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12月7日 131年前のクリスマスツリー

 日本で初めて登場したツリーには,どんな飾り物がついていたのだろう。

 木を信仰の対象にしていたのは,もちろんキリスト教徒だけではない。

 なぜ飾りを必要とする文化になったのだろう。

 学校の文化祭となると,ハロウィンの時期と近いので,やたらと飾りをしたくなる生徒が多い。

 それは,たいてい内容の乏しい団体である。

 飾りなどは必要ない,という堂々とした自信に満ちた生徒がいるのは嬉しい。

 平家物語に登場する武士は,これでもか,というほどの装飾品を身にまとっている。

 源氏物語に登場する人物も,持ち物でレベルがわかる仕組みになっている。

 飾りものを否定する文化と,それを大事にする文化のせめぎ合いが,教育の場ではよく起こる。

 制服を一新する,というのは「飾りを変える」という発想だろう。

 制服を変えようとすると怒り出す人がいる,という伝統校と,

 何でもコロコロ変えたがる風見鶏校と,どちらを選ぶかはもちろん人の自由である。

 横浜の明治屋の磯野計(はかる)さんは,外国人を喜ばせるというサービス精神でクリスマスツリーを飾ったのだろう。

 学校がサービス業に変質してから,どのくらいの年月が経ったのだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より