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2017年11月

11月30日 いい鏡になれるかどうか

 小中学生よりも,一部の国会議員にとっての方が,「道徳教育」が必要である。

 じいさんばあさんへの「道徳教育」はだれが行ったらよいのか。

 もう,その担い手として考えられる人は,たった二人しかいない,という事態だけは避けたい。

 今は,「平和な国である日本」の象徴の立場だが,かつては異なる立場にあった。

 その頃と同じ状況を復活させたい人はいないはずだが,

 かつての立場と真逆であれば,期待をかけられる最後の希望となることは確かである。

 票を失うことをおそれずに,人を叱れる人がいなくなれば,だれを頼りにすればよいのか。

 最後の切り札を使うべきときを,「道徳教育」が必要な人間たちも考えているのかもしれない。

 「鏡」となりうる人に,もっともっと「鏡」としての発言をしてもらいたい。

 子どもたちの信頼を裏切り,信用をなくし,不信感を高める大人を懲らしめるのは,だれの役目なのか。


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11月29日 服と肉

 服は肉体を飾り,隠し,温め,守るものである。

 教育の世界では教師や親と子どもとの関係に近い。

 子どもたちはどのような服を着せられているだろうか。

 子どもたちはどのようにして守られ,隠されているだろうか。

 服を脱ぎ捨てることができる子どもは幸せなのか,不幸なのか。

 学校で信じられないことが起きていたことは,今日のニュースで知ったが,

 子どもが犠牲になっていることを知った日に美味しい肉を食べる気にはなれない。

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11月28日 太平洋に位置する国は,「太平洋記念日」に何を思うだろう

 フィリピンの人々にとって,戦時中の日本人はどう見えていたか。

 韓国の人々とは異なる様相があることを知った。

 韓国は,日本の植民地支配を受けた。韓国の人々が抱いている恨みの感情を,まだ日本では受け止めきれていない。

 フィリピンは,スペインに続いて,アメリカの植民地支配を受けた。

 アメリカ人によって,かつて江戸時代の日本で行われた「絵踏」のような「検査」が行われ,グアムに送られたフィリピン人がいることも知った。

 そういうフィリピン人の目には,「神風特攻隊」が「英雄」として映っている。

 日本人としては,その受け止め方がまた難しい。

 日本人は,母語を失わされるような侵略を免れてきた。

 日本人にとって,「外国語」,たとえば「英語」に対して抱く感情は,なぜか「憧れ」になってしまう。

 あくまで「憧れ」続けるような対象だから,どんなに勉強しても使えようにはならない。

 もし日本がアメリカの占領下に長くあって,不当な支配を強力に受けていたら,日本人でも英語を話すことが当たり前になっていたかもしれない。

 かつての中国語も,読み下し方を開発しながら,ゆったりと解釈することを中心にやってこれたのは,おそらく日本が平和だったからだろう。

 私の関心は,「太平洋記念日」と受け止め方が,国によってどう異なっているかである。

 ちなみに私が11月28日の記念日を知ったのは,今回が初めてであった。

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11月27日 更正能力向上策

 サイボウズの「いいチームの日」記念,「2018年上半期チームワーク占い」というのが面白かった。

 日本の「偉人」が12人,「星座」ごとに設定されているのもなかなかである。

 牡羊座は「大きな器のリーダー」の役割を担うとして「聖徳太子」タイプとされ,

「アイデア力・創造性」が爆発! 斬新な新コンセプトやキャッチコピーを発想するなど、チームをさらに扇動する役割を果たせるでしょう。

>その経緯で、仕事をバリバリこなす実力者や膨大な情報も集まってきますが、だからといって「来るもの拒まず」はちょっと危険。良い意味で、「スルー力」が命運を握ると言っても過言ではありません。

>「真実・誠実」をキーワードに、集まってくるモノや人を振るいにかけ、チームワークを高めるものだけを選ぶのが最大の使命だと心して。

 というアドバイスが紹介されている。

 「聖徳太子」なのに「スルーすべきものはスルーせよ」とは,結構難しい注文がついているような気もするが・・・。

 さて,11月27日は「更正保護記念日」。

 刑務所から出所する人たちに対して,「偉人」だったら,どのような声をかけるだろうか。

 荒れた中学校を経験した教師なら,子どもたちの「立ち直り」の場面を何度も目にしてきただろう。

 どんな言葉が,どんなタイプの子どもに響いていったか。

 「偉人」の中には,「成功」のまま人生を終えたわけではなく,

 子どもでも同情が可能になるエピソードをもっている人がいる。

 「聖徳太子」の子がどうなったのか,なぜ「聖徳太子」と呼ばれることになったのか,

 なぜ「聖徳太子」が必要だったのか,こういう問いに向き合っていると,

 子どもたちの「立ち直り」のきっかけになる働きかけが見えてくる。

 最近は,自分が犯した過ちを認めようとしないしぶとさに辟易とする教師も多いだろうが,

 同じ過ちを何度も繰り返す子どもが抱えている問題に正面から向き合っていると,

 「どうみても大人の方が悪い」という結論に達することもある。

 子どもの視野が狭くなりすぎると,「大人」は目の前の自分だけになってしまうし,

 教師の視野が狭くなりすぎると,「大人」は子どもの親や同僚の教師だけになってしまう。

 歴史をともに語れる子どもと教師であれば,そんな枠組みは消えてなくなる。

 歴史にはストーリーがあるから,

 あなたには,「坂本龍馬」をイメージした活躍が待っている,などといった語りかけが可能になる。

 まだ「社会科」が存在しなかった戦前は,この「歴史」が全く別の役割を果たすことになった。

 戦後に生まれた「社会科」の中における「歴史」とはどうあるべきか。

 主役は「偉人」ではなく,あくまで「自分たち」であるという自覚をいかに持たせられるか。

 私がワークシートをつくって歴史を指導している理由がそこにある。


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「大人になったら教師はいなくなる」は大間違い

 子どもに自己責任の感覚を身に付けさせることは大切である。

 「任されることが嬉しい」子どもがいることで,「さあ,取り組みなさい」という指示が成立する。

 しかし,「一人も見捨てたくない」からこうする,という理屈は,常に「すべてを見限る」ことと表裏一体であることを忘れてはならない。

 子どもが大人になったときに,「教師のような存在はいなくなる」,というのは,ポストがただあくのを待って延々と自分の存在証明だけをしてきた人間には当てはまるが,「過去の人から何かを学び取ろう」という姿勢を忘れない人間にとっては,何歳になっても,「教師」からは切り離されずにすむ。

 「教師」を捨てた人間はもちろん頼もしい存在かもしれないが,

 結局その人間が子どもたちも捨てていたことに気づいてからでは遅い。

 自分も含めて,今までだれもしてこなかった教育に意味づけをしたい人間にとっては,つけ込みやすい対象はいくらでもある。

 「今までいくら努力してもダメだったのだから,こっちの方がましですよ」

 というセールスに騙されてしまった人たちが,騙されていたことに気づいたときには,もうその会社は潰れているかもしれない。

 「今までの努力を諦める」ことを薦める人間たちに警戒感を抱かないのは,どういうタイプの教師たちなのだろう。

 「教師が教えてしまうからダメ」という主張を容易に受け入れられる土壌があるのはどこだろう。

 私は一時期,協同で実践事例を開発した経験があるからよくわかる。

 そもそも知識が乏しい人たちが共通してはまりやすい落とし穴がある。

 安易に「方法を変える」こと自体が,すべての誤りの始まりであることに気づいてからでは遅いのである。

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11月26日 いいチームとは

 「いいチームの日」をきっかけにして,サイボウズという会社のHPを訪問してみた。

>サイボウズは多様な働き方にチャレンジしています。
>そんな私たちのオフィスは「Big Hub for Teamwork」をコンセプトに、
>多様な働き方への柔軟な対応、コミュニケーションの活性化などを通じ「チームワーク向上」を目指しています。

 「チームワーク力」と聞くと,もう10年以上前に経産省の委員会で定義づけされた「社会人基礎力」を思い出す。

 基礎学力,専門知識を活かす力としての「社会人基礎力」は,次の3つの能力から成るとされる。

1 前に踏み出す力(アクション)

2 考え抜く力(シンキング)

3 チームで働く力(チームワーク)

 これらの能力には,それぞれ3~6個の「能力要素」があり,チームワーク力には,

 「発信力」(自分の意見をわかりやすく伝える力)
 
 「傾聴力」(相手の意見を丁寧に聴く力)

 「柔軟性」(意見の違いや立場の違いを理解する力)

 「情況把握力」(自分と周囲の人々や物事との関係性を理解する力)

 「規律性」(社会のルールや人との約束を守る力)

 「ストレスコントロール力」(ストレスの発生源に対応する力)

