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2017年8月

コンサート中の「暴行」事件

 ネット上のニュースで関心を集めているのが,コンサート中に起こった「暴行事件」である。

 記事はとてもソフトに報じているが,これがもし教師が行ったものなら,「即逮捕」だったかもしれない。

 世界的な音楽家が中学生にビンタをくらわす。しかも公衆の面前で。

 教育界の「時代の流れ」をご存じなかったのだろう。

 すぐに,以前に勤めていた中学校で聞いた,私の赴任前の「事件」を思い出した。

 運動会の最中に,サングラスをかけていた中学生を指導する場面で,「対教師暴力」と「体罰」が同時に起こったという。生徒はもちろん,参観の保護者たちが見ている前で,である。

 荒れていないときがない中学校だったらしいが,その後,どれだけ大変だったか,当事者としてもよくわかる。

 コンサートなどのイベントの趣旨は,「新・才能の芽を育てる体験学習」というものだったらしい。

 世界的な音楽家にビンタされるのは「貴重な体験」と言えるのかどうか。

 人前でビンタができるくらい,子どもとの関係が築けていたのなら,すごい「教育者」でもあるのかもしれない。

 テレビ局や週刊誌も「暴行」を受けた子どもに取材を申し込んでいるのかもしれないが,

 ことは丸く収まるものなのかどうか。

 その様子を目にした人たちにはとてもショックだっただろう。

 本人は悦びを覚えたとしても,ただスルーできることなのかどうか。

 人がそこまで怒るのは,よほどの理由があるのだろう・・・・という温情というか忖度というか,強い側への気持ちの寄り添いはみんな得意だが,逆はそうでもない。

 時代としては,「教師以上に教師らしい人だ」という評判を許さない空気があるだろう。

 昔は,教師に殴られた子どもは家でも親に殴られるから,内緒にしていた。

 今は,「殴ったら終わり」の時代である。

 世界的な音楽家は,今,どんなことを思っているのだろう。

 引き受けたこと自体を後悔しているのか。

 殴ったことを後悔しているのか。

 子どもに期待したことを後悔しているのか。

 「才能の芽」はこうしたら育つ,という「理論」などは存在しないだろう。

 だから,有名人にすがりつく。

 さてさて,だれが今回のことの責任をとることになるのだろう・・。

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教師として一人前になるのに,12年はかかる

 最澄の「十二年籠山行」ではありませんが,何かをつかんでそれなりの仕事ができ,それなりの人間に成長するためには,12年かかる・・・・

 小学生までの子どもを指すこともできそうですし,

 6・3・3の小中高を卒業した人間を指すこともできそうですが,

 教員の私が一番しっくりくるのが,「教員として一人前になるのに12年かかる」ということです。

 学校はちょうど2校を経験して,中学校教師なら卒業生を3~4回送り出すイメージでしょうか。

 12年間で,どれくらいの管理職,同僚,研究者,子どもたち,保護者,地域の人々,行政の人たちと知り合いになれるでしょうか。

 私が「12年」という期間でそれなりに成長できたのは,この間に市町村,都道府県,文科省の3つの仕事ができたことが背景にあったかもしれませんが,子どもたちのやりとりの中で学んできたことが,それらの仕事をしていく上でのベースになったことが確かです。

 私は教員12年目に指導主事に任用されてしまいましたが,仕事と場所は変わっても,この年に「だいたいのことがわかった」感じになりました。小学校にも入るチャンスができた意義も大きかったかもしれませんが,最も重要だったのは,「わかったつもりになっている人たち」と自分との違いが明確になったことでしょうか。

 「だいたいのことがわかった」後の時間は,残念ながら「どうしてこんなこともわからないの?」と感じる場面のオンパレードで,それらがこのブログでの4500近い記事につながっていきました。

 「だいたいのことがわかった」という言葉の中には,「希望」と「諦め」が混在しています。

 12年より長く,同じ組織にいて,似たような仕事しかしていない人は,「希望」よりも「諦め」や「妥協」によって脳が占拠され,ろくなことをしでかさない,ということもよくわかりました。

 この国の教育をどうにかするために最も大事なのは,現場の教育管理職が「諦め」や「妥協」ではなく,「希望」を基本的なエネルギー源として仕事をすることができる環境づくりです。

 「諦め」と「妥協」を通り越して,後は「流す」ことで余生を送る人たちではなく,「希望」を追い求めるような人たちの声を集めてほしいと思います。

 この国の中ではだれも聞き入れてはくれない言葉でしょうから,どこかの国の指導者にでも救いの手を差し伸べてほしいものです。

 天下りや現役出向で甘い汁を吸っている連中ではない,本当に国の将来を考えることができる人はいないでしょうか。

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もう新学習指導要領が発表された後なので,遅いかもしれないが・・・

