを置いてさっさと帰宅する人もいた。

 子どもたちが求めているのはどちらのタイプの教師だろうか。

 学校の子どもたちは「一人も見捨てるつもりはない」と言いながら,

 勤務時間を過ぎたら,「俺には家族がいる」と言ってさっさと帰ってしまう教師を見て,

 「ああ,こういう人がいるおかげで,ブラック企業が一掃されて,自分もひどい目に遭わないですむだろう」と希望に目を輝かせる子どもがいるだろうか。

 若い教師たちの中にはいるかもしれない。そういう若者の未来を見てみたい。

 教育現場からの脱落者の言葉を聞いて,現実的な希望を持てる人がいるだろうか。

 たまに現場に介入してくる「外部」の人間の不平不満が現場の教師や子どもたちを幸福にできる世界があれば見てみたい。

 私は家族を大切にする教員を軽蔑しようとは思わない。

 家で原稿を書いたり,家事をやらせたりしている教員も,別に軽蔑はしない。

 ただ,学校に残してきた同僚や子どものことに心を奪われている父親を見た家族は,何をどう感じるのだろうと心配になる。

 一銭ももらえない長時間家事労働に文句を言ってストライキに入る家族がいたりすれば,帰らざるを得ないのかもしれない。 

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12月28日 メッシーナ地震

 1908年12月28日午前5時20分頃,イタリアのシチリア島周辺で発生した地震によって,津波も発生し,数万人以上が犠牲になった。

 地中海では,イギリス海軍やロシア海軍が活動しており,両国ともに救助に駆けつけてきれたそうだ。

 当時は,千何百万人という犠牲者を出す第一次世界大戦が数年後に始まるとは,だれも予想できなかっただろう。
 
 この記事を書いている間にも,関東地方で地震が発生した。

 首都直下型地震への警戒を怠らずにいたい。

 大地震が発生し,流通がストップすると,信じられない早さでスーパーやコンビニの飲み物,食べ物が底をつく。

 首都圏では炊き出しで食べ物を被災者に行き渡らせるなど,不可能だ。

 助けるとしたら,自助が不可能な人たちのみである。

 人口がそれほど多くない地域での被災者の様子は,テレビでよく見てわかっているが,大都市で同じような光景になるわけではないことを,できればシミュレーションしておくべきだろう。

 もし本当に指定された学校に全員が避難したら,そこにいる方が危険になる。

 後手に回らないよう,行政はシミュレーションを急ぐべきだろう。

 御用納め後,正月前後に大地震が発生したときのシミュレーションもできていることを望みたい。

 こういうとき,威力を発揮するのは,歩いて役場に着ける距離にいる職員たちである。

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12月27日 浅草仲見世はどうなる?

 初詣で最初にお願いすることが決まった。

 浅草仲見世の店舗の家賃が16倍に引き上げられる,と言うニュースをしばらく前に耳にしたが,その後はどうなっているのだろうか。

 辞める人がいれば,入る人もいるだろうから,まさかシャッター商店街になるわけではないだろうが,仲見世ならではの店がなくなってしまうのは寂しい限りである。

 かつて,中学生たちと一緒に,仲見世の3Dマップをつくったことがあった。

 目が不自由な方が買い物などを楽しめるように,点字ではなく,売っているものなどをかたどり,絵文字にして各店舗を示してみた。いい匂いがする店,試食ができる店などがわかるようにいろいろ工夫してみた地図を,視覚支援学校の生徒に触ってみてもらったら,案外いい反応が返ってきた。

 なかなか人混みの中を介助者なしで歩くのは怖い,ということだったが,「行ってみたい」と乗り気になってくれた生徒もいた。

 点字を読むのは嫌い,と言っていた視覚支援学校の生徒が,一生懸命に絵文字を読み取ろうとしてくれていた姿を見て,3Dペンを使って苦労して地図を作った甲斐があったと感じてくれたようだった。

 仲見世に行くと,本当に様々な国の様々な民族の人たちと出会うことができる。

 みんな本当に楽しそうである。もちろん,お店の人たちも笑顔で接客されている。

 この笑顔が失われずにすむことを願っている。

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12月26日 ディルの花言葉は「智慧」

 今まで健康でいられたおかげか,薬草などにはほとんど興味がなかったが,

 健康ではない状態が当たり前になってみると,「薬膳料理」などにも関心が持てるようになった。

 花言葉などにも興味を持てずにいたが,80歳になる母親から「この本に書いていること当たってるよ」などと紹介されると,思わず子どもの誕生日の花などもチェックしてしまう。

 推理小説やドラマなどでも時々使われる「花言葉」だが,私はその「歴史」の方に興味がいってしまい,理由がわからないと落ち着かなくなってしまう。

 こういうとき,人間は何かのこじつけでも納得しないと気がすまない性質をもっていることに気づく。

 こうした性質を逆手にとって,他人を利用しようとする人間がいることもよくわかる。

 私は教師をしているが,生徒指導など,8割がハッタリである。

 本当のこと,他の生徒が何を言っていたか,などを知らせることは,多くの場合,躊躇する。

 そもそも中学生くらいの年齢の子どもにとって,誰が何を言っていたなどという情報ほど当てにならないものはない。

 何を言ったかをほとんど覚えてない子どももいるし,そのときはそう言ったが,今は全く何も思っていないとか,全く逆のことを感じているとか,いくらでもある。

 心と言葉は連動していない。

 私が最近気にしているのは,「死ね!」と口癖のように繰り返す中学生たちである。親のマネをしているのかもしれない。

 アメリカの学校では,落ち着きのない(多動の)子どもには,薬を飲ませて静かにさせるという。

 日本では,ハーブ入りのお茶くらいなら許されるだろうか。

 喫茶室を用意するくらい,余裕のもてる職場をつくってみたいなどと思う。

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日本の教育に欠けている「適時的で適正な評価」の発想

 日本の中等教育には,学習の評価を適時的に児童生徒に返す習慣というか制度がありません。

 小学校のときは,ノートや作品に必ずコメントが添えられて返却されましたが,「評価」というよりは「励まし」みたいなもので,「よろしい」だけで終わるときもたくさんありました。担任の先生はそれほど暇ではないし,30人の子ども全員にコメントをつけて返すのは難しいのだろうと子どもながらに思っていました。

 中学校の場合は,教科で担当する生徒数は100人を軽く超えるようになりますから,作品やノートにコメントを記していくことはなかなか困難です。

 かつて,私が「四段階の評価」の重要性を雑誌で発表したときに,北海道の中学校の先生に目をつけていただきましたが,制度は変わらないままで,申し訳なく思っています。日本の教育行政には,適時的で適正な評価を行わせようとする気はないのです。

