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12月16日 京都のエコとエゴ

 12月16日は京都で環境教育関連の実践発表をしてきたのだが,東京に戻ってから,この日が京都市のエコの日だったのだと気づいた。

 ほとんど人がいない図書館や博物館にたくさんの電気がついているのはいかがなものとか思う一方で,もっと遅い時間まで開いていてほしいなどと勝手なことも思ったりもした。

 エコを徹底することは,本当に難しい。自分がせっかく節約したものを,別の人がすぐに無駄に使ったりすると,腹を立ててしまうのは,本当にエコのことを考えてのことなのか,自分でも疑わしい。

 エコはエゴとの闘いでもある。

 エコも行き過ぎると,エゴとの区別ができなくなっていく。

 遠い国から燃やすものをわざわざ運んできて発電するバイオマスは,決してエコとは言えないだろう。

 「退位後の上皇には,京都に住んでもらいたい」という京都市長の言葉には,「傲慢だ」という批判がある一方で,理解を示す意見も多いという。首都としての歴史がわずか150年である東京に対し,1000年という長きにわたって都であり続けた京都の人たちの気持ちは,「エゴ」とは異なるものだろうが,「二都制」という構想のために天皇の権威を利用することには反対である。

 自己主張が弱い日本人に,エゴを推奨させるような教育がなされることにも危機意識をもっていたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より