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高校「地理総合」「歴史総合」制度設計の瑕疵

 小中連携ほど難しいものはない一方で,

 中高連携は中等教育学校が従来からあるくらいだし,免許も同じなので,大した問題があるとは思っていなかった。

 が,目鼻がついてきた高校の「地理総合」や「歴史総合」の構想に致命的な欠陥があることがわかった。

 このままいけば,「瑕疵」と呼べるものになるだろう。

 それは,「地理総合」を単純に中学校の「地理的分野」との接続,

 「歴史総合」を「歴史的分野」との接続として捉える制度設計になっていることに気づいたからである。

 ここまで読んで,「当たり前だろう」「そのどこが問題なのか」と思ってしなう人には,中高連携を語る資格はない。

 地理は地理,歴史は歴史,政治経済は政治経済,と考えるのは大学のセンセイの発想である。

 「専門を外れた世界には口を出さない(出せない)」という常識があるからだろう。

 だから,地理も歴史も,教科書が「いろんな専門家が分担して書く文章」の寄せ集めにすぎないもの=「面白くない本」の代名詞になってしまうのである。

 小中学校には「社会科」がまだ生き残っている。

 その存在意義を否定するような学会(学会名を見ればわかる)もあるが,

 学会名には「社会科」が入っていても,分科会が完全に専門別になってしまっており,学会名が示すような機能を果たせなくなっているところもある。

 中学校の「社会科」にも,小学校の「社会科」にも,地理・歴史・公民(政治・経済,国際関係)という「串」がさされ,大事な中身が引き裂かれてしまうようだ。

 鰻の蒲焼きが焼き鳥のように串ごとにバラされてしまったようなイメージである。

 本当なら,中学校社会科を学び修めた子どもが高校生になり,「地歴科」で「地理総合」と「歴史総合」を学ぶのであるから,「地理総合」や「歴史総合」は中学校社会科全体と連携していないとダメなのである。

 「多面的・多角的に考える」という目標があるのに,面が減らされているので見る角度も限定される,というお粗末な結果になろうとしている。

 中学校の社会科は,地理的分野と歴史的分野を並行して学び,やや歴史が出っ張るが,最後には公民的分野を学んで高校に進学していくのである。中学校では公民的分野で一応の「仕上げ」をかけているのだ。

 だから,地理総合を単に地理的分野の延長線上としてとらえさせるようでは,「多面的に学ぶな」と宣言しているようなものである。

 歴史も同様である。

 「歴史総合」は,従来の「日本史」「世界史」という枠組みではなく,「日本と世界の歴史」として現代につながる過去を探っていくものであり,実質60時間弱の枠におさめないといけないのだが,思いの他「中学校の歴史の詳細版」に近いものになっており,生徒によっては「繰り返し感」が半端ないものになるだろう。

 「アジアの近代化がどう進んだか」というテーマを設定したとき,高校なら「日本の特殊性とアジアの他国との共通性」に目を向け,なぜそうなったのかを考えさせる単元構成が思いつく。

 もちろん,ロシアやヨーロッパ諸国,アメリカとの関係をふまえて考えないと,近代化の意味はわからなくなってしまう。

 ポイントを絞りすぎると,内容は中学校の歴史と同じ程度のものばかりになってしまうのである。

 さらに言えば,地理がわからなければ,「アジアの近代化」とその後の世界の動きとの関係,現代とのつながりの意味も見えてこない。

 地歴科という科目があるのだから,「地歴総合」でよいのである。

 本当に「総合的に考えられる題材」に絞っていく。

 ランドパワーやシーパワーという地政学上の概念も知っておく必要がある。

 現状では,「総合」という名がついていながら,全然「総合」っぽくない。

 「総合的な学習の時間」のいい加減さが,「地理総合」「歴史総合」への印象をさらに悪くしているとも言える。

 ともかくも,まずは「分解」したものを「総合化」して社会を見ることができるように,設計をし直すのが先だろう。

 よくよく考えてみれば,そもそも「地歴科」「公民科」が分かれてしまっていること自体がグローバル化に対応できない理由の一つではないだろうか。

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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
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