 の6つが「多様な人々とともに,目標に向けて協力する力」として示されている。

 これらの能力の育成に挑む大学があることも経産省のHPで知った。

 大学や中等教育,初等教育の現場で学生や児童生徒に向き合う人間に,「社会人基礎力」が必要ないわけはない。しかし,それを育成する気がないところがある。

 「いいチーム」の中で育てられた感覚のない教師は,何%くらいいるのだろう。


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準備体操なしで全力疾走させるような授業はアウト

 小手先の理論や先輩の実践,体験談などに頼っていては,現場で成果を出すことはできない。

 現場で相手に向き合っているのは理論や先輩ではなく,自分なのである。

 だからといって,理論や先輩の実践,体験談を知らないでよい,というわけではない。

 教育現場で起こる様々な現象について,その都度その都度,新しい自分なりの「気づき」が得られるのは,理論や実践記録,体験談を知っているからである。

 こういう話は,教師にとってあてはまるのと同じように,子どもたちにもあてはまる。

 ただ単純に上級生と同じような体験をさせただけでは,

 本当に大切な「気づき」は得られないまま終わることが多い。

 「アクティブ・ラーニングを行う」だけでは意味がないことは,実際にそういう目にあわされた人ならわかるだろう。

 そしてそういう人がこれから非常に増えてくるおそれがある。

 その裏側で,理論なり先輩からの話なりを聞いていた人だけに,成果がついてくる。

 現役引退を決めた巨人の「代走のスペシャリスト」,鈴木選手の記事を日経電子版で読んだ。

 「勝負は準備の中で決まる」

 この言葉を,これからALを実践しようとする現場の教師たちにも読んでほしい。

 「準備」するのは,教師だけではない。子どもにこそ「準備」が必要なのであり,その「準備」を大切にしてきた授業スタイルを捨てると,子どもに待っているのは何なのか,失敗して気づいてからでは遅いのである。

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11月25日 女子バレーと相撲界

 迫害される政治活動家は女性に限ったことではないが,国際社会全般では,やはり女性が社会の最前線に立つことは容易なことではなく,困難をものともせず堂々と主張を述べることができる女性に対しては,尊敬の念を持てる共通理解があるようだ。

 11月25日は「女性に対する暴力廃絶のための国際デー」である。

 「女性に対する暴力」という言葉を聞いて,学校の教師である私が最初に思い浮かぶのは,女子バレー部の顧問による体罰である。ほっぺたを引っぱたくくらいは,暴力ではない,という主張に私は同意しない。

 報道ではバスケットボール部の顧問による体罰が問題になっていたが,女子バレー部でそれが問題になってこなかったのは,そもそもボールを思いっきり人間に向かって打つというスポーツの特性も関係しているかもしれない。

 練習でスパイクしたボールが顔面に当たっても,プレーは続行しなければならない。

 もちろんだからといって,消極的なプレーをしたくらいで女子の頬を叩くような行為が,必要であるという理由にはならない。

 「今時そんなバレー部はない」とお叱りを受けるかもしれないが,本当にそうだろうか。

 相撲界の暴力問題が大きな話題になっているが,問題は先輩が後輩を,教師が生徒を,強い立場の者が弱い立場の者を殴るという構図が,当たり前のように起こりうる国であるという自覚をもつべきである。

 荒れた学校にいた経験がある人ならだれでもわかるだろうが,暴力を振るわされている人間がいることを忘れてはならない。

 最近はDVは夫が妻をという図式とは限らないようだが,絶対に暴力を振るってはいけない相手とは誰か,をしっかりと考える時間を持つべきだろう。

 もちろん,だれに対しても暴力を振るってはならないものである。ただその一歩手前のブレーキがきかない人に,何が必要なのかを真剣に考えてみてもよいだろう。


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11月24日 大学の進化

 お金をかけると簡単にできる「進化」があるが,今の世の中に求められているのは,

 お金をかけずにできる「進化」を探すことである。

 しかし,それができる人材を払拭するための努力がなされてきたから,

 実現可能性が低くなっている。

 国立大学法人が,お金儲けに熱心になっていることをご存じだろうか。

 国から今までのようにお金をもらうことができなくなっているため,

 自前で金儲けをしろ,ということである。

 学力がない学生でも定員を埋めるために平気で入学させる大学院のように,

 金さえ払えれば何でもあり,という世の中になってきて,

 これからの国立大学法人ができることは何だろうと考えてみると・・・。

 結局,国立大学法人の「進化」は「私立化」しかない。

 学費が安いから何とか国立大学法人なら通えた人が通えなくなるが,

 では,お金が払えない人にはどうするかというと,

 そういう人には税金をまわしたり,借金させたりする。

 国の言いなりにならない人間を国立大学で養うことをしなくなる社会に

 待っているものは何だろう。

 とてもわかりやすい未来像が描けるはずである。

 『~の起源』を知るための事例が,いくらでもある。

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11月23日 いい負債

 いい夫妻とか,いいファミリーとか,勤労感謝の日は家族ネタが設定される1日となった。

 夫妻と出そうとしたら負債が出てきたのでそのままのタイトルとしたが,

 私の父がかつて,「負債を嫌がったじいさんのおかげで大損をした」という話をよくしていたのを思い出す。

 借りたお金でお金を増やす,借りたお金も返済する,なんていうことが「許されない」と思っていたらしい。

 地方から奉公に出て,自分の店を出すようになって,結婚後は多くの子宝に恵まれ,

 1人は戦死してしまったが,生きて帰ってきたおじが家業を継いだ。

 じいさんがリヤカーで問屋から氷を数㎞も運び続けた日々の思い出をよく耳にしていた。

 今は亡き植木等さんが学生時代に下宿していたことがあり,私が小学生のころ,

 一度ばあさんに挨拶しに来てくれたことがあり,店先での当時の記念写真が残っている。

 ドリフターズやビートたけしの時代になっていたから,植木さんの映画を私はほとんどみていないが,

 植木さんは礼儀正しく,真面目な人という印象が残っている。

 負債をせずに地道に続けてきた家業だが,もしかつて不動産で成功していたら,

 今,どのような生活をしているか,と考えたときに,首をかしげざるを得ない。

 地道な商売を続けてくれたじいさんばあさんの子孫は,みなそれぞれ,それなりの生活を送っている。

 親戚が集まる機会は少なくなったが,みんな,真面目なじいさんばあさんの血を引いていると思える。

 お金を使わない「投資」が成功したのだと思われる。

 「投資」というものが何を生み出すかをイメージさせてくれる教育内容はあまり見当たらない。

 日本の教育は,まだだれかの何かを守ろうとして,大事なものを隠しているのかもしれない。


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11月22日 「いい夫婦」の話ができない公立学校

 一人親の子どもへの配慮から,公立学校の一部では「いい夫婦」の話がしにくい。

 正直なところ,「家族」を道徳で扱う場合も授業は難しい。

 あるとき,道徳に対して強烈な反発を示していたのは,保護者が教師をつとめている中学生だった。

 「あんな奴(親のこと)が道徳を教えているなんて,この世の終わりだ」とわが子に言われる教師。

 「みんな似たり寄ったりだ」という説得も空しく,荒れまくる。

 最近の公立学校では,保護者の職業を聞かないのが当たり前になっているのだろうか。

 先入観を持たないですむのも大事かもしれないが,

 知らないままだと何かのはずみで子どもを傷つけていることに気づかないおそれもある。

 道徳の時間に明るい未来を空想してみたところで,「時間の無駄」と思える子どもも多いようだ。

 道徳に時間を費やしながら,「もっと先に別のやるべきことがあるだろう」と思っているのは,おそらく大多数の教師だろう。

 もちろん,道徳の時間が必要になるときもある。

 じっくりと自分を見つめ直す時間が必要なときがある。

 そういうときに悉皆の学力調査などを行う義務を負ったりする。

 カリキュラムマネジメントの邪魔をしているのはだれなのか。

 マネジメントできるほどの自由があるのか?

 今の管理職は,義務を果たしつつ,事故が起きないことを祈るばかりである。

 こういう人たちに,リスクを背負わせているのはだれなのか?

 会議室の中で,前線の兵士をいたぶる人はどんな気持ちがしているのだろう?

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11月21日 テレビが勝つ 

 授業でパソコンの画面をプロジェクターでスクリーンに投影していた時期もあったが,

 52型以上のテレビがあれば,それで十分であることがわかり,今では教室で
 
 プロジェクターを使うことはほとんどなくなった。

 準備するものがパソコンだけですむので,テレビの勝利である。

 電子黒板など,さらに使いにくく,実用的なものではなくなっている。


 11月21日は,世界テレビ・デー。比較的新しくつくられた国際デーの一つである。

 世界の平和と安全,経済の発達,文化の交流など,テレビ番組が国境を超えて人々に与えている影響は大きい。

 日本のテレビ番組でも,外国の放送局がつくった番組の一部を放映しているものがある。

 「視点の違い」を楽しめるこうしたテレビ番組が,もっと増えることを期待している。

 海外に輸出されているアニメを筆頭とした日本の番組は,着実に増えているのではないか。

 テレビ番組のおかげだけではないと思うが,日本を訪れる外国人が年々増加しており,

 受け入れ体制の遅れが心配になっているようだ。

 その背景の一つになっているのが,日本の「外国語教育」だろう。

 「話せないから困る」というのが,一般的な日本人が共通して思っている不安である。

 まさかいまだに「外国人だから怖い」という「攘夷思想」を持っている人は少数だろうが,

 「急に英語で話しかけられても困る」という人は大卒でもかなりの割合いるだろう。

 実際に多くの外国人と接している人たちの声を聞くと,

 「案外,伝わるものだ」という楽観論もなくはない。

 私が設けてほしいテレビ番組の機能は,生放送では無理だろうが,

 録画なら「英語字幕」か「英語の翻訳音声」である。

 お笑い番組に英語版を重ねると,案外,英語を話そうとする人が

 増えるのではなかろうか。

 同時に,微妙なニュアンスを言葉で伝えるのは難しいものだから,

 ジェスチャーや表情が大事なのだ,

 という当たり前のことに気づく機会になればいい。

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11月20日 少子化が進む日本だが,日本には1600万人もの子どもがいる!

