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主体的でも対話的でもなく,深い学びができない「学会」

 「新学習指導要領に,こう書かれているので・・・」

 こういう話し方が「恥さらし」であることに気づけない人は悲しいのだが,今,大学のセンセイですら,こんなことを言う人がいることを,昨日と今日,参加した学会で知ることになった。

 なぜ新しい学習指導要領でそれがふれられたのか。

 「そんなこと,書かれる前からやってますよ」というのが小中学校のあるべき姿である。

 なぜなら,そうでないと,「適正な観点別学習状況の評価ができる指導がなされていなかった」証拠になってしまうからである。

 小中学校では,指導はしないくせに,評価だけは一生懸命にやろうとする人が増えているのだが,本末転倒とはこのことである。

 新しい学習指導要領は,「どうしようもない高校の教育をどうにかすること」に主眼が置かれている。

 「高校の教育をどうにかするためには,大学受験をどうにかしないといけない」ということはわかっていたから,

 「どうにかする」努力は始めたが,記述式にしたら採点に時間がかかるだけでなく,結果のすべてについて開示請求が出て比較されて,採点基準に疑義が出されたらすべてが台無しになることがわかっているので,実質的にはほとんど変化のない,信頼性を重視した従来型の試験になるだけで終わることは,だれにでもわかっていることである。

 無理矢理「ものの見方・考え方」をどの教科にもあてはめ,いかにも小中高と教育がつながっているかのように見せる仕組みに最も悩まされるのは,高校普通科かもしれない。小中の基礎ができていない高校では,見方・考え方のいろはからやり直さなければならなくなる。

 小学校から見れば,中学校や高校は別世界である。

 中学校から見ると,小学校はもちろんだが,高校も別世界である。

 高校の先生が,「四観点?なにそれ?」と言うのも無理はない。

 「思考力って何?」という質問に,納得のいく説明を用意してあげた訳だが,「それで全部?」と聞かれると,「そんなことはない」としか答えようがない。

 話を元に戻すと,学会という名前のつく組織の全国大会の発表で,内容ではなく,目標やお題目や形式だけの話で終わる「実践」とは呼べない代物はどうにかしてほしい。

 今求められるのは,小中高で異なる「常識」を,「本当にそれでいいのか?」とお互いにチェックし合うことではないか。

 学会の発表を見ていると,どこかのチェック機能が全く働いていない点が気になる。

 進行役(ファシリテーターと呼べるほどの仕事ができる時間が与えられているわけではない)がせめて,一刺ししないと,勘違いする人が増殖してしまうのではないか。

 発表者を讃えるだけのレベルの人たちの集まりが「学会」だと,日本の大学は,相変わらず受験産業が提供してくれる偏差値という数値でしか評価されない時代が続くのだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より