 今日は,アメリカの学校から帰国していた教え子からいろんなことを学び,考えさせられました。

 論文の準備のために相談にやって来たのですが,質問がとてもシャープで,端的に答えられないもどかしさが募りました。アメリカの教育の成果がとてもよく見えた気がしました。

 今までに受けてきた講座,今受けている講座の成績が一覧で分かるようになっているサイトを見せてもらいましたが,素晴しい仕組みだと思いました。レポートの点数も,すぐに反映される仕組みがあり,宿題等はメールで送られることもあるようです。

 こうした適時的な評価をいつでもどこでも見られるような仕組みは,日本にはありません。

 アメリカでも,中には友達に宿題をやってもらう子もいるようですが,バレたらアウトだそうです。

 成績が悪い場合も学校をやめさせられるという厳しい環境は,日本では考えられません。

 教師1人が担当する児童生徒数が非常に多く,教師がただ情報を垂れ流しておけば仕事が成立する日本と比べて,教え子の学校では,教師が的確な評価を適時的にすべての受け持ち生徒に送れるくらい,余裕があるようです。もちろん,質問にはメールでも答えてもらえるそうですし,教師と生徒のつながりも強いようですね。

 日本の教育の良さは,大量生産だから,「安い」こと。それだけだったら哀しすぎます。

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12月25日 イエスの誕生日はだれが決めたか?それはなぜか?

 キリスト教以外の宗教の祝祭日が集まるこの時期に,イエスの誕生日は設定された。
 
 「歴史とは権力者によってつくられるもの」の代表例の1つである。

 権力者の言うことが正しいとは限らないということも,古くから認識されてきたはずであるが,

 「口封じ」を恐れて表現することができない時代が長く続いた。

 今はどうだろう。実は今も変わらない。

 平和主義のもとでは,変えることが難しい。

 しかしいずれ戦争のない「平和」な国ではなく,「正義」のために戦争に巻き込まれる国になるだろう。

 そういう国になって初めて,国民は声を上げることができるようになるのだろうか。

 歴史は「手遅れ」の教訓をたくさん残してくれている。
 
 知るべきことは多い。どんな教材を開発できるかが勝負である。

 宗教にタブー感がある日本だが,イエスの取り上げ方にも工夫が必要だろう。

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相撲界,芸能界,スポーツの世界,政治の世界,学校現場に共通する点は?

 立場が上の人間が,下の人間に暴力をふるう。

 無理難題をおしつける。からかって楽しむ。

 相撲界だけで起こっている問題ではないが,「日本の伝統文化」を代表する世界でもあり,

 暴力への風当たりは強い。

 普通は暴力やいじめに耐えられる人間しかいない世界であるから,

 学校現場とは違って,そのエスカレートの度合いが大きくなりがちなのだろう。

 「やめてください」と言えない雰囲気は,どこにでもあるだろう。

 しかし,そういうことが言えない社会であるから,「弱い」のだと思われる。

 相撲やスポーツの世界では,怪我などもつきものだから,負傷することで

 「罰が当たったのだ」と解釈して,不満を解消してきたのかもしれない。

 立場の上のものの不正は組織全体でなかったものとする,あるいは,

 下部の人間に責任を押しつけて,尻尾切りをするという図式は,ありとあらゆるところで繰り返されてきた。

 様々な組織が繰り返してきた図式が,国の中枢でも行われたら,どのような結果になるだろうか。

 「ざまあみろ」ではすまなくなるだろう。

 国の中枢は,世の中の不正に目を光らせ,自分のまわりににじり寄ってくる悪しき者たちを,肥え太らせる役割を担ってはならないのである。

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12月24日 クリスマス休戦

 第一次世界大戦に参加した国の人々は,指導者から兵士まで,「戦争はあっという間に終わる」という認識でいたらしい。「クリスマスにまでには帰れる」と思っていた。しかし,戦争は1918年まで続くこととなる。現実としての戦争を理解できていなかったということだろう。

 第一次世界大戦中の奇跡として知られているのが,「クリスマス休戦」である。

 これは非公式でかつ一部の戦場で発生したもので,戦闘が続けられていた地域もある。
 
 上等兵として従軍していたヒトラーは「クリスマス休戦」には反対の態度であったらしい。

 軍の判断として,二度とこのような非公式の休戦は許可しないことになった。

 「クリスマス休戦」中は,戦場でサッカーの試合まで行われていたらしい。

 当時の人々にとって,「戦争」とは何だったのだろう。

 近代国家になってから100年以上たっているヨーロッパで,なぜ国のために多くの国民の命を削り合う戦争が行われたのだろうか。

 クリスマスだからといって,なぜ昨日まで殺し合っていた人同士が仲よさそうに接することができるのだろうか。

 仲が良いことは特別なことであり,殺し合いをするのが日常の出来事ということになる。

 ヨーロッパ中世と近代の違いを,以上の疑問を踏まえて述べなさい。

 という入試問題はどうだろう。

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鉄道トラブルと学校教育の劣化の共通点

 ここ10年,教育実習生の資質能力の低下,劣化が順調に?進んでいることを実感している。

 こういう実習生たちのうちの何%かが現場の教師になっていく。

 昔だったら,「教師は現場で育てられる」ことが常識であり,本当に成長させることができたのだが,現場は現場で問題を抱えている。

 その問題とは,トラブルを相次いで発生させている鉄道会社と同じ構造的な問題であることがわかった。

 構造的な問題とは,職員の年齢構成上の問題である。修正不可能な問題である。

 JRでは,民営化された時期に新規採用を抑制した影響で,45~49歳の社員が極端に少なくなっている。

 働き盛りのベテランの人数が少なくなっているのは,学校現場も同じ。

 学校現場では,やる気はないが能力がある人,やる気はあるが能力がない人たちが教育管理職に登用されるようになっており,貴重な前線のベテランが減らされている。

 大学での教育は役に立たないから,OJTが機能しなくなったら,学校は終わりである。

 学校にはもともと,ベテランでも「お荷物」がいて,こちらにとられるエネルギーも大量に要するところに,若い教師たちを育てる労力も大変なものだった。一般企業だったら,窓際に追いやることで現場での実害を防ぐことができるのだろうが,学校ではそれは難しい。ベテランの尻ぬぐいと若い教師の教育の両方を担える人の絶対数が足りない。

 鉄道会社の場合はさしあたって,たとえば新幹線の脱線事故が起こる前に,少なくとも異常を感知したときには安全点検を徹底させるなど,指導を徹底させればよい。職員が異常に気づくこともできない場合は,乗客を頼るしかない。

 学校の場合は,今でもあるのだが,子どもや保護者から教員の問題を訴えることができる場を充実させる必要があるだろう。
 
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12月23日 あと3㎝で新幹線は脱線していた?