 地理の学習をしていると,「多い」とか「少ない」,「大きい」「小さい」などと統計データをもとに表現することがありますが,それが何を指しているのか,はっきりと示されていない場合が実際にはとても多いことに気づきます。

 たとえば日本は「大きい国か,小さい国か」と問われたら,どのように答えることが可能でしょう。

 ロシアやアメリカ合衆国よりは面積がかなり小さい国ですが,ヨーロッパ諸国と比べると,大きい国に入ります。

 日本は少子化が進んでいますが,子どもの数は本当に少ないのかというと・・・・

 統計局のHPで紹介されている記事(データの出典は平成27年国勢調査)によれば,

 アメリカ合衆国,フランス,イギリス,カナダ,イタリア,ドイツと日本を比べると,

 15歳未満の子どもの割合(%)は,順に,

 19.0,18.5,17.8,16.0,13.7,12.9,12.5ですから,

 これらの7か国中,日本は最低です。

 しかし,15歳未満の子どもの人数(単位:千人)を順に並べると,

 60,977  11,901  11,502  5,741  8,198  10,397  15,887

 となり,日本はアメリカに次いで2番目に多い国になります。

 人口がそこそこ多い日本という国は,

 将来的には急速な人口減少が見込まれているわけですが,

 まだまだ実際には,とても多くの子どもがいる国と言ってよいのです。

 約1600万人いる15歳未満の子どもたちが,ただ「少子化」という言葉だけで

 「日本は子どもの割合が少ない国だ」ではなく,

 「日本は子どもが少ない国だ」と解釈されてしまっているのではないでしょうか。

 このことが,教育への投資を鈍らせている原因ではないかと思ってしまいます。

 世界の半分以上の国が,人口1000万人以下です。

 カンボジアやキューバ,ベルギー,ギリシャ,ポルトガルなどは,

 1000万人以上の人口がいますが,

 総人口が日本の子どもの人口よりも少ないのです。

 子どもたちの将来を考えてあげるためにも,ぜひとも知っておいてほしい数字です。

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11月19日 世界のトイレ事情

 世界ではいまだに約(  )人に1人がトイレを使用できない。
 
 約(  )億人が屋外で排泄している。

 1人に(  )人以上の子どもが下痢性疾患で亡くなっている。

 アフリカの女の子の(  )人に1人は,トイレがないという理由から学校を休んだり退学したりしている。

 これらはユニセフの「世界トイレの日プロジェクト」というサイトに掲載されているデータです。

 (  )にあてはまる数字は,順に,3,9,800,10です。

 SDGsでは目標7として,

 「2030年までに,すべての人が安全な水とトイレを利用できる状況を実現し,その持続可能な管理を確立する」ことを掲げています。

 外で用を足す子どもたちの写真を見て,「どうしてこんな状況にあるのだろうか」と疑問に思ってくれるのは,何歳くらいからでしょうか。

 「汚い」と思うことは低年齢でも可能でしょうが,「どうにかしなければならない」と思えるようになるには,どんな教育をしていったらよいのでしょう。

 こういった観点から,小学校のカリキュラムに興味を持ち始めています。

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LINEのメッセージ「送信取消」機能は「いじめ」の証拠隠しを可能にするか

 小さな「村」の中のたわいもない諍いが,

 つながっている外の世界に容易に拡散され,

 面白がられる時代になっている。

 仲間であって仲間でない子,仲間でないのに仲間になる子,

 そのときそのときの雰囲気に同調したり反発したりする子,

 カメレオンのように立場を変える子どもたち。

 一瞬だけ,悪口や誹謗中傷を送信し,すぐに取り消して,

 気づかれるか気づかれずにすむかのスリルを楽しむ子どもたちの姿が

 目に浮かぶ。

 学校では一言も会話をかわさない生徒同士だと,教師としては

 「全くつながりがない」と勘違いしてしまう。その子どもたちが,

 一緒になって別の子どもを「効率的に」いじめている場合,

 気づくことが遅れ,対応も後手にまわりやすい。

 もともと悪用がいくらでも可能な道具に,

 善意のための機能が加えられることで,さらに悪用しやすくなる,

 世の中こんなことばかりの繰り返しである。

 いじめられる子どもはよりいじめられやすく,

 いじめる子はよりいじめやすくなる世の中にあって,

 教師の仕事は困難を極めている。

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歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの

 高校の日本史や世界史を「用語を覚える科目」としてきた高校や大学の教員たちが,教科書の用語を減らすための案を作成したという。2つの点でナンセンスである。

 1つは,結局用語を減らしたところで,「少なくなった用語を覚える科目」に変わることはなく,試験も「暗記問題」を出すことが前提になっている。なぜ義務教育の「ゆとり教育」という名の「ゆるみ教育」を繰り返そうとしているのか。

 もう1つは,そもそも教科書の内容をすべて教えなければ,受験のときに生徒が困るという強迫観念が捨て去れない限り,授業や試験の改善などあり得ない,ということである。

 歴史の人物名や事件名などは,それらを覚えたり,それらの事実を知るためだけにあるのではない。

 歴史学習は,さまざまな事象の関係,関連を考えるためにある。

 取り上げられる事柄が限定されることによって,さまざまな「気づき」のチャンスが失われていく。

 「多ければ多いほどよい」とは言わないが,実際に資料集を活用している高校なら,教科書ではなく資料集を実質上「主たる教材」として授業をする教員も出てくる可能性があるだろう。20年前と同じワークシートで授業をしている教員にとっては,関係のない話かもしれないが。

 そもそも「用語削減策」は,「受験生がテストでいい点をとるために不利な科目を敬遠することを避けるため」に出されたようなものだろう。

 客を増やすために当たりの確率を高める娯楽産業のような対応である。

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教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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成長をとめないために

 先日,大学の学生さんたちに私の授業を参観していただいた。

 私が免許講習講習などでお世話になった先生のご依頼を受けて,今年度2度目の参観だった。

 「よい授業とは何か」を考えるのがテーマだったそうで,そんな依頼をよく受けたなと呆れられるかもしれないが,文科省とくだらない本を出している出版社以外からのお願いには全力で応えたいと思っている。今年は経済産業省と厚生労働省の方とのつながりもできて,「違法天下り大量発生官庁」が存在しなくても,教育が成立することが証明できるように頑張りたい。

 授業50分,質疑応答40分だけのかかわりであったが,自分にとって,子どもにとって,学生さんたちにとっての課題を改めて考えることができるので,とても充実した時間になった。以下は,先生からいただいたお言葉への私の返信の内容である。都合により,一部改変してある。

******************

いつも過分なお褒めの言葉をいただきまして,恐縮至極に存じます。

○○大学のプロジェクトでも「○○の教員の卓越した指導力を生かした・・・」
などという研究がありましたが,自分たちのことを「卓越した」などと
思い上がるのもいい加減にしろと感じますし,
「よい授業」を自分の実践を通して語ろうとすることも,
教育者の態度としていかがなものかと思ったりもしています。

私が長年問題に思っていることは,授業をしていて,いつも自分の感覚で
「あっという間に50分が過ぎてしまう」ということです。
生徒とのやりとりに集中しているからそうなるのかもしれませんが,
生徒自身が自分の時間を授業内でしっかり使うことができていない証拠に
なっているのが現状です。
 
「よい授業」として必要な要素を自分なりに整理し,その優先順位を考えて,
その順位に沿った発問,作業時間の確保も含めた時間配分,まとめなどが
できているかを検証していく必要が私自身にもかなりあるかと思います。

40人それぞれが伸ばすべき能力にも違いがあり,1人に対する声かけや
突発的な対話に時間が割かれる傾向が強いのも私の授業の課題に
なっています。

学生の皆さんからの質問に対しては,その学生さん独自の関心や課題意識に
沿った形でお答えする努力をしたつもりですが,お一人お一人の特性や能力に
ついての理解もほとんどない状態ですから,質問から類推するしかなく,
見当違いの方向の答えになってしまったかもしれません。もしそういう方が
いらっしゃいましたら,再度返答の機会を頂戴できればありがたいです。
生徒理解が授業の基本になっていることと同じですね。
 
エネルギーミックスと同じで,「最適解」は必ず何かの犠牲を伴っています。
最も優れた発電方法があれば,100%それにすればいいだけの話です。
 
授業もそれと同じで,何かを重視すれば,必ず何かが犠牲になる。
犠牲を少なくすれば,何も重視していないように見えることもあるし,
重点を絞れば犠牲が大きくなっていく。
「見方・考え方」を働かせる授業に重点をおけば,おそらく学力下位の
子どもたちは犠牲者になります。そうさせないための方法がたとえば
今回お渡ししたワークシートなのですが,まだまだ開発途上です。
 
