ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 教師は各授業で,だれに感謝しているか? | トップページ | 「セオリー化」による思考停止がもたらす弊害 »

子どもは各授業で,だれに感謝しているのか?

 子どもは各授業で,だれに感謝の気持ちを抱けるような学習活動を行っているのだろうか。

 感謝される対象はだれ?

 わからない問題の解き方を教えてくれた生徒たちか?

 他の教科の宿題をやっていても気づかれないような授業をしてくれた先生か?

 すぐに終わる課題だけを提示してくれて,後は何もしなくてもよい楽な授業をしてくれた先生か?

 塾で問題だけ解いても何の意味も感じなかったのに,そもそもなぜこういう学習をしているのか,学ぶ意義に気づかせてくれた先生か?

 ほんのわずかなつぶやきを,取り上げて話のつなぎにしてくれた先生か?

 集中して考えるべきときに,騒がしい教室を落ち着かせてくれた先生か?

 他の生徒が何を考えているかを知りたいと思ったちょうどいいタイミングで,発表の時間を設けてくれた先生と発表してくれた生徒か?

 あとちょっとでわかるというぎりぎりのところまで,さまざまな角度からのヒントを出し続けてくれた生徒や先生か?

 自分とは異なる考えが,どういう思考経路で導き出されてきたのか,わかりやすく図にして示してくれた先生か?

 自分に対する反論を,しっかりとした根拠をあげながら説明してくれた先生や生徒か?

 教科書や資料集には掲載されていない資料を紹介して,出来事の背景をより深く理解させてくれた先生か?

 ちょっと集中力が散漫になったときに,我に返るような話をしてくれた先生か?

 
 教師は,別に子どもに感謝されることを目的として授業をしているわけではない。

 子どもたちが習得しなければならない知識や技能がある。それらの中には,繰り返し扱うことで何とか定着できるようなものもあるし,しっかりと資料を使って考えることで,応用可能な「使える知識」になるものもある。

 「意味がわかった」「関係がわかった」「使えることがわかった」「意義がわかった」・・・だから,私はこう考える・・・とゴールに近いところに多くの生徒を到達させていくのが教師の仕事である。

 評価が3段階あるのは,それぞれの状態に置かれる子どもがいることが,想定されているからである。

 できれば全員を「B」(おおむね満足)以上の状態にもっていきたい。

 しかし,目標が低くない分,「C」(努力を要する)の状態を脱せない子どもがいるのも事実である。

 本人も自覚している場合がある。

 教師は,このような生徒からは目を離せない。

 「わかる瞬間」を見逃さないようにするために。

 本人が自覚せず,「わかったつもり」になっている場合も多い。

 こういうとき,「気づかせ役」はだれであるべきか。

 生徒にその任務を負わせるのは少々酷だろう。

 「わかっていない」のに,「わかったつもり」になっている生徒に対して,「わかっていないことがわかる」質問なり問題なりを,教師たちは苦労しながら考え,生徒に提示し,反応を観察する習慣を持たなければならない。

 教師はどういう意図でこの時間の自分たちを鍛えようとしてくれたのか,すぐにではなく,後でじわっとわかってくるような授業もしたいものである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

« 教師は各授業で,だれに感謝しているか? | トップページ | 「セオリー化」による思考停止がもたらす弊害 »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

『学び合い』」カテゴリの記事

アクティブ・ラーニング」カテゴリの記事

教員採用試験」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 子どもは各授業で,だれに感謝しているのか?:

« 教師は各授業で,だれに感謝しているか? | トップページ | 「セオリー化」による思考停止がもたらす弊害 »

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より