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リーダーシップの意味がわからない人たちに翻弄されるだけの校長たち

 自らリーダーになろうとする人が真のリーダーになれるわけではない,

 などと言われると,管理職試験を受けないと管理職にはなれない教員たちの中からは,

 いつまでたってもリーダーは現れない。

 学校のリーダーなどと言われても,予算をもらえるわけでも自分がいいと思う人材を選べるわけでもないから,そもそもリーダーシップなど必要ない,と考えることもできる。

 教育委員会の立場から学校を観察していると,各学校にはゴリラ型のリーダーやチンパンジー型のリーダーがいることがよくわかった。

 制度上,日本にはチンパンジー型の管理職しかいないことになる。

 ゴリラ研究の世界的権威である山極寿一先生によれば,ゴリラ社会のリーダーには,他者を惹きつける魅力と,他者を許容する魅力が必要で,自分からなる,というよりも,仲間から引き上げられてなるものだそうだ。

 だから,「立候補」ではなく「推薦」という形で選ばれるのがゴリラ型リーダーということになる。

 もちろん,「立候補」するからには,よきリーダーになろうとする主体性や積極性,意欲をもっており,しかも目指すリーダー像がゴリラ型であるという場合もあるだろう。

 ただ,「それまでどのような行動をとってきたか」「どのような実績を積み重ねてきたか」の方が,その場限りかもしれない,あるいは,なってしまった時点で失われる「やる気」よりも重要であることは,だれでもわかることだろう。

 リーダーは,人の評価が適切にできる人でないといけない。

 だれにどのような適性があり,どのような能力が優れていて,どういうタイプのメンバーと一緒にいると力が発揮できるのか。

 たとえば,学年という「運命共同体」を編成するときなどは,「人」がわかっていなければ,足し算の何倍にもなるはずのパワーがマイナスに転じてしまうかもしれないのだ。

 話しやすい人とばかり話すような人,人の好き嫌いが激しい人は,リーダーには不向きである。

 対話を通じて多様性を受け入れ,どんな事態にも適切に対応できる能力は,どこで育まれるのだろう。教員になってからの話で言えば,学年経営を経験するのがとてもよい機会だろう。

 事務仕事しかない役所の人間には,教務主任とか生活指導主任といった「分掌」の長が偉い人(=主幹教諭)で,学年主任は「係長」程度にしか感じられていないのだろうと思われる。

 組織を考える場合に,そこが最大のボタンのかけ違いなのだろう。

 わずか十数名しか教員がいない小規模校でも,数十名近く教員がいる学校でも,同じような組織で運営させていることに,だれも疑問を感じないとしたら,企業ならとっくの昔に潰れて終わっているはずである。

 校長に自分たちが想像もできない「リーダーシップ」を押しつけ,責任を押しつけているだけでヒト・モノ・カネを与えず,ろくでもない情報=命令だけを垂れ流している。

 教員仲間の声は聞くが,生徒の声は一切きかないという,企業でたとえれば,

 上司の声や「お友達」の声は聞くが,顧客の声は聞かないというタイプの社会人失格者がときどき教育現場にやってくる。

 こういう人を採用する教育委員会という組織が癌なんだと反発したい管理職も非常に多いのだが,ゴリラ型リーダーが存在しない役所に,人を見る目を期待することは無駄な話である。

 そもそもこうした致命的な環境化の学校におけるリーダーシップが育ちにくくなっている最大かつ改善困難な原因は,「小規模化」である。

 公立小中学校の「小規模化」が,リーダーの成長を阻害する最大かつ最悪の条件になっている。

 リーダーシップを身につける機会がなかった教員たちが,管理職になろうとしないのは自然のことである。

 「組織」や「リーダーシップ」を育てる能力は,学校や学年の行事運営でも培うことができる。

 しかし,特別活動の時間は週1時間しかないし,授業カットがしにくくなっているし,そもそも行事自体がカットされているから,子どもからも教師からもリーダーの資質を高める機会が奪われているのも痛い。

 自らリーダーシップの育成を放棄している学校に期待されるのは,常に上司の言いなりになって不満をもらさず働き続ける人間たちの大量生産である。

 それがわかっていながら校長職についている人たちで,元気そうな人がいないのは,気の毒だが当然のことだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より