「時間」という尺度において教育の骨格をなしている授業については,
そういう悩ましい問題があり,「よい授業」にも,「正解」は存在しない。
それでも少しでも「よりよい授業」に取り組もうとする態度を教員が
もっていれば,必ずそういう態度は子どもたちによい影響を与えていく,
と信じて研鑽を積んでいく必要がある,とまとめようとしても・・・・
今の時代,こういう言葉も「逃げ」と受け止められる可能性もあり,
教員養成は難しい時代だとつくづく感じます。

「よい授業とは何か」という種類の問いに真剣に向き合い,
考え抜こうとすればするほど,どんどん「何が正解かがわからなくなっていく」
おそれがありますが,それでもあきらめずに問い続けていける力を授業では
育てたいと考えています。

今回,しっかり自分自身の課題に向き合う機会を与えて下さった
○○先生と学生の皆さんには心から感謝しています。

******************

 わいわい子どもたちが楽しそうに学んでいるように見える「授業」がいかに子どもたちの可能性をつぶしてしまっているかについては,中学校の教育実践がないとわからないかもしれません。

 「エビデンス」を求められて,だれでもできるようなテストの点数を挙げているような人間に,教育を語る資格はないのです。

 大学の先生もおっしゃっていましたが,今回の学生さんたちは,皆さん教育実習を終えた方々だったので,私が言いたいことがとてもよく伝わっていたようでした。 

 自著の営業マンに騙されないよう,注意しましょう。

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11月18日 十一+十八=

 「土木」という言葉を聞くと,私が行政にいたときのことを思い出す。
 
 もっている予算の大小で力関係が決まるから,教育が三流だと言われたり,

 中央では違法天下りが大量発生してしまったりする理由がよくわかった。 

 私の赴いた土地でも,災害復興の取り組みがあって,多額の予算が計上されていた。

 「土木」は,おおざっぱに言うと,建築以外の建設の仕事全般を指している。

 「土」+「木」というイメージから「道路」や「港湾」はイメージしにくいが,「ダム」だと何となくしっくりくる。

 最近,各省庁のHPが気になっている。

 資源エネルギー庁や国土交通省のHPの内容を授業で活用する機会が増えていきそうだ。

 よい情報の発信が国民に知らされないのはもったいない。

 省庁発信のニュースを統合して知らせてくれるサイトがほしい。

 スマホやタブレット端末を持っていれば,だれでも「記者」になれる時代になった。

 記者が取材しなくても,「事件現場」の迫力ある映像が入手できる。

 中高生が記者になって,国や地方,企業の仕事の内容やその問題を発信する,

 という学習を総合的な学習の時間を使って実践してみることにした。

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11月17日 「流れの速さ」を何で感じるか

 ある政党の人気の凋落ぶりが,話題になっている。

 時代の流れの速さを物語るよい事例になるだろう。

 敵がいなくなってしまった生物の末路はどんなものか。

 肺がん撲滅デーを迎える1日前に知ったニュースは,タバコが嫌いな大多数の人にとってはがっかりするような内容である。献金がものを言う政治を,何と名付けたらよいのだろう。

  

 世界は日本の長寿企業の歴史や人物たちに注目するようになっているらしいが,

 その背景には企業の寿命がどんどん短くなっていることがある。

 「新しい」という言葉がとても使いにくい時代になった。

 こういう時代でも,数十年先の未来の予測ができると信じている人がいる。

 寿命の短い理念を大切にしている人ほど,語る話は大袈裟だ。

 田舎の小中連携の背後にあるドロドロとした人間模様は,「お客さん」には絶対に見せないようにするものである。

 数十年前にも普通にあった光景に大学のセンセイが感動する時代になったようだ。

 管理職とした話を完全に伏せておいて,自分の手柄だけを披露するような姿を自分の子どもに見せられるのだろうか?

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11月16日 お店にとって都合のいい色

 ある飲食店に入ると,赤や暖色系の色が目に飛び込んでくる。

 食欲が刺激され,おいしく食べられるのが利点である。

 ただ,店側は,もっと奥深いことを考えているらしい。

 人間は闘牛ではないが,赤や暖色系は「落ち着きをなくす色」である。

 ゆっくりのんびり落ち着かせてしまうと,客の回転が鈍って,

 売上が下がってしまう。

 落ち着いた雰囲気の喫茶店では,「長居が許されるための料金」が飲み物に含まれていると考えればよいのだろう。

 一度,暖色系で溢れた部屋と,寒色系でまとめた部屋と,どちらで計算問題をした方が,ミスが少ないのか,

 実験してみたい。

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11月15日 離職率の七・五・三

 学歴別の就職3年以内の離職率が,中卒7割,高卒5割,大卒の3割であることを,七五三現象というらしい。

 実際には,1990~95年ころの数字がこれに最も近く,2010年は六四三の割合となっている。

 小中高の学習の理解度を指す場合もある。

 そもそもお目出度い日を暗い現象の例えに使うことが,

 少子化の進行に拍車をかけている,と主張する人はいないだろうか・・・。

 離職後,たとえば1年以内に転職等に成功して,復職した人の割合なども調べてほしい。

 離職した理由として,資質や能力の不足が原因のケースも調べてみてほしい。

 「石の上にも三年」というから,「3年以内の離職率」という示し方にも意義はあるのだろう。

 人が一定の能力を獲得するためには,それなりの苦労を経験することが大切である。

 そして,苦労は嘆く対象でもなければ,自慢する対象でもない。

 読書編でも紹介した『論語』子罕篇に,「なぜ多芸・多才なのか」という問いに対して,孔子が次のように答えたとされる話が載っている。

吾少也賤,故多能鄙事

 身分が低いので,つまらないことが必然的に得意になった,という話を,どのようにして子どもたちに捉えさせるか。

 もし道徳の学習でこの内容を取り上げるとすると,出すタイミングと出し方が難しい。

 「腑に落ちる」という実感を持たせる指導は,小手先の技術では身に付かない。

 だから道徳の授業テーマは,その日にならないと決まらない,というのが当然のことである。

 研究授業で恥をかいている場合ではない。

 毎日毎日,子どもたちとの生活に正面から向き合う中で,どんな道徳性を子どもがどんなタイミングで身にしみて味わうことができるかが見えてくる。

 最も「低い」位置から,どんなにささいなことでも,子どもたちの声や行動や書いたものをよく観察することから,道徳の指導の構想を練ることができる。


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大学生に教師のコンピテンシーを育成できるか?

 私がある学会で教師のコンピテンシーについて発表したとき,ある大学の先生から「どうやってこういう能力を育成できるのか」と質問された記憶がある。

 人の能力というのは,大学の先生などという立場では簡単に育成できるものではない,とは当時は言わなかったが,同じようなニュアンスが伝わったせいか,不機嫌そうな表情をしていた。

 コンピテンシーとは,そもそも,仕事で優秀な成績を継続的に残している人がもっている,普段の行動特性のことを指している。

 だから,全員が同じレベルに達することは不可能だが,目指すべきはっきりとした「できる人」のイメージがあるという特徴がある。

 「学生にあなたのコンピテンシーを評価してもらうところから始めてみてはどうか?」という答えも頭をよぎったが,

 「私には教員免許がない」「学校で教えた経験がない」と言われると,たしかに能力の確かめようもない。

 教師というのは,教育現場で自分の仕事をこなしていく中で,少しずつ目標を達成していき,「自分もできる」と実感が得られ,「あなたはできる」と他者評価を受け,「子どもが伸びている」という教育成果が得られた段階で,「身に付けることができた」と言えるものである。

 資質能力というものは,そもそも個人差が大きい。

 大学時代に,授業も大切にしながら,体育会でチームをまとめるのに苦労してきた経験がある人と,

 大学の教室とバイト先を行ったり来たりしていただけの人に同じ期待をかけてはいけない。

 バイト体験があるだけまだましかもしれない。

 本で読んだり講義で耳にした先生の話,他人の話しか知らない人には,想像上の成功イメージしか存在しない。

 バイトの場合は,労働の結果,お金という報酬をもらうためだけに従事するものも多いだろう。

 大学院にまで進んで,意味もよくわからない文章の翻訳を手伝わされ,日本語らしいものにしても,実践的指導力など一切身に付かない。自己保身のための理屈だけは立派なことが言えるようになるかもしれないが。

 大学の体育会では,お金にならないのに先輩にやれと言われたことは何でもして,言われなくてもやるべき努力は自分でして,最後には勝敗というシビアな「結果」が待っている。

 学校現場に入ると,仕事を自ら進んで取り組み,一定の出来映えが見込める若い人には,どんどん新たな仕事が入ってくる。仕事が多くなれば,自然と効率的な仕事の進め方を考えることになる。そして生活指導の案件など,難しいが教師らしい仕事が増えてきて,生徒理解も進む。