 委員が集められて,ある程度の方向性が決められているものに「権威」をもたせ,実行に向けて動いていく・・・教育の世界に限らないパターンだと思いますが,この「委員会」が出す結論の中に,「委員の具体的提案」がどれくらい含まれているものなのか,議事録を分析して数値を出したことがある人はいるでしょうか。

 つまり,「いてもいなくても意味はなかった」という人はどのくらいいるものでしょうか。

 まだ日本では「沈黙は金」みたいな文化があるので,本当はそこで「待った」をかけなければいけないのに,太平洋戦争開戦時のようにできなかった,ということはないでしょうか。

 新学習指導要領の総則を読んでみましょう。

 教師がどのくらいの責務を負っているか(負わされているか)がよくわかります。

 「働き方改革」に関する会議という,新教育課程の検討とは別路線から来ている提言の中に,「教師の役割が本当にわかっているのか?」と疑問に思ってしまうのが紛れているのは,やはり「センスが別」の人たちがつくっているからでしょう。

 教員の働き方改革などは「かっこだけですませよう」と思っている人も少なくないでしょう。

 以前の記事でも書いたように,教育現場というのは,そもそも「きりのない場所」なんです。

 40人のクラスの担任をしている私のような教員には,道徳にしろ教科の授業にしろ特別活動にしろ総合的な学習の時間の指導にしろ,学年経営にかかわることにしろ,学級経営にかかわることにしろ,分掌にかかわることにしろ,研修にかかわることにしろ,現状でも「時間が十分にある」とは言えません。

 全く逆に,手を抜こうと思えば,いくらでも抜ける場所でもあります。

 学校現場の人はよく知っていますよ。

 本当に忙しい人は,「忙しい」なんて言っているような暇な時間はありません。

 「いじめ」に対して毅然とした態度をとり,「心の安らかさ」を維持しようとしたら,「働き方改革」の会議で「他の人にやってもらったら?」などと提案されているもののほとんどから目を離せないのが学校というところです。

 「いじめ」への対応が,教員やスクールカウンセラーなどの「一応の専門家」以外の方に,どのくらい期待できるでしょうか。 

 第三者を間に挟むと,結局,聞き取りの時間が余分に必要になり,かつ,事実関係がつかみにくくなる。

 なかなか「人任せ」にできないのが教育の仕事です。

 ある方々は,大胆にも授業そのものを教室の中にいる成績上位の2割の子どもに任せてしまうという行動に出ているようですが,「働き方改革」と「教育改悪」が同時に進行していく可能性があることは,これから危惧すべきことでしょう。

 繰り返します。新学習指導要領の総則の解説を読みましょう。

 教師に何が求められているかがよくわかります。

 「働き方改革」の方が重要なのであれば,総則の作り直しが必要です。

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省庁の動き 「介入」とみるか「介護」とみるか

 今日,電車の中吊り広告を見ていて,ある雑誌の「経産省による企業経営への介入が進んでいる」という趣旨のタイトルが目に入ってきた。

 天下りの批判が強くなってきて,現役官僚の出向が増えてくると,

 文部科学省が大学を直接動かす,

 経済産業省が企業を直接動かす,

 といった図式が表面化しやすくなっていくのかもしれない。

 あるブログでは,省庁の壁を越えて,

 「経済産業省が学校を動かす」役割を果たそうとしていることが紹介されていた。

 政策の実行=予算の獲得が,だれの何のためか,見定める必要がある。

 教育という仕事は,利益を出すための企業活動と異なっているという点だけ,書いておきたい。

 大部分が人件費という世界では,「人がすべて」という特色がある。

 教師の多くは,仕事で楽をしたいと思っているわけではない。

 子どもに寄り添おうとすればするほど,子どもによりよい学校生活を送ってもらおうと思えば思うほど,

 子どもによりよい授業をしようと思えば思うほど,仕事はどんどん増えていく。

 仕事が増えて,成果が上がったら,給料が増える,というものではない。

 そういうものではないからこそ,堂々とした仕事ができる。

 仕事の省力化という発想自体が,そもそも学校現場に通用するかどうかはわからない。

 教育の仕事は,「できること」「やるべきこと」「やりたいこと」が山のようにある。

 事務仕事の一部の軽減に成功したら,やれていなかったそれらのことができるようになる。

 時間は同じでも,絶対量は増えていく。

 「生産性を向上させる」というねらいは達成できるかもしれない。

 他省庁の「介護」を受けて,本領を発揮しようと思ってくれる省庁があるだろうか。


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大学生は「子ども」ではないか?