 新幹線史上初めての重大インシデント。

 JR西日本による会見で,新幹線の台車を支える鋼材に大きな亀裂が入り,あと3㎝で破断していたことが公開された。その場合,脱線のおそれもあったという。時速300km近い列車が脱線したらどうなるのか。実験で確かめることは困難だろう。

 しかし,「走行中に壊れた新幹線」の画像を一度見てしまうと,事故の現実味が増し,恐怖心が高まってしまう。

 私の娘は「絶対に飛行機には乗りたくない」と言っているが,そのうち「新幹線も怖い」と言い出しかねない。

 小倉で乗務員が異臭に気づき,山陽地域を走っている間にも,異常を感知していたが,新大阪駅で引き継いだときには「問題ない」という認識が伝達されてしまった。名古屋で点検して状況が把握できたという話である。
 
 国民の安寧を日々祈って下さっている天皇陛下が抱く心配の種をさらに増やしてしまったようだ。

 当事者である鉄道会社の「心配」が天皇陛下の数億倍であることを祈る。

 「安全」よりも「経済性」を優先したとき,どれだけの命が失われるかわからないのが新幹線の事故でる。


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12月22日 「改正」教育基本法・公布の日

 教育勅語を教材として活用することを,私は禁止してはならないと思う。

 天皇陛下のお言葉だが,ご本人がお作りになった文章ではない。

 どういう人間たちが何を目的にして作ったのか,それがどのように運用されたのかを学ぶことには意味がある。

 何とかの一つ覚えの人たちは,「教育勅語を教材にする」=「戦前の教育を復活させる」と短絡的に解釈し,政府の姿勢に反発しようとする。

 どんなものであれ,教育の具体的な内容に対して規制をかけることは絶対に許されない。

 日本国憲法の精神に則って,教育勅語の意味を考える,という学習活動の意義を想像してみてほしい。

 2006年に「真理と平和を希求」から「真理と正義を希求」 へ,「個人の価値をたつとび」から「公共の精神を尊び」へと文言を変えた「改正」教育基本法が公布された。

 なぜ「平和」が消され,「正義」に書き換えられたのか。

 なぜ「個人の価値」が消され,「公共の精神」に書き換えられたのか。

 もともと「他国を尊重し」の「他国」とは「米国」一国のことである,と見切っていた人たちが多い。

 それは,小泉元首相が「米国との関係が良ければ,他の全ての国との関係もよくなる」と言い続けていたかららしい。現在ではそんなことは通用しないことが明らかになってしまっているが。

 「改正」教育基本法は,個人の価値よりも公共の精神を重視していることは明らかだが,日本国憲法の精神とは合致していない。武力を使わない平和はあり得ない。悪は武力によって倒されなければならない,とする同盟国に異議を唱えないことが「正義」なのである。だから,日本国憲法も改正しなければならないのである。