 改めて「では大学では何をしたらいいのか」と問われたら,「学生に考えさせろ」と答えたい。あなたにはそれがわからないのだから。

 一番先生っぽいオーラを持っているのは誰なのか。そのオーラとは,何なのか。

 一番受けてみたい授業ができるのは誰なのか。なぜ受けてみたいと思えるのか。

 一番悩みを相談したい,相談できそうな人は誰なのか。それはなぜなのか。実際に相談してみたらどう思ったのか。

 400人を整然と並ばせ,安全な場所に誘導する指示が出せるのは誰なのか。だれもいなければ,その指示とはどうやってすればいいのか。

 数え切れないほどの「確かめてみたいこと」が挙げられるはずである。 

 そして,多くの学生は気づく。

 「それは,教育現場に行かないとわからない。」


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11月14日 いいとしのとり方

 これからの日本は,「いい年」をした人たちにも頑張ってもらわなければならない。

 「いい年」のとり方とは,どういうものだろう。

 アンチエイジングと表現すると,「若さを保ちたい」「加齢は敵だ」というニュアンスが入ってくるような気もする。

 「グッドエイジング」という表現はどうかと思ったら,商標登録されてしまっているようだ。

 ここでは,幸福感のある生活を送りながら「いい年」をとっていくというイメージを,今の小中学生がもつことは可能か,という課題を考えてみたい。

 私と同年代の人は,まだ祖父母と同じ家で暮らしていた人がそれなりにいると思われるが,

 核家族化が進んでしまった世代では,身近で「いい年」のとり方をした人になかなか出会えない。

 祖父母にとってのいい生活とは,家でのんびりとしながら,子どもや孫の成長を楽しんだり,助けたりするものだと祖父母を見ていた私などは考えてしまう。

 また,学校の先生方にも,「偉い立場」にはなっていないが,「いい年」のとり方ができているなとうらやましくなる人たちがたくさんいた。

 実際に「いい年」の人が近くにいることが,まずは大事だと思う。

 しかし,もう少したつと,家庭だけでなく,学校現場にも,「いい年」の人がいなくなる。

 「高齢化」の実感をほとんど抱くチャンスのないまま,学校で「高齢化の恐怖」を教えられていく。

 「いい年」をした人たちの犯罪行為が途切れなくニュースで報道されているが,

 「いい年」という概念が飛んで消え去っていく日が近づいているような気にもなってくる。

 特別の教科・道徳の時間については,教科書を読んで議論するような時間をいくら確保しても,大切な力はほとんどつかないのだ,という実践的な研究は世の中には出にくいのかもしれないが,これからの社会を考えると,

 教科の再編も行いつつ,教科外の時間を統合しながら,社会とのつながりをより強く,密接にしていける柔軟性を認めることが,カリキュラム編成の大原則として必要だと思われる。

 教科や道徳,特別活動,総合的な学習の時間の「他との違い」「特殊性」ばかりに目を向けるのは,時代遅れではないか。

 既得権益を守るために,自己の存続を維持するために,一生懸命になってそれぞれの時間の重要性を述べてくれているが,子どもたちにとってもっと重要なのは,「社会体験」「自然体験」「主体的な行動の経験」の時間なのである。

 「いい年」をとっている人たちが受けてきた教育の意義を,もう一度ふり返ってみてほしい。


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11月13日 うるしとJapan

 漆のことを英語でJapanというのは,江戸時代に日本の漆器がヨーロッパに輸出されていたため,と言われている。Chinaと呼ばれるのは,陶磁器である。

 11月13日は,漆関係者の間で,親方が職人に酒や菓子などを配って労をねぎらう日とされているらしい。

 そんな日は,漆業界以外にも広まっていいのではないか。

 ただ,尊敬もされていない上司が菓子を配り始めるのは逆効果になるかもしれない。もらった方は,圧力しか感じないかもしれない。菓子を配っ初めて尊敬されるのも,哀しいものだろう。 

 私の学校では,勤務時間外では茶やお菓子を楽しみながら会議をしたり,

 地方に出張した人が必ずお菓子の土産を配ってくれたりしているが,

 こういうことを禁止してしまう学校もあると思われる。

 サンタクロースには,毎月やってきてほしい気もする。

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11月12日 日本では洋服,アメリカでは和服

 「欧米のモノ真似をする」ことを国家の方針としていた明治初期,「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告が出された。

 服装について,興味深いポリシーを持っていたのが岡倉天心である。

 日本国内では洋服を着用していたが,アメリカでは羽織袴だったという。

 来年は明治元年から満150年になり,「明治の精神に学ぶ」取り組みが学校現場でも行われるだろう。

 「能力本位の人材登用」「チャレンジ精神の涵養」に光があてられ,産業界では競争力強化がさらに求められると同時に,格差拡大が助長される結果にもなるだろう。

 「和魂洋才」をテーマとした「魂の教育」が,道徳などでもてはやされることが目に浮かぶ。

 「洋魂和才」だって立派な追究テーマになりうることを,子どもたちには伝えておきたい。

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11月11日 おそろいの日と黒髪指導

 11月11日も記念日の「特異日」である。

 漢字も含めて,文字の形状をもとに決まった日が圧倒的に多い。

 「十一」で「電池」,「磁石」,「鮭」,「1111」で「鏡日」,「もやし」,「煙突」,「チンアナゴ」,「箸」,「きりたんぽ」など。

 「始まり記念日」としては「チーズの日」「西陣の日」,「終わり記念日」としては「第一次世界大戦停戦記念日」=「平和記念日」がある。

 私が「いい日」として記憶にとどめておきたいのは,「おそろいの日」である。

 「同じもの(色違いも含む)を使う」ことによる「仲間意識」「連帯意識」「友情感覚」の向上について,日本は前向きである。

 「個性を重視する」といいながら,全員に制服を身にまとうことを強制する仕組みに問題があるものの,「制服を廃止すべき」という声が勝てない理由の一つだろう。

 「おそろい」という表現には,強制されているというニュアンスは含まれていない。

 また,40人という規模で「おそろい」である,という表現はしない。

 少人数か,一般的にはペアで「そろえる」ことが基本だろう。

 もし,生徒だけでなく,先生方も「おそろい」の服を着ていたら,どんな印象をもたれるだろう。

 せっかく好かれていた先生も,嫌われる対象になってしまうような気がする。

 嫌われている先生にとっては,逆にとてもありがたいことかもしれないが。

 教師は,生徒が「そろって黒髪である」「黒髪にそろえる」ことを願っているが,子どもたちの多くもそれを支持し,受け入れるようになっているのかもしれない。

 何かでそろえられることに抵抗感がない人間が増えることは,

 国として危険であることにも気づいてほしい。

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大切な人だから殴る

 昭和時代には,まだ通用した親や教師の「指導観」かもしれない。

 先生に叱られ,殴られたことを家で離せば,父親からそれを上回る勢いで叱られ,激しく殴られる。

 そういう時代がかつて存在したことは確かだろう。

 インターネットが普及する以前の話である。

 「父親の威厳」とは何か,ということを,人々はそれぞれの勝手な想像の中で形作っていた。

 「子どもを殴るのは,憎いからじゃない。愛しているからこそ殴れるのだ」という論理は,

 「私はあのとき,本気で殴られたからこそ,これじゃいけない,ということに気づき,更正できた」

 「先生に強く叱られたからこそ,今のような芯のある人間に成長できた」

 「私は親や教師に鍛えられた」

 という「殴られた側」「叱られた側」からの擁護の声によって,「真理」であるかのような印象ができていた。

 しかし,当然のことだが,愛情がないから殴れる,という人もたくさんいる(というかほとんどがそうだったのかもしれない)。

 ただ自分の怒りを相手にぶつけるためだけに強く叱る指導をしていた,という教師もたくさんいた(いる)はずである。

 平成に入って30年近くが経過しようとしている。

 私が教師として現場に立ったのは平成以後だが,この間には,不況をはじめとした数え切れない要因から,

 「殴られる」「叱られる」ことに全く耐えることができない子どもが増えてきたことを実感している。

 耐える必要はない,なぜなら,自分たちには人権が保障されているのだから,という当たり前のことが当たり前になってきたからなのかしれないが,
 
 そういう子どもたちはすでに社会人になっている。

 いじめだけでなく,アカハラ,パワハラも,昔からあったはずだが,かつては「耐えてくれる」のが常識だった。

 今は,耐える必要がないのだから,耐えない,という時代になっている。

 大切に思っていない人なら殴らない,叱らない,という論理も,

 大切な人だから殴る,という論理も,通用しない時代である。

 こういう時代には,自分自身の課題を自分自身でしっかり解決できる資質や能力が欠かせないのだが,

 そういう資質や能力はそう簡単には身に付かない,という立ち位置の人がいれば,

 大切だと思うから殴ったんだ,という言い訳がなくなることはないかもしれない。


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かえってくるブーメランが見えない人たち

 面白い本を読んでいる。

 翻訳の本なのだが,訳者のコラムがたくさん入っている。

 この訳者は,ブーメランを投げるのが好きな人である。

 もしかしたらこの訳者の場合には,自分がブーメランを投げている自覚を持っているかもしれない。

 ただ,かえってきたブーメランはたたき落とす習性をもっているようだ。

 自分が投げたものとは別のものになっていると判断している。

 主張を読んでいると,それは自分が批判していることと同じような内容であり,

 鏡に向かって文章を書いているようなのだが,

 その鏡に映った相手を熱心に攻撃している。

 自分の脳にダメージを与え続けている状況である。

 報復に対する情熱の強さが,自滅に向かうエンジンになっているようだ。

 若いのに気の毒なことである。

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11月10日 いいトイレを維持する力

 荒れた学校のすさまじいトイレを直接目にしたことがある人は,どのくらいいるだろう。

 ある学校では,トイレの修理費だけで大事な予算を使い切る,なんて事態に陥り,だれも「大」ができなくなった,という話まである。

 使って気分のよいトイレを維持するために,どのような教育をするべきだろうか。

 荒んだ家庭生活を送っている生徒の割合が多い学校では,「理想の家族との家庭生活」を模擬体験できる空間を作るために,生活環境に最大限の配慮をしていく。

 授業規律はもちろん,掃除指導にも力が入る。

 教職は,「家庭がダメで」などと嘆いてすませられる仕事ではない。

 「家庭生活を変えさせる」というくらいの指導の信念がほしい。

 ちょっと前が嘘のように落ち着いた中学校では,トイレの落書きが瞬時に報告され,写真を撮った後,一瞬のうちに消される。

 これから荒れ始める中学校では,落書きが広がって始めて「いついつにはこれだけの落書きだった」という寝ぼけた話が後から出てくる。

 生徒の下駄箱,トイレ,職員室の机の上。

 この3つを見れば,学校がよくわかる。

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普遍性,汎用性があると誤解する「研究者」たち

 「ある場面」で身に付けた能力が,別の場面でも生かされた,と気づくとき,「ある場面」で能力を身に付けておいてよかったと思う・・・こういう経験ができるのは,ごく狭い世界で生きている人たち・・・わかりやすく言えば,研究だけしていれば,実践をしなくても給料がもらえる人たちに限ったことかもしれません。

