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12月17日 なぜ仏教の経典は日本語訳しないのか?

 その方が有り難みが増すからだろうか。

 ブータン建国の日に,京都の寺をめぐりながら,そんなことを考えていた。

 漢訳の経典に有り難みを感じる精神を分析すると,どんなことが言えるのか,考えた方がいるらしい。

 お寺さんの将来は,本当に安泰なのだろうか。

 紅葉の時期が過ぎた京都は人も少なく,ゆったり拝観できてよかった。

 晴れなのに粉雪が舞っている風景も目に焼きついている。

 これからも,外国人があまり訪れない寺を紹介してくれるサイトがあると助かる。

 一部では,中国人観光客のマナーの悪さが問題になっているようだが,私が出会った方々は,皆さんとても周囲に気を遣っていた。荷物が多いのが少々気の毒にもなった。

 奈良に移動中は,中国語と韓国語の長い車内案内放送があって,読書に集中できずに困ってしまった。

 橿原神宮から,ある博物館への移動中は,立派なつくりの家々ばかりで驚いていた。

 優秀な大工さんが今でもたくさんいるのだろう。

 古都で過ごした2日間だが,これで3週間休みなしの勤務になりそうだ。

 店と同時に家事をしている母は,何十年もろくな休みはない。

 家事労働をお金に換算してしまうと,何だか損をさせているみたいで悪い気がする。

 経典を日本語訳しないのも,そんなものだろうか。

 出張ついでに観光できた幸運に感謝したい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より