 2006年以降,政権交代から東日本大震災,そして再びの政権交代を経て,教育を政治の道具にする教育改革プログラムが進行中である。

 新しい学習指導要領は,政治の意図を十二分に忖度した行政による強力な指導のもとで作られていった。

 違法な天下りを大量に行い,しかも調査に対して嘘の口裏合わせまでやっていた組織によってつくられたのが新しい学習指導要領である。

 違法行為によって穢れた組織の手による教育の大綱が,教育現場にどのような変化をもたらすのか。

 12月22日を忘れないようにしたい。


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12月19日 南南協力

 「南北問題」や「南南問題」という言葉はよく耳にするが,

 「南南協力」という仕組みがあることは知らなかった。

 同じ「北」の国に搾取された歴史がある「南」の国同士の方が,協力関係を取りやすいのか,どうか。

 日本で言えば,江戸時代の飢饉のときに助け合えた村と村の関係にあたるのだろうか。

 あるいは,庄屋さんとお百姓さんたちのような関係にあたるのか。

 江戸時代の農村では,飢饉が起こるたびに,豊かなものはより豊かに,

 貧しいものはより貧しくなる傾向があったという。

 グローバル化が進んだ現代社会と同じ構図である。

 教育の世界では,「南北問題」と言えば国立大附属学校と公立学校のような関係だろうか。

 国立大附属には,お金持ちの子どもばかりが集まる。

 こういう「北」の学校に批判が集まっているが,もし強制的に「北」と「南」をごちゃ混ぜにしたら,どんなことが起こるだろうか。

 「北」の学校には,子どもが寄りつかなくなるだろう。

 そこで儲かるのは私立学校である。

 つぶれてもよいはずの私立学校がつぶれず,国立学校をつぶそうとする動きがある理由は,わかりやすすぎて書く必要もないだろう。

 私立学校の中でも南南協力が行われる時代である。

 「格差」が生まれた経緯をしっかりと分析できる研究者がいてほしい。


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12月21日 納めの大師

 「御大師様」の縁日で私が最も楽しみにしていたのは,雑誌の付録を買うことだった。

 私のような子どもにとって,雑誌というのは「付録」を手に入れるために買うようなものであり,その付録だけが安く手に入る仕組みがとてもうれしかった。

 今でも,子ども向けの商品を扱う露天商がまだ頑張ってくれているが,ゲームソフトなどを販売しているのを見てしまうと,興ざめしてしまう。

 アメ横などは,変わらない空気だけを味わいに通う人も多いのではないかと思われるが,

 商売をしている人にとっては,ただの通行人・見物人ばかりになってしまうのは困るだろう。

 「懐かしいまちづくり」で町おこしに成功したところがあるくらいだから,

 「昔と変わらない風景」が売りになる時代はもう少し続くのかもしれない。

 私が寂しい気持ちになるのは,現在,小学生の娘には,私のような感慨を抱く余地がないことに気づくときである。

 熊手市の人出はどうだったのだろう。

 労働ではなく,金で金を増やせる時代がかつてもあった。

 巨大な熊手で富をかき集めている少数の成功者たちは,どんな気持ちで手締めをながめるのだろう。

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12月20日 人間の連帯国際デー

 多様性が大事と言いながら,国の道徳教育に対する硬直的な捉え方を如実に示したのが,

 パン屋さん否定問題である。

 なぜ道徳の教科書に,パン屋さんが登場してはいけなかったのか。

 せっかく「多面的・多角的に考える力」を子どもにつけさせようとしているのに,

 明らかに一面的なものの見方・考え方で教育内容に手を入れようとする国の姿勢は,

 前近代的というか,超近代的である。

 「パン屋さんで国の伝統を語るやつは非国民」と宣言したようなものだ。

 こんな国が「人間の連帯」などを語る資格はないだろう。


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12月18日 日本が国連で果たすべき役割

 日本は国際社会の方を向いているのか,それともアメリカの方を向いているのか。

 日本が常任理事国入りしようとしたときに,「アメリカの票が1つ増えるだけだから,意味がない」と言われたことを,どう捉えたらよいのか。

 もし,「核の傘は幻想に過ぎない」ことが証明されてしまったら,どうしたらよいのか。

 日本は,「相手を信じること」よりも,「相手から信じてもらえること」を大事にした方がよいのではないだろうか。

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12月17日 なぜ仏教の経典は日本語訳しないのか?

 その方が有り難みが増すからだろうか。

 ブータン建国の日に,京都の寺をめぐりながら,そんなことを考えていた。

 漢訳の経典に有り難みを感じる精神を分析すると,どんなことが言えるのか,考えた方がいるらしい。

 お寺さんの将来は,本当に安泰なのだろうか。

 紅葉の時期が過ぎた京都は人も少なく,ゆったり拝観できてよかった。

 晴れなのに粉雪が舞っている風景も目に焼きついている。

 これからも,外国人があまり訪れない寺を紹介してくれるサイトがあると助かる。

 一部では,中国人観光客のマナーの悪さが問題になっているようだが,私が出会った方々は,皆さんとても周囲に気を遣っていた。荷物が多いのが少々気の毒にもなった。

 奈良に移動中は,中国語と韓国語の長い車内案内放送があって,読書に集中できずに困ってしまった。

 橿原神宮から,ある博物館への移動中は,立派なつくりの家々ばかりで驚いていた。

 優秀な大工さんが今でもたくさんいるのだろう。

 古都で過ごした2日間だが,これで3週間休みなしの勤務になりそうだ。

 店と同時に家事をしている母は,何十年もろくな休みはない。

 家事労働をお金に換算してしまうと,何だか損をさせているみたいで悪い気がする。

 経典を日本語訳しないのも,そんなものだろうか。

 出張ついでに観光できた幸運に感謝したい。


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12月16日 京都のエコとエゴ

 12月16日は京都で環境教育関連の実践発表をしてきたのだが,東京に戻ってから,この日が京都市のエコの日だったのだと気づいた。

 ほとんど人がいない図書館や博物館にたくさんの電気がついているのはいかがなものとか思う一方で,もっと遅い時間まで開いていてほしいなどと勝手なことも思ったりもした。

 エコを徹底することは,本当に難しい。自分がせっかく節約したものを,別の人がすぐに無駄に使ったりすると,腹を立ててしまうのは,本当にエコのことを考えてのことなのか,自分でも疑わしい。

 エコはエゴとの闘いでもある。

 エコも行き過ぎると,エゴとの区別ができなくなっていく。

 遠い国から燃やすものをわざわざ運んできて発電するバイオマスは,決してエコとは言えないだろう。

 「退位後の上皇には,京都に住んでもらいたい」という京都市長の言葉には,「傲慢だ」という批判がある一方で,理解を示す意見も多いという。首都としての歴史がわずか150年である東京に対し,1000年という長きにわたって都であり続けた京都の人たちの気持ちは,「エゴ」とは異なるものだろうが,「二都制」という構想のために天皇の権威を利用することには反対である。

 自己主張が弱い日本人に,エゴを推奨させるような教育がなされることにも危機意識をもっていたい。


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12月15日 私立高校入試相談日

 東京都の中学校教師にとって,12月15日と言えば私立高校の入試相談日である。

 昔は,お土産をもらえる慣例があったのだが,さすがに金券の授受などはまずいだろうということで,今では書類を渡して終わりである。郵送でOKという高校も増えたのではないだろうか。

 今では,推薦入試も様変わりである。というか,何でもあり,になってきている。

 私立高校にとって入試とは,貴重な収入源でもある。4000人受験生がいれば,億の現金収入になる。

 推薦でダメだった生徒は,一般入試に加点を与えられて再挑戦させられ,これで5万円。

 推薦と言いながら,実際は学力試験を行い,不合格になる高校まである。

 私立の中高一貫校を卒業した息子の言葉が耳から離れないが,ここで書くことはできない。

 私立高校を儲けさせるために「進路指導」が熱心な教員は,今でもたくさんいるのだろうか。

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12月14日 武士の本懐と「働き方改革」

 「改革」と名前のつくものは,たいてい失敗するのが,日本という国の面白いところである。

 「働き方改革」という言葉が邪魔になって,業務に支障が出ている人などはいないだろうか。

 最近も,「働き方改革」のためのアンケート調査に協力した。

 私は「イライラする原因」として,「こんなアンケートがいっぱいやってくること」というコメントを書いておいた。

 アンケートに協力したところで,何かが変わる見込みが全くないか,むしろ状況が悪化することが予想できる人はたくさんいるだろう。

 「働き方改悪」にならないように,注意してほしい。


 四十七士たちは,本当に「本懐」を果たしたと言えるのだろうか,というのが私の直観的な疑問である。

 江戸時代の人たちは,武士に限らず,本当に不便な世の中に生きていたのだと同情してしまう。

 ただ,その不便さの中には,いくつもの「終わらないための仕組み」があったことにも気づく。

 今は,便利な世の中になったが,それは「終わるための仕組み」に組み込まれただけ,と考えることもできる。 

 命は終わった(失われた)が魂は受け継がれた,という言い方で賞賛するのも怖いものだが,

 今,至る場所で「魂の伝達が途絶えた」ことで苦悶している職場が増えているのではないだろうか。

 「不便さ」が多すぎる教育現場は,逆に,「魂の伝達」がしやすいと思いきや・・・。


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12月13日 双子の気持ち

 双子の漫才師やお笑い芸人をときどきテレビで見たことがあったが,

 「苦労も多いだろうな」という印象ばかり抱いてきた。

 そういう双子の兄弟・姉妹をたくさん見てきたからである。

 「比べる」という思考は,非常に小さい頃から可能になる能力であり,

 「比べられることの苦痛」を味わった期間がとても長いという人もいるだろう。

 冒頭で述べた漫才師やお笑い芸人の双子は,そういう苦痛を逆に

 笑いに変えてしまう特別な能力があったのかもしれない。

 ウケないときの痛さも尋常ではないものの,「家族」だから痛みも分かち合えるのだろうか。

 そういう子どもたちの面倒を長く見てこられた親御さんの苦労は想像しにくいが,

 教師をしていると,

 同時に複数の子どもに同じような愛情を注げる能力も大切だと感じた。

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12月12日 いい字一字は「北」?