 小中学校のレベルだと,子どもたちは,授業で勉強したことが,そのまま試験に出されて「できた」と言える,そんな世界に過ぎません。ただ,研究者たちにとっては,それではつまらない。

 ある人の本や主張を読んで,とても強く感じることになりました。

 昔の研究者には,そういうタイプの人はいなかった。

 おそらく,「そんなことを言えば,みんなにバカにされる」ことがわかっていたからです。

 最近は,「バカにする」人が少なくなってしまったためか,

 あるいは「バカにする」人が大事な会議に呼ばれなくなってしまったためか,

 研究者というより事務方が「バカな主張」を平気で通せる世の中になってしまいました。

 その集大成が新しい学習指導要領です。

 研究させられている学校の授業を見て,一定数の人は悟ることができたはずです。

 「これでは間違いなく失敗するな」と。
 
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11月9日 救急車の思い出

 大学時代,野球の公式戦に出場し,1回裏の攻撃で,打席に立っていた私は,3ボール2ストライクからファールで何球か粘っていた。相手の投手はブルペンから制球が定まらない様子だったのだが,私は四球ねらいはせず,打つ気満々で,ボール気味の球もカットしながらチャンスを待っていた。

 「インコース高めからのカーブが来た」と私は判断しようとしたのだが,「インコ」くらいのタイミングで,速球がそのまま私の左のこめかみを直撃した。

 ヘルメットの縁にあたり,それが左目の上から側頭部にかけてめり込んだためか,大きく裂けて血が流れ出した。

 頭部からの出血の量はおそろしいもので,「バッターボックスは血の海になっていた」と後で言われた。

 しばらく脳しんとうでぐったり倒れていたので,「死んだか?」と思った選手もいたかもしれない。

 担架ではなく,後輩におんぶされて,球場の外に運ばれた私が初めて乗車した救急車は,

 「こんなに揺れたら重病人は死んでしまうのではないか」と思うような乗り心地だった。
 
 そのときから30年近くがたち,体重が20kg以上も増えた昨年,私は再び救急車で病院に運ばれた。

 今度は息子が一緒に乗ってくれたが,意識は救急隊員が駆けつけてくれたときには回復していたので,それほど家族にも心配をかけないですんだ。30年前より,揺れも少なく,機材も整っていたように思う。

 どちらのケースでも,冷静な救急隊員の対応のおかげで,こちらの不安もかなり和らいだ記憶がある。

 
 これから日本もある程度の覚悟をしておかなければならないのは,地下鉄サリン事件のようなテロ行為である。

 負傷者を消防隊員だけでは助けきれないケースが出てくるかもしれない。

 こういうときに役に立てる人材を育成できるのはやはり学校である。

 避難訓練だけではなく,負傷者を運んだり,傷の応急手当をしたり,AEDを操作したりするような訓練も必要だろう。

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11月8日 いい歯,いい肌,いい刃物

 「は」から始まる言葉なら何でもよい,ということなら,

 「いい話(噺)」=落語の日(実際には6月5日)とか,

 「いい履き物」=靴の日(3月15日)もありではないか。

 「箸」や「鋏」,「はちみつ」だと「8月4日」や「8月3日」になってしまうから難しい。

 語呂で記念日ができてしまうのは日本語の特色と言ってよいが,

 昔,道徳公開講座で「家族の記念日づくりの楽しさ」を紹介したことがあった。

 ただ,地域によっては「家族」の話題がタブーのところもあり,難しさも感じた次第である。


 たまたま,『なるほど統計学園』という総務省統計局のサイトでも「今日は何の日?」のコーナーがあることを知った。

 統計局だから,データが示されているのが面白い。

 昨日(11月7日)は「ソースの日」で,全国の市町村のソース消費量ランキングが掲載されていた。

 1位の広島市は納得がいくが,4位の京都市は意外だった。
 
 どこかに「関西人はソース好き」と書かれていて,なるほどランキングも関西が上位を独占していることに気づいた。

 今日はいい歯の日だから,全国で虫歯が最も少ない県を調べてみた。

 文科省がデータを出していて,12歳では新潟県が1位だった。
 
 給食後の歯磨きを,ほとんどの小学校で実施しているらしい。

 県民1人当たりの砂糖の消費量でも新潟県は7位と上位だから,

 歯磨きの効果が高いような気がする。

 刃物の生産県を調べてみると,案外,各地に産地があることがわかった。

 様々なデータとの相関を探ってみるのも面白い。


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小学校の授業を参考にする高校教師

 小学校の授業を参観したいと思う高校の教師がいたとしたら,極めて有望な人材だと思われる。

 大学の教育学部などには,元小学校教師だった先生がけっこうたくさんいる。

 とても立派な指導案や板書計画をつくれる人が多いので,こういう先生に習うと,「実践的」な力がつけられることが期待できる。

 大学の先生の専門性は非常に狭い世界に限ったものだから,一人に多くのことを期待してはならないのだが,教師になろうとする人が最も頼りにできるのは,現場で長く勤め上げた人であろうことは,想像のとおりで間違ってはいない。ただ,大学の先生になれるような小学校の教師は,百校とかに1人いるかいないかくらいの割合だろう。そういう先生のようになれと言われても,そう簡単にはいかないのも当然である。

 経験の浅い高校の教師が授業を参観して最も参考になりやすいのは,小学校であろう。

 題材が簡単だから,すぐに自分なりの別のアプローチが思い浮かぶし,子どもたちは素直だからわかりやすい演技をしてくれる。

 中高との激しすぎるほどの落差を痛感すると,かえって教育困難校の教師にとっては,ハードルが下がった分,どこでつまずいた子どもがどういう辛い目に遭っているのかという共感を持とうとするきっかけにもなる。

 中学生にしろ高校生にしろ,場合によっては大学生にしろ,まるで小学生のように無邪気に課題に取り組んでくれるような教材をいくつか持っていると,今までつまらない授業をしてくれていたセンセイたちに感謝したくなる人が出てくるかもしれない。

 小学生たちが夢中になる授業で心を洗われた後,現実に戻るのはキツイかもしれないが,本当に意味のある「学び」とは何かを考えるための出発点に立つこともできるかもしれない。

 常に初心に帰れる場所を持っておくことは大事である。

 よりよい「原点」は,教師になって何年かしてから見つけ出すことになる人もいるだろう。

 私はまだ「原点」を探しているところであるが,見つけるのは退職してからになるかもしれない。

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11月7日 山の日

 今年,たまたま中部,近畿,四国と3か所の山村を訪れる機会があった。

 なぜか台風の後に訪れる機会が多く,木の葉や枝が道路に散らばっており,運転していて眠くならなかった。

 日本は自然に恵まれている国だといわれるが,雨量も多いことから,木々の豊かさも大いに誇れる。

 ある自治体では,間伐材を圧縮して木質ペレットにして,固形燃料として使用できるようにしている。木質ペレットは猫のトイレ用にも使われていることを知った。かさばる割に,ストーブに使うとすぐに燃えてなくなってしまうが,エネルギーの地産地消というのも優れた取り組みである。

 森林面積の割合が日本で一番高い県は高知県で,84%という驚くべき数字である。

 最も割合が低い大阪府でも,どのくらいの割合があるか,調べてみていただきたい。

 さて,8月11日が昨年から「山の日」という国民の祝日とされたが,

 和歌山県では11月7日が,四国では11月11日が「山の日」とされていた。

 高知県のHPから,引用させていただくと・・・

**************

11月11日は「こうち山の日」です。 【こうち山の日宣言】

高知県は全国一の森林率を誇る森林県です。

この豊かな森林の恵みに感謝し、森林や山を守ることの重要性に対する理解と関心を深め、県民一人ひとりが森林を守る活動に参加し、また自ら行動することによって、山を守り育て、次代へと引き継ぐため、ここに「こうち山の日」を宣言し、次のことを誓います。

一、県土をまもり、水をたくわえ、空気をきれいしに、動物や植物の生きる場所を与えるなど、安全で、豊かな、そして潤いのある暮らしを育む森林と森林の恵みに私たちは感謝します。

