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大学生に教師のコンピテンシーを育成できるか?

 私がある学会で教師のコンピテンシーについて発表したとき,ある大学の先生から「どうやってこういう能力を育成できるのか」と質問された記憶がある。

 人の能力というのは,大学の先生などという立場では簡単に育成できるものではない,とは当時は言わなかったが,同じようなニュアンスが伝わったせいか,不機嫌そうな表情をしていた。

 コンピテンシーとは,そもそも,仕事で優秀な成績を継続的に残している人がもっている,普段の行動特性のことを指している。

 だから,全員が同じレベルに達することは不可能だが,目指すべきはっきりとした「できる人」のイメージがあるという特徴がある。

 「学生にあなたのコンピテンシーを評価してもらうところから始めてみてはどうか?」という答えも頭をよぎったが,

 「私には教員免許がない」「学校で教えた経験がない」と言われると,たしかに能力の確かめようもない。

 教師というのは,教育現場で自分の仕事をこなしていく中で,少しずつ目標を達成していき,「自分もできる」と実感が得られ,「あなたはできる」と他者評価を受け,「子どもが伸びている」という教育成果が得られた段階で,「身に付けることができた」と言えるものである。

 資質能力というものは,そもそも個人差が大きい。

 大学時代に,授業も大切にしながら,体育会でチームをまとめるのに苦労してきた経験がある人と,

 大学の教室とバイト先を行ったり来たりしていただけの人に同じ期待をかけてはいけない。

 バイト体験があるだけまだましかもしれない。

 本で読んだり講義で耳にした先生の話,他人の話しか知らない人には,想像上の成功イメージしか存在しない。

 バイトの場合は,労働の結果,お金という報酬をもらうためだけに従事するものも多いだろう。

 大学院にまで進んで,意味もよくわからない文章の翻訳を手伝わされ,日本語らしいものにしても,実践的指導力など一切身に付かない。自己保身のための理屈だけは立派なことが言えるようになるかもしれないが。

 大学の体育会では,お金にならないのに先輩にやれと言われたことは何でもして,言われなくてもやるべき努力は自分でして,最後には勝敗というシビアな「結果」が待っている。

 学校現場に入ると,仕事を自ら進んで取り組み,一定の出来映えが見込める若い人には,どんどん新たな仕事が入ってくる。仕事が多くなれば,自然と効率的な仕事の進め方を考えることになる。そして生活指導の案件など,難しいが教師らしい仕事が増えてきて,生徒理解も進む。

 改めて「では大学では何をしたらいいのか」と問われたら,「学生に考えさせろ」と答えたい。あなたにはそれがわからないのだから。

 一番先生っぽいオーラを持っているのは誰なのか。そのオーラとは,何なのか。

 一番受けてみたい授業ができるのは誰なのか。なぜ受けてみたいと思えるのか。

 一番悩みを相談したい,相談できそうな人は誰なのか。それはなぜなのか。実際に相談してみたらどう思ったのか。

 400人を整然と並ばせ,安全な場所に誘導する指示が出せるのは誰なのか。だれもいなければ,その指示とはどうやってすればいいのか。

 数え切れないほどの「確かめてみたいこと」が挙げられるはずである。 

 そして,多くの学生は気づく。

 「それは,教育現場に行かないとわからない。」


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より