 「漢字の日」に選ばれる「今年の漢字」は,「北」であった。

 北半球の人にとっては「高緯度で寒い方」のイメージ,

 南半球の人たちにとっては「低緯度で暑い方」のイメージなのだろうか。

 「北(  )」の(  )にあてはまる漢字1字は何だろう?

 と子どもに聞いたら,「風」とか「極」などと答えるかもしれない。

 清水寺の「北」が少し汚い字だという印象をもつのは素人だからだろうか。

 背中合わせで対話を拒むのはよくないと言いながら,

 自分たちもその片割れに過ぎないことに気づけない人がいる。

 子どもの方を向いていない教師にはほとほと困り果てる。


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12月11日 UNICEFがUNCFではない理由

 国連児童基金= United Nations Children's Fund だから,ユニセフにはならないはずである。

 ユニセフは,国連児童基金の前身の国連国際児童緊急基金=United Nations International Children's Emergency Fund のときの略称をそのまま使っている。

 UNCFだとどのように発音するのだろう。

 今,略称で困っているのはSDG'sである。言いにくい。ESDくらいなら,まだましだったのだが。

 さて,日本はかつて脱脂粉乳などの援助を受けている。

 今,日本はどのような恩返しができているのだろう。

 「憎む対象の国」を報道するとき,困っているその国の子どもたちを映し出すことはしない。

 指導者を困らせるための制裁措置だが,最も弱い人間から順番に犠牲になっていくことを想像できるようにしておきたい。

 「他国の子どもたちを殺す国」という悪評を広められることによるダメージも大きい。

 報道されないものに目を向けることの意味を考えられるようにしておきたい。


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忖度損のくたびれもうけ

 忖度することで地位が向上したり利益を得たり安定を維持することができる人たちが生まれるシステムは,大学の世界でも同じであることがよくわかった。

 ただ,大学では研究室を持つ教授レベルの人間が資金獲得のために不正を働き,それがバレて数々の実験の積み重ねがすべて水の泡になってしまう人たちが増えているようだ。

 忖度損のくたびれもうけをしたポスト待ちの研究者はどのくらいいるのだろうか。

 これも,「21世紀の日本」の典型的な姿だと未来の歴史書には記されるのだろう。

 アメリカの場合,競争原理が不正を招くことを防止するシステムに相当の資金を使うようになっているそうだ。

 その資金が本来の研究に使われることを,ほとんどの研究者は期待しているだろうに。


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12月10日 国連による国連のための人権

 学校現場を「大学教員による大学教員のための教育」から救うために,教師や子どもができることを考えなければならない。

 その教科は,その科目は,なぜ子どもにとって必要なのか。

 新しい学習指導要領では,教科独自の「見方・考え方」を働かせて学習できることに教科の意義を持たせる方針としたのだが,それらを総合させて働かせることが重要だと言っているのだから,そもそも教科別に一面的な「見方・考え方」を育てただけなら意味がないことを自分で言っていることにもなる。

 組織は良きリーダーが不在だと,組織の存続のために動いているとしか思えない状況が多く生まれてしまう。

 「大学教員による子どもたちの未来のための教育」がなされずに,「教員本人のための教育」が登場してしまうのは,自分自身や自分のポストの存在証明をする必要があるからである。

 さて,国連に対して,世界人権宣言がいかに「絵に描いた餅」に過ぎないか文句を言いたいわけではないのだが,理想と現実のギャップがあまりに大きくなり,「機能しない国連」という評価が定着してしまわないようにするため,また,「国連という組織を存在させるためだけの活動ばかりしている」という反発を生まないようにするために,もっと「国連らしさ」をPRするソフトパワーを伸ばしてほしいという願いがある。

 10個のスコップがあるときに,100人にこれを使って穴を掘れ,と言われたときは,10人1組で交代で使う,という方法がある。

 しかし,水をくみ出す手段としてそのままスコップを使わせたり,網をもってきたりするのは愚かなことである。

 水たまりの水を,道路の真ん中にうつすだけ,ということを平気で行っているのが教育現場である。

 効率を重視する世の中だから,ポンプと発電機を持ってくればすむのかもしれないが,そういうことをしているから,いろんな可能性をつぶされる人たちが出てきているのである。

 「人海戦術」という言葉を調べてみると,いろいろと恐ろしい歴史や背景が見えてくる(日本では,山の中で行方不明になった人を探すときなどに使っているが,背景を知っている人なら使うのを躊躇するような言葉である)。

 背景を無視して,「平和な社会を築くためにできる人海戦術とは何だろう」という問いを立てたらどんな答えが出てくるだろうか。

 「大勢でできること」「みんなでできること」・・・日本の地域社会の中では,かつてはいくらでもあったもの。

 人口は減少しても,それさえあれば何とかなったはず,という何かが,今は失われている。

 問題は人口減少ではなく,「みんなでできること」なのにそれをしなくなっている,という現状である,ということに気づけるかもしれない。

 政権は,「選挙に人海戦術で投票しに来られる」と,本当に困ることになるかもしれないが,民主主義国家を守るのは国民であって,政府ではないことに気づいてほしい。

 
**********************

【世界人権宣言 第1条】 
 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

【世界人権宣言 第19条】

 すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

【世界人権宣言 第26条2】 

 教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。

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12月9日 弱い立場の人を利用する卑怯を許さない

 弱い立場の人たちが,強い立場の人に利用されることがある。

 強い立場の人たちが,弱い立場の人たちを助けたり救ったりするという名目で。

 表面上は,弱い立場の人たちのための行動に見えても,

 実際には自分の利益のための行動でしかないものもある。

 教育の世界では,弱い立場にいる子どもだけでなく,弱い立場にいる教師も全部ひっくるめて利用しようとしている人間がいる。困っている状況につけ込んで,「実証的なデータがある」ことを根拠に,罠にはめていく。どうしたら教師が騙されずにすむのか,弱い立場の教師たちは真剣に考えていかないといけない。

 これからの社会は,技術の進歩によって,障害をもっている人たちの不自由が少しずつ減っていくことになるだろうが,それが本当に必要な技術なのかどうか,障害をもっている人の側も考えていくべきだろう。