一、森林を守ることの大切さを私たちは理解するとともに、今まで、森林を守り育ててきた先人の努力に私たちは敬意を表します。

一、豊かな森林をつくり、次の世代に引き継いでいくため、私たちは自分にできることは何かを考え、できることからすぐに実行します。


平成15年11月11日 こうち山の日実行委員会

**************

 高知でも山間部は気温も低くなり,雪が1mも積もるところがあるという。

 朝鮮半島との位置関係を見て,なるほどと思った。

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優秀な大学生と使えない大学院生

 教育の世界に限らず,大学院が「入社試験・採用試験の負け組の避難所」になっている日本では,大学院生の評判が決してよくはない。

 私のところにやって来た学生がそうだったからといって,全国どこにでも当てはまることはもちろんないだろうが,大学院への入試が大学入試よりもはるかに難しいのであれば,私も真剣に別の原因を考えてみたいものである。
 
 本を読みすぎれば,頭でっかちになり,融通がきかなくなる。

 大学院に入ったことで,ますます合格から遠のくのではないかと危惧する人もいた。

 「とりあえず企業に入って社会の荒波にもまれてから・・・」なんていうと企業の方には叱られてしまうかもしれないが,「社会」の縮図とはとても言いがたい特殊な「学校」ですら,勤務し始めてすぐに不適応をおこし,病休に入ったり辞めていったりする教員志望の若者を減らせないものだろうか。

 ある大学院の授業がネットで公開されているが,こんな授業を受けても何の役にも立たないだろうと気の毒になる。教授が意見を求めても乏しいリアクションしかないのは,問いが悪いだけである。問いが劣悪なだけでなく,答える側にとって都合が悪い条件を押しつけていたりもする。なぜこういう授業を公開するのか,理解に苦しむが,大学院の実態を教えてくれるという点では非常に貴重である。

 使えない大学院生をつくっているのかが誰かを証明してくれる動画である。

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11月6日 お見合い結婚

 終戦から2年がたった1947年の11月6日,ある場所で集団お見合いが実施された。

 雑誌が主催したこのお見合いに参加したのは,男女合わせて386人だったという。

 お見合いが実施された様子が映像で残っていて,歴史の授業で映像を紹介するときは,

 「この人たちはここに何しに集まったか?」とたずね,映像を使わないときは,

 「お見合いが実施された場所はどこか?」とたずねている。

 70年を経た今は,

 AI が結婚相手を見つけるサービスにも活用されている。

 過疎の町の小中学生に結婚相手を同級生から選ばせることで,人口減少を食い止め,貧困化を防ごうなんて考えている人がいるようだが,中世や近世の時代に時計を逆戻りさせることは不可能だろう。

 中国のように親が必死に子どもの結婚相手を探すような光景も見たくない。

 「成り行きに任せる」ではどうにもならずチャンスを逃す人がいるかもしれないが,

 昔,やたらとお見合いを薦めてくる(他校の)校長先生がいたのにはまいった。

 今の時代,指導力のない女性教員をすぐに結婚させて,産休で休ませているうちに自分が異動する,なんていう「学校経営」をしている校長もいるのだろうが・・・。

 今後は,「お見合い」にも国が本腰を入れるような課題になるのだろうか?

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最低限の教育の場の確保を!

 ある東京の小学校が,学級崩壊をきっかけに騒然としている。

 「保護者はだれでも教室に入ってよい」という段階から,さらに

 近隣の小学校から教員を派遣してもらって,正常化に向けた努力がなされているらしい。

 小学校は女性教員の割合が高く,産休代替の担任の先生に習う確率が高い。

 嘘みたいな本当の話で,小学校の6年間で半分以上,産休代替の担任の先生に習った子どももいる。

 東京都では,低倍率のもとの小学校教員の大量採用の衝撃が,現場を直撃しているうえに,産休代替にあてられる人も足りなくなっている。

 若い女性の担任がいなくなったと思ったら,60歳に近いおじさんがやって来たら,それだけで泣いてしまう小学生もいるだろう(決して悪い経験ではないと思うが)。

 保護者にとって,学力向上などは二の次でよい。学力向上は塾が頼りである。

 子どものクラスの生活が成立しているかどうか(この意味は,子どもが教室の中にいるだけで成立する)が心配で仕方がない。

 小学校では,病気休暇をとって学校を離れる若い教師が増えてきているようだ。

 ある校長先生から聞いた話だと,どうやら職員室が地獄になっている学校が多いらしい。

 だれが若い教師をいじめるかはご想像にお任せする。私の予想は当たっていた。

 教室に入っても地獄,職員室に戻っても地獄,家しかまともな場所がない人は,どうやって生きていったらよいのか。

 免許だけとったが採用試験に合格していない人をこき使うのもいいが,そろそろ行政が本腰を入れて対処すべき時期に来ているのではないか。

 管理職試験を受ける人がいないという問題より,まずは子どものために最低限の教育の場を確保してほしい。
 
 
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11月5日 『稲むらの火』と津波防災

 東日本大震災を受けて2011年6月に制定された「津波対策の推進に関する法律」だが,「津波防災の日」は安政南海地震が起こった11月5日(1854年12月24日)の方とされた。

 小学校の教科書にも採用されている小泉八雲の『稲むらの火』は,津波の襲来を必死に知らせた濱口梧陵の知恵と行動を教訓として残してくれる話である。

 濱口梧陵は,災害の後に,破損した橋を修理したり,堤防をつくったりして,地域の復興と防災に力を尽くしてくれた「民間人」である。私財を投じる姿勢を,現代では企業に学んでほしい。

 環境保全や地域貢献を進める企業にのみ,積極的に投資を進める(逆に,自社の利益だけを求める企業の株は売る)会社も登場しているようだ。

 法人税が下げられているのなら,企業はどんどん教育や地域社会の発展のために力を尽くしてほしい。

 グローバルな活動ばかりに目が向けられる風潮を断ち切って,ローカルな世界で企業は何をしてくれているのか,国民の目を研ぎ澄ますことができるのも,やはり教育である。

 濱口梧陵は,医学への支援も行っていたそうで,そのおかげで銚子でのコレラ防疫の業績を残した人もいるらしい。

 和歌山県広川町には,世界に誇れる地域の財産があり,うらやましい。

 ロヒンギャ難民に,コレラの脅威が時限爆弾のように迫っているという報道もあった。

 社会貢献活動には,地震・津波対策と同じような機動性も求められる。

 医療機関などの積極的な支援活動を期待したい。

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11月4日 中韓との歴史戦争の敗北と勝利 

 11月4日はユネスコ憲章記念日である。

 トランプ大統領はTPPやパリ協定に続き,ユネスコからの脱退も宣言している。議会ではどのような結論が下されるだろうか。

 アメリカは,パレスチナのユネスコ加盟後,分担金の支払いを停止しており,脱退は時間の問題だったとも言われる。

 日本とユネスコとの関係と言えば,2015年に中国によって「南京大虐殺」が「世界の記憶」に登録されてしまった。「30万人大虐殺」という主張を証明する資料がないにもかかわらずである。ユネスコ事務局長のイリナ・ボコバ氏は,ブルガリア出身の共産党員で,名うての親中派だということだ(週刊ダイヤモンド,櫻井よしこ氏のコラムより)。
 
 「歴史戦」という言葉はあまり一般化していないだろうが,とてもわかりやすい日本の敗北の一例である。

 櫻井よしこ氏のコラムでは,日本の「勝利」も取り上げられている。

 それは,慰安婦資料登録の阻止,ユネスコ制度改革の実現,次期ユネスコ事務局長の座を中国に与えずフランスに勝たせたこと。「日本外交の三連勝」と持ち上げている。

 2014年のユネスコ加盟国の分担金の分担率は,アメリカ22%,日本11%,ドイツ7%,フランス6%,イギリスと中国が5%となっている。金だけでなく,意見も出せる国になったということか。

 昨日のニュースでは,北朝鮮の核問題をきっかけとした日本の軍事大国化を韓国が心配していることが流されている。

 共通の敵がいるから仲間になるという発想ではなく,アジア全体の発展という考え方に転換できるきっかけを提供してくれるのは,案外アメリカだったりするような気もしてくる。

 日本の将来の悪夢は,かつてドイツとの同盟に活路を求めた失敗が,アメリカとの同盟で繰り返されることではないだろうか。

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11月3日 明治天皇と手塚治虫の共通点

 戦前は,11月3日は「天長節」「明治節」であった。戦後は「自由と平和を愛し,文化をすすめる」ことを趣旨とした国民の祝日となった。部活動の大会で丸一日つぶれてしまったが,プレーにもオフィシャルの仕事にも熱心に臨んだ生徒の姿を見られて,気持ち的には充実感が残っている。

 祝日とされる日は,「消費の拡大」を目指すために様々な業界が販売促進策をとっていくためか,

 みかんの日,サンドウィッチの日,ちゃんぽん麺の日,調味料の日,レコードの日,文具の日,ハンカチーフの日,アロマの日,いいレザーの日など,11月=「いい・つき」の語呂を使った記念日が多い。