 「弱さ」はだれもが持っている。障害はないと自覚している子どもや高齢者,健康を維持している妊婦さん,非正規雇用の人たちに限らず,だれもがみんな「弱さ」を持っている。

 「弱さ」を無理矢理「強み」に変える解釈をする必要はない。

 種類は異なるが程度が同じ「弱さ」を持っている人間同士で助け合うことができているから,だれもが困らずにすむ社会が成立してきたはずである。

 社会の常識の中には,あまりに「当たり前」すぎて,いかに価値の高いものかを気づけずにいるものが多いかもしれない。

 「障害者の日」には,何が社会の常識なのかをふり返ってみるのもよいだろう。


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12月8日 リメンバー・パールハーバー

 国が戦争に向かうことを国民が賛成するか反対するかは,民主主義国家に限らず,国にとって重要な関心事だろう。戦争で死ぬのは国民なのだから。

 では,反対する国民が多い場合に,世論を賛成に向かわせるためには,どうしたらよいか。

 自分が死ぬことに賛成する人は少ないから,勝つためにできることを考えさせれば,相手の国の指導者を倒すことが一番よいということになる。しかし,指導者を守る国民がいるから,結局,相手の国の国民をたくさん殺すことになる。

 どうしたら相手の国の人たちを殺せるようになるか。

 殺したいほど憎ませればよい。

 どうしたら憎ませることができるか。

 憎むきっかけになりそうなことを,片っ端から宣伝するに限る。

 あまり知恵のまわりのよくない指導者は,そういう宣伝が結局相手の国から憎まれることになれば,自国だけではなく敵国の国民も「やる気」にさせることにつながる。

 ベスト?なのは,こちら側に何の落ち度もないのに,相手が一方的に悪いことをしている,という認識を国民に持たせることである。

 リメンバー・パールハーバーは,アメリカが日本への憎悪を向きだしにするための合い言葉となったが,今では,日本とアメリカの外交交渉や,日本がとった決断についての「記憶」も含めて人類が遺産とすべきである。

 「失敗から学ぶ」ことをスローガンにした教育をしてくれれば,過ちを繰り返さずにすむ国が増えるかもしれない。

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底辺での思い出が頂点になる

 私がかつて勤務していた中学校が,「底辺」に位置しているという理解は,正しくて誤っている。

 常識では起こりえない問題行動が頻発する。

 親も自分の子どもをどうしていいかわからないのだが,教師たちは文字通り路頭に迷っていた。

 校長や教頭はひたすら教員の悪口ばかりを言う。

 教員は校長や教頭の悪口ばかりを言う。

 親は教員の悪口ばかりを言う。

 教員は親の悪口ばかりを言う。

 子どもたちは・・・。

 こういう人間たちのせいで,すべてを台無しにされ続けてきたのである。

 学力は低い,問題行動(犯罪行為)は起こす,秩序は乱す,部活動はさかんでない・・・。

 「こういう中学校に自ら進んで異動しろ」「荒れた学校で働くことの意義は大きい」などと堂々と語れる指導主事は今,どのくらいいるだろうか。

 かつてそのような指導主事が多かったのは,自分たちがそこで多くを学んで指導的な立場になれたからである。今では・・・・消耗戦が続く現場からはため息しか漏れてこないのだろうか。

 荒れた学校でよくある光景を最初に紹介したが,これをなくすだけで学校はすぐによくなってしまう。

 他人の悪口を言う暇があったら,子どもが必死にもがいている姿を自分はしっかり「見ていた」という痕跡を残せばよい。いちいち褒める必要はない。「見ていてくれている」ということが,どれだけの安心感や満足感をもたらしてくれることか。
 
 私の勤務校では,たまたま,高度なネガティブ・ケイパビリティを持った教員が多かったせいか,荒れは次第に姿を消していった。

 教育の専門家を名乗る者の中には,「底辺」の思い出が「底辺」のままで終わっている人間がいる。

 そんな人間から学べることなど一欠片もないだろう。

 さっさと「底辺校」から逃げ出した人間の言うことに耳を貸す必要はない。

 その場に「居続ける」ことでしか得られないものが山ほどある。

 論文をいくら積み上げたところで,何の意味もないことは現場の教師なら痛いほどわかるだろう。

 地面をほじくって地中深くに沈んでいくような研究は意味がない。

 荒れた学校での1日1日は,山頂が視界に入らないタイプの登山に似ている。

 同僚や生徒たちと一緒に頂上で見た景色は生涯忘れることのできないものになる。

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12月7日 131年前のクリスマスツリー

 日本で初めて登場したツリーには,どんな飾り物がついていたのだろう。

 木を信仰の対象にしていたのは,もちろんキリスト教徒だけではない。

 なぜ飾りを必要とする文化になったのだろう。

 学校の文化祭となると,ハロウィンの時期と近いので,やたらと飾りをしたくなる生徒が多い。

 それは,たいてい内容の乏しい団体である。

 飾りなどは必要ない,という堂々とした自信に満ちた生徒がいるのは嬉しい。

 平家物語に登場する武士は,これでもか,というほどの装飾品を身にまとっている。

 源氏物語に登場する人物も,持ち物でレベルがわかる仕組みになっている。

 飾りものを否定する文化と,それを大事にする文化のせめぎ合いが,教育の場ではよく起こる。

 制服を一新する,というのは「飾りを変える」という発想だろう。

 制服を変えようとすると怒り出す人がいる,という伝統校と,

 何でもコロコロ変えたがる風見鶏校と,どちらを選ぶかはもちろん人の自由である。

 横浜の明治屋の磯野計(はかる)さんは,外国人を喜ばせるというサービス精神でクリスマスツリーを飾ったのだろう。

 学校がサービス業に変質してから,どのくらいの年月が経ったのだろう。

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情報による社会的制裁は「いじめ」とは別物か?