 漫画は現在の世界で日本を代表する文化になっているが,11月3日に生まれた手塚治虫の功績の大きさは計り知れないものがある。手塚治虫の命日にあたる2月9日も「漫画の日」になっている。

 手塚治虫の漫画も,当初は社会風刺の手段として使われていたことがあった。

 漫画ではないが,1954年11月3日に映画の第1作が公開されたゴジラも同じだった。

 社会風刺と言えば,7月17日の「漫画の日」は,イギリスの風刺週刊誌『パンチ』の発刊を記念して設けられている。ヨーロッパから見た日本の近代化の様子も描かれており,歴史の授業ではいつも使っている。

 娯楽的な意味での消費の拡大が,初期の存在意義を消してしまう例はたくさんあるだろう。

 文化は時代を通して消えては生まれ,生まれては消える,生き物のようなものである。

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11月2日 K・Bの日

 文化の日の前日,11月2日は,家庭文化のあり方を考える日とされているらしい。

 キッチンとバスの頭文字のKとBが11番目と2番に当たるからだそうだ。

 そうすると,11月7日は銃規制を考える日に,11月23日は平和を考える日にできるだろうか。

 英単語を覚えるのに,1日はAから始まる単語,24日はXから始まる単語を,という勉強法もよいかもしれない。

 さて,家庭文化の日というのはなかなか一般化していない気がするが,もしこれが普及すると,男性の家事労働時間が増える方向に行く気もする。私が担任しているクラスの中には,お弁当を父親がつくってくれている子どもが複数いる。

 「男は台所に立つな」という言葉は,いつだれが使い始めたものであるか,どこかで読んだ気もする。

 中世の絵巻物では,台所で男性が包丁を握っている場面を見つけることができる。

 時代や世間の風潮に惑わされず,「我が家の方針」を決めてしまえる関係性をもつ家族でありたい。

 風呂掃除は私と娘,食器洗いは私と家内で分担しているが,食事作りの負担が家内に集中していることが,我が家では課題である。

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高校「地理総合」「歴史総合」制度設計の瑕疵

 小中連携ほど難しいものはない一方で,

 中高連携は中等教育学校が従来からあるくらいだし,免許も同じなので,大した問題があるとは思っていなかった。

 が,目鼻がついてきた高校の「地理総合」や「歴史総合」の構想に致命的な欠陥があることがわかった。

 このままいけば,「瑕疵」と呼べるものになるだろう。

 それは,「地理総合」を単純に中学校の「地理的分野」との接続,

 「歴史総合」を「歴史的分野」との接続として捉える制度設計になっていることに気づいたからである。

 ここまで読んで,「当たり前だろう」「そのどこが問題なのか」と思ってしなう人には,中高連携を語る資格はない。

 地理は地理,歴史は歴史,政治経済は政治経済,と考えるのは大学のセンセイの発想である。

 「専門を外れた世界には口を出さない(出せない)」という常識があるからだろう。

 だから,地理も歴史も,教科書が「いろんな専門家が分担して書く文章」の寄せ集めにすぎないもの=「面白くない本」の代名詞になってしまうのである。

 小中学校には「社会科」がまだ生き残っている。

 その存在意義を否定するような学会(学会名を見ればわかる)もあるが,

 学会名には「社会科」が入っていても,分科会が完全に専門別になってしまっており,学会名が示すような機能を果たせなくなっているところもある。

 中学校の「社会科」にも,小学校の「社会科」にも,地理・歴史・公民(政治・経済,国際関係)という「串」がさされ,大事な中身が引き裂かれてしまうようだ。

 鰻の蒲焼きが焼き鳥のように串ごとにバラされてしまったようなイメージである。

 本当なら,中学校社会科を学び修めた子どもが高校生になり,「地歴科」で「地理総合」と「歴史総合」を学ぶのであるから,「地理総合」や「歴史総合」は中学校社会科全体と連携していないとダメなのである。

 「多面的・多角的に考える」という目標があるのに,面が減らされているので見る角度も限定される,というお粗末な結果になろうとしている。

 中学校の社会科は,地理的分野と歴史的分野を並行して学び,やや歴史が出っ張るが,最後には公民的分野を学んで高校に進学していくのである。中学校では公民的分野で一応の「仕上げ」をかけているのだ。

 だから,地理総合を単に地理的分野の延長線上としてとらえさせるようでは,「多面的に学ぶな」と宣言しているようなものである。

 歴史も同様である。

 「歴史総合」は,従来の「日本史」「世界史」という枠組みではなく,「日本と世界の歴史」として現代につながる過去を探っていくものであり,実質60時間弱の枠におさめないといけないのだが,思いの他「中学校の歴史の詳細版」に近いものになっており,生徒によっては「繰り返し感」が半端ないものになるだろう。

 「アジアの近代化がどう進んだか」というテーマを設定したとき,高校なら「日本の特殊性とアジアの他国との共通性」に目を向け,なぜそうなったのかを考えさせる単元構成が思いつく。

 もちろん,ロシアやヨーロッパ諸国,アメリカとの関係をふまえて考えないと,近代化の意味はわからなくなってしまう。

 ポイントを絞りすぎると,内容は中学校の歴史と同じ程度のものばかりになってしまうのである。

 さらに言えば,地理がわからなければ,「アジアの近代化」とその後の世界の動きとの関係,現代とのつながりの意味も見えてこない。

 地歴科という科目があるのだから,「地歴総合」でよいのである。

 本当に「総合的に考えられる題材」に絞っていく。

 ランドパワーやシーパワーという地政学上の概念も知っておく必要がある。

 現状では,「総合」という名がついていながら,全然「総合」っぽくない。

 「総合的な学習の時間」のいい加減さが,「地理総合」「歴史総合」への印象をさらに悪くしているとも言える。

 ともかくも,まずは「分解」したものを「総合化」して社会を見ることができるように,設計をし直すのが先だろう。

 よくよく考えてみれば,そもそも「地歴科」「公民科」が分かれてしまっていること自体がグローバル化に対応できない理由の一つではないだろうか。

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11月1日 教育の日にワンワンワン

 教育の日と犬の日が同一であることは何かの皮肉だろうか。

 大人に尻尾を振りたい子どもを増やすための教育に熱心な方がいらっしゃるが,「忖度をしてくれない人」が増える恐怖に打ち勝つために,余計なことをするのはやめてほしい。

 11月1日も,~の日のオンパレードである。

 紅茶,すし,本格焼酎,泡盛,野沢菜から,

 自衛隊,灯台,生命保険,古典,川の恵みの日まで,多種多様な記念日となっている。

 日本人が「式典」好きなのは,貴族の政治の影響を受けているせいだろうか。

 自衛隊などは,本来7月1日とすべき日(自衛隊法などが施行された)を,わざわざ「式典が中止になりにくい日」として11月1日としたようである。

 私が最も注目したいのは,今日が「点字の日」となった理由である。

 教員には,どのような資質・能力が求められるかがわかる。

 教員を育てるために必要な資質・能力の方も,できれば明らかにしていただきたい。


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子には親の悪いところが受け継がれる

 教訓とすべき言葉と個人への批判的な言葉の区別がつかない人が多いので,注意する必要があるが,武田鉄矢がテレビのワイドショー番組で語ったとされる「才能は遺伝しない」という二世タレントたちへの批判は,かねてより教師が保護者たちに訴えかけてきた(訴えたかった)ことでもある。

 教師として二十年も子どもや親と接してくると,子どもが抱えている「問題」の多くが親も同じように抱えていることに気づかされる(ここではもちろん「学力」のことをさしているわけではない)。

 そのせいかどうか知らないが,「二世」「三世」として活躍(しようと)している人たちを見ると,痛々しく感じることが多い。「こんな弱みを親も抱えていたのだ」と痛感させられてしまうことが多いせいでもある。

 もちろん,覚醒剤に手を出した子どもの親も,同じようなことをしているはずだ,なんて考える人はいないだろうが,一般人の親の子どもがそういう世界に近づいてしまうリスクはかなり低いものだろう。

 子育てに困った親が学校に来て,「子どもに言い聞かせてほしい」という言葉はそっくりそのまま,本人にお返ししたい,と言いたいことがたくさんある(が,もちろんほとんどのケースではそれは言えない)。

 ある程度,「親」としての成長が進むと,15年目くらい・・・つまり子どもが中3になったくらいで,「自分の子どもが自分によく似ている」ことに気づいたりもする。

 人間は成長過程で多くの苦しみを感じる生き物である。その苦しみを感じたことが,成長の糧になっている,ということくらい,成長した人間ならわかるはずなのだが,「二世」はその「苦しみ」の過程を通過しないですむ仕組みになっているとしたら,気の毒なことである。

 苦しみから遠ざかることは,教育の世界では「成長の終わり」を意味する。

 苦しみに直面させることこそが教育という世界の存在意義である。

 成長する人間を絶やさないために,こういう世界が必要なのである。

 実際には,その逆方向に流されようとしているのが教育の世界だが,これも「二世」「三世」のせいだ,というわかりやすい社会の仕組みがある。

 歌舞伎や能などの世界では,親がしてきた稽古をせずに,その世界を生きていくことはできない。

 プロスポーツの世界も同様だろう。

 可哀想なことに,親の七光りが通用してしまう世界がある。

 その世界が日本を「成長の終わり」に導かないようにするために,国民ができることを教えるのが教育である。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より