 大相撲の「横綱」という地位に対する理想像が異なる現役横綱と元横綱がいる。

 一方は常勝こそ横綱の地位の証とする人間,もう一方は「模範的存在」であることを重視する人間。

 負けた後に悔しがったり,審判に対して不平不満を態度で示したりするのは「大横綱」とは言えない,とする後者の人間にとって,勝ち続けてきた現役横綱が目の敵であることは想像できる。

 「膿の出し切れない組織」の代表例になってしまいそうな相撲界だが,

 国際化の波に押し流されて消え去りそうな「伝統文化」がまだかろうじて維持されているのも相撲界だろう。

 「勝ちにこだわる横綱」がいても面白い,という人もいるだろうし,

 「そういう横綱の弱く哀れになった晩年」を楽しみにしている意地悪な人もいるだろうし,

 「人間が小さい勝負師」の後に出てくる「本物の横綱」が際立つことを楽しみにしている人もいるだろう。

 相撲に興味はないが,揉め事を飯のタネにして生きている人たちもいる。

 「今が叩きどころ」と思うと,握っていたネタや,過去のネタを振りかざして儲けていく。

 問題を起こした人間というのは,警察や検察の取り調べ,裁判,罰金刑などよりも,とにかくマスコミなどによるバッシングが何よりもキツイ「制裁」になるのではないか。
 
 裁きどころを知っている人たちほど怖い存在はない。

 子どもがもしも,問題を起こした特定の人間に同じような「社会的制裁」を加えたら,学校は「いじめ」と認定しなくてはならなくなる。

 同じような行為を「いじめ」とは呼ばなくなる境界線とはどこにあるのだろう?

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12月6日 声の大きい人間は信用するな

 必要以上と思われる大きい声で話す人間がいると気づくと,たいていそれは教師である。

 「この人,耳が遠いのだろうか?」と誤解する方もいるだろう。

 教師は,時と場合によっては,かなり大きな声を出さなければならなくなる。

 重要な指示を出すときに,ざわついたままだと困るからである。

 静かにさせるコツが使える場面もあるが,使えない場面には仕方なく大きな声が必要になる。

 ただ,職業病のように,常に大きなボリュームで話す人がいて,こういう教師は絶対に信用するなと子どもにも自分にも言いきかせている。

 こういう人間とまともな話が続けられるほど教師という職業の人間は我慢強い人しかなれないものなのだが,そういう甘やかされた環境の中にあって,度を越した何かを持ち続けてしまう人間が教師にはいる。

 相手が嫌がっているとか,困っているという状況が理解できない教師に,進んでかかわりを持とうとする教師や子どもはいないから,ますますこういう人間は「裸の王様化」していく。

 私は聴覚が異常なほどに敏感で,以前にも書いたかもしれないが,オーケストラの演奏など絶対に聴いていられない。

 音の日には,子どもの寝息が聞こえる静かな夜を過ごしたい。

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12月5日 子どもと教師を「捨て石」にする人間

 ボランティアとして人間を「利用」できる組織がある。

 文字通りの「捨て石」なら,相手にわたるから,持ち主が代わるだけで「生かされている」状態は残る。

 しかし本当に捨てられてしまう石は,二度と同じ場所に浮かび上がってはこない。

 SNSでのやり取りを「高みの見物」ですませられる場所にいる人間には,現場での痛みは理解できないだろう。

 自分が勝手に痛い思いをすることができても,相手の痛さに気づけない人間というのがいる。

 本人がつらそうにしていれば,一見すると,まとな人間=感情のわかる人間に見えなくもないが,他人の痛みが理解できない人間に,教育を語る資格はない。

 自分の経験則を未知の集団に対して無責任にあてはめようとする人間を,教育現場に出て行けない人たちはどう思っているのだろう。社会人になったとき,「こういうのが使えない上司というのか」ということがよくわかるのだろう。

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ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力

 また小難しいカタカナ語が出てきたなと反発される向きもあろうが,

 「ネガティブ・ケイパビリティ」は日本語に訳しにくいことこの上ない。

 しかしこの「能力」を重視せずにはいられない人々がこれから増えていくはずなので,あえて訳さないというのも一つの方法である。どう解釈したらイメージがしやすいか。

 ネガティブはポジティブの反対語だから,「消極的」「否定的」が真っ先に思い浮かぶかもしれないが,

 「プラスとマイナスのマイナスの方」「正と負の負の方」というのがここでは一番ピッタリくる。

 ポジティブ・シンキングを「プラス思考」というのに対し,ネガティブ・シンキングを「マイナス思考」と呼んでいるように。 

 次に,ケイパビリティという言葉だが,

 経営学や防衛産業で使われている「手腕」「能力」「性能」という意味で,

 単語ではアビリティ(これも「能力」)の前に「cap」がついているものである。

 「able」と「capable」という単語の意味はほぼ同じようだが,

 「capable」の方には「受け入れる余地がある」という意味で使える。

 「capacity」(能力,最大限の収容能力,包容力,度量)という単語に

 やや近いイメージだろうか。

 つまり,「ネガティブ・ケイパビリティ」とは私なりに直訳すると

 「負の事象を受け入れる力」が一番イメージに合っている。

 だれがどのような意味で使い始めた言葉なのかというと,帚木蓬生さんの著書によれば,詩人のキーツがシェイクスピアに備わっていた能力だと指摘していたこととして紹介されている。


>どうにも答えの出ない,どうにも対処しようのない事態に耐える能力

>性急に証明や理由を求めずに,不確実さや不思議さ,懐疑の中にいることができる能力

>(詩人がアイデンティティを必死に模索する中で,物事の本質に到達する前の)宙吊り状態を支える力

>不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ,不思議さや疑いの中にいる能力

>対象の本質に深く迫る方法であり,相手が人間なら,相手を本当に思いやる共感に至る手立て

>〈問題〉を性急に措定せず,生半可な意味づけや知識でもって,未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず,宙ぶらりんの状態を持ちこたえる(能力)

>(学校教育や職業教育では)問題が生じれば,的確かつ迅速に対処する能力が養成されるが,ネガティブ・ケイパビリティは,その裏返しの能力です。論理を離れた,どのようにも決められない,宙ぶらりんの状態を回避せず,耐え抜く能力です


 キーツが文学・芸術の領域でその有益さを示したネガティブ・ケイパビリティを精神療法の場においても必須の要素だと考えたのがビオンという精神科医,精神分析医であった。


>ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ,治療者と患者との出会いを支え続けることによって,人と人との素朴な,生身の交流が生じるのだとビオンは説きました

>(ビオンは同じく,精神分析医も,患者との間で起こる現象,言葉に対して,同じ能力が養成されると主張したのです。つまり,)不可思議さ,神秘,疑念をそのまま持ち続け,性急な事実や理由を求めないという態度


 ビオンが抱いていたとされる危惧は,そのまま教育者,企業の経営者などにもあてはまることと考えられる。


>精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があります。若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて,目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく,精神分析学の知識で患者を診,理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。


 日本の文化の事例にあてはめてみると,「道」を究めた人が行き着く「無の境地」というイメージに近いものだろうか。

 物事の本質を見極める上で,山の頂を想像し,「頂点」から展望が周囲に開けた状態,「ものの見方」よりもっと広い視野が持てて,焦点もあちこちに浮遊できる状態から始めるという方法も参考になった。

 帚木さんの著書には,黒井千次氏の「知り過ぎた人」という随筆の一節も紹介されている。


>それにしても,とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには,簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は,それを抱く人の体温によって成長,成熟し,更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては,一段と深みを増した謎は,底の浅い答えよりも遙かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。


 この文章が紹介されている第三章「分かりたがる脳」の最後を,帚木さんは次のように締めくくっている。


>全くそうです。ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく,謎を謎として興味を抱いたまま,宙ぶらりんの,どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して,耐えていく持続力を生み出すのです。


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12月4日 データ分析で野球が変わった

 12月4日は日本の近代統計調査の先駆者である杉亨二さんが亡くなった日である。

 総務省統計局のHPにその一生が紹介されている。

 統計データは,持っているだけでは意味がない。

 それをどう活用するかが重要である。

 2015年にMLBで始まったデータ分析が,わずか2年で結実したらしい。

 ホームラン数が異常な増え方をした2017年は,

 いわゆる「飛ぶボール」のせいだろうと勝手に予想していたが,

 どうやら「フライボール革命」が起こっていたということである。

 来年の日本でも起こるかどうかはわからないが,

 打球の速度と角度によってホームランになるかならないかが明確に

 示されることで,数字を意識したバッティングに変わったそうである。

 データ革命によるMLBの進化が,日本にも影響を及ぼすかどうか。

 データ野球と言えば,かつては野村監督やその指導を直に受けていた古田捕手をすぐに連想するのだが・・・。

 数学者や統計学者が活躍する場が,野球を始めとしたスポーツの世界に広がっていくのだろうか。

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12月3日 今年のみかんの出来

 昨年,今年と,みかんの出来が今ひとつである。

 夏の天候不順が響いているのではないか。

 私は毎年みかんを30kgくらい買っているが,3分の2は人に差し上げている。

 今年は差し上げにくさを特に感じているところである。

 2年連続で夏らしい夏ではなかったせいか,体の方もどこか不調になっている人が多いのではないかと想像してしまう。

 実は教育の世界でも,「不調感」を抱いている教師は少なくないのではないだろうか。

 「いじめ」や「体罰」,「暴力」などを隠さないようになってから,学校のダメっぷりはもう当たり前すぎて逆に報道されないようになってきているが,それが何の劣化に基づいているものなのか,そろそろ子どもでも気づき始めているような気がする。

 これはもちろんたった2年の天候不順のせいではない。

 教師を教える立場の人が,大幅に入れ替わり始めていることが原因ではないだろうか。

 日照不足である。

 教育界では温暖化とは真逆で氷河期に入ろうとしているのかもしれない。

 だからこそ,今までにはあり得なかった教育が入り込むすきがある。

 学習指導要領に示された目標を無視した教育の蔓延は,理想に近づく一方で,逆の効果=法令遵守徹底指導を招く危険性がある。

 「台風の目」として大躍進を見せていた政党が,「温帯低気圧」と揶揄される事態に陥っているが,猫の目のように変わる政治の姿にも,日本の危機が写し出されている。

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マリオが総理大臣ならピカチュウを防衛大臣,ハローキティを外務大臣に

 河野外相の英語版ツイッターが日本語版のそれよりも注目されていることが話題になっている。

 日本では「政治の幼稚化」の象徴のように見えてしまうかもしれないが,

 政治よりも文化が社会をつくってきた国の人々にとっては,何の抵抗も感じられない出来事なのかもしれない。

 日下公人さんは,何年も前から「ピカチュウが世界を変える」ことを予言されていた。

 「こんな素晴しい国に生まれて良かった」と締めくくられているアメリカ人の子どもの作文を紹介して,そこに登場する電気製品やアニメなどがすべてメイドインジャパンであることを教えてくれている。

 幼児たちがもつ純粋さと残酷さを,そのまま大人に表現されてしまうのも考えものだが,日本が世界を動かすとしたら,それは文化の力によるものに違いないだろう。

 アニメの世界への熱狂的なファンがすでに大きく成長し,何か普遍的な価値を認めてくれてしまったようなタイミングである。チャンスを逃さない機動力を政治に行かせる人が登場したのだろうか。

 オリンピックの会場に総理大臣がマリオの姿で登場した国である。

 閣議も着ぐるみで実施してみたらどうか。

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12月2日 核分裂がつくった世界

 1945年以降の世界秩序をつくったものの一つが,核兵器である。

 12月2日は,アメリカのシカゴ大学が,ウランの核分裂の持続的な連鎖反応に世界で初めて成功した日で,「原子炉の日」とされている。この日から3年後に「実用品」となった原子爆弾が,日本で使用された。

 核分裂の力がつくった世界は,その力によってすべてが滅ぼされようとしている。

 「日本のために復讐を果たしてくれようとしている国がある」と勘違いしている人はいないだろうが,将来,日本人の多くが「原爆のおかげで被害者が少なくなってよかった」と本気で信じるような世の中になるのも恐ろしいことである。

 グローバルな競争に向かうための「思考力」の育成に力を注いでいるうちに,いつの間にか「日本人はいなくなった」ことに気づく日がやって来そうで心配である。

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12月1日 冬の省エネ総点検の日

 1980年に資源エネルギー庁が中心となって,「省エネ」への取り組みを国民全体に広げる活動が始まった。

 背景は言うまでもなく,1970年代にあった2度のオイルショックにある。

 毎月1日は「省エネの日」,

 毎年2月が「省エネ月間」となっている。

 夏の31度をエアコンで25度くらいに冷やすのと,

 冬の0度を18度くらいに温めるのと,どちらがエネルギーを多く消費するかは言うまでもない。

 計画停電が実施されたとき,「寒さをしのぐには服を重ね着すればよい」とまさに「鏡」としての言葉を残された方がいらっしゃった。

 夏に節約を意識しすぎて熱射病になるのもダメだし,

 冬でもやせ我慢はいけないと思うが,体を温めるための工夫はいくらでもある。

 資源エネルギー庁のHPに,「一般向け省エネ関連情報」というコーナーがあり,

 省エネのコツ,具体的な行動とその効果が

 エアコン,照明,キッチン,自動車など,使用機器ごとに示されている。

 こういう電気・電子機器に将来,省エネAIが組み込まれると,人間がいかに無駄な欲をたくさん抱えているかが実感できる生活を送れるようになるかもしれない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より