 私がある大学の採用面接を受けたときに,面接官の方(役職名も教えていただいていましたが,失念しました)が事務的ではなく,本気で聞いてきているなと思った質問が,

 「うちの大学はどのような評価を社会から得ていると思われているか」

 という趣旨のものでした。私はだれかからその大学の評価を耳にしたことは一度もなかったのですが,まさか「耳にしたことはございません」とも答えられないので,

 「教育のナントカと呼ばれるように,とても評判はよいです」と当たり障りのないことをお答えしました。

 本心で言っていないのがバレたのか,何だか煮え切らないような反応をされていましたが,

 教育学部でそれなりに学生の質が高いことは間違いなく,かつての同僚もその出身だったので,「良い教育をされていると思います」としか答えようがありませんでした。

 ただ,小学校とは違って中高の教員採用試験にはあまり合格者が出ていないことも確かで,どこかの教員採用試験予備校のような大学ではないために,経営陣には大学の将来性に多少の不安があるのかもしれません。

 いずれにせよ,大学の大学生の扱いは,昔と比べてはるかに「丁寧」になっていることは確かでしょう。

 私から言わせれば「子ども扱い」という話ですが,

 「子ども扱い」した方が,教員になりやすいのであれば,そうした方がよいかもしれません。

 「一人も見捨てない」と息巻く人たちは,「子ども」たちを何歳まで自分たちの方法で育てようとしているのでしょうか。

 大学生だと,いくらでも見捨ててよいのでしょうか。

 採用試験に合格できないで困っている人たちが気の毒で仕方がありません。

 教育学部なんかにいて教育学とか中途半端な免許のための単位を取らされるより,教員になってからもっと役に立つ学問がいくらでもあったはずなのに・・・。

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授業では,「わかったつもりになっている子ども」を罠にはめることも大事

 公立の小中学校レベルの授業だと,すでに塾とか通信教育での学習で「履修済み」の内容が扱われたりして,一部の子ども(地域によっては大部分の子ども)にとって「わかっていること」を繰り返しているだけの場面が増えてきます。

 当然,教師は,まだわかっていない子どもをわかっている状態に変えるために授業をしますから,単純な発想しかできない人は,「わかっている子どもに教師役になってもらう」という姑息な手段に訴えようとします。

 ただ,まだわかっていない子どもが「わかった!」という快感が得られる手前で答えを言ってしまうなど,「手加減を知らない」「自分の優位性を示したい」のがやはり子どもらしいところですから,「わからない」状態にある子どもが,「わかる」プロセスを通してせっかくの「成功体験」が得られる機会が無駄になってしまうことが多いのです。

 だから,「わかっている子どもがいるんだから,任せてしまえ」というのはあまりにも乱暴というかいい加減な態度なので,絶対にやめてほしいのです。

 これからの学習指導で「主体的・対話的な深い学び」を子どもに実感させるために,いい方法があります。

 「わかったつもり」になっている子どもに「本当のことはわかっていなかった」と思わせ,「わからない」子どもの方が「本当のことがわかりやすい」立場にいたことを実感させるのです。

 「わかったつもりになって人に説明することが,いかに恐ろしいことか」を実感させれば,授業に集中しやすい環境がつくれるでしょう。

 以前どこかで紹介したかもしれませんが,聖徳太子(厩戸王)の政策を蘇我馬子が苦々しく思っているように描いている漫画と,誇らしく思っているように描いている漫画があります。漫画にも,レベルの違いがあるのです。

 どうして蘇我馬子の反応が違うのか。どっちが正しいのか。

 小学校レベルの授業では,「聖徳太子の政治」というタイトルが成立していますが,今,そういうタイトル自体が成立しないような解釈が一般化してきています(残念ながら,一番売れている中学校の教科書も,そういう小見出しがついてしまっていますが)。

 なぜ聖徳太子が,朝廷のあった場所からかなり離れた斑鳩に拠点を置いたのか?

 それが次の段階に考えさせることで,聖徳太子の死後,何が起こったのか?

 小学生にもこの辺までふれておいてくれると,「権力争い」の構図の捉え方の基礎が身に付く感じがしますね。

 もちろん,「高校生レベルが深い学びなんだ」というわけではありません。

 小学生にでも,「蘇我氏の実力」をどう捉えるべきか,深く考えることは不可能ではないでしょう。

 「善」と「悪」に簡単に分けて人間や歴史を語るような態度では,「深い学び」は絶対に不可能です。


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「わかっている子」の説明で,「わかっていない子」が理解できるようになるか?

 教師が教えるより,子どもが教えた方が,教えられる子どもは理解しやすい,と主張している人がいますが,それはときと場合によるでしょう。

 もしそういう主張が正しいのであれば,「小学3年生の勉強のよくできる人が教師をしている小学3年生のための塾」などが商業的に成立しているはずでしょう。「教えるプロ」なんていらない,という主張なんでしょうから。

 教師をしていれば・・・というより,教育心理学とか認知心理学を学べばわかることですが,

 「理解の仕方」「認識の仕方」は子どもによってまちまちです。

 「言葉で理解してしまう子ども」が,言葉のまま説明しても,

 「言葉だけでは理解できない子ども」にはわかりません。

 一斉授業をしながら,教師たちは,「いかに子どもの発言・説明を他の子どもにも理解できるようにさせてあげるか」に苦心します。手っ取り早いのは,教師が「言い換え」をしてしまうことです。

 それで理解できるきっかけになる場合もありますが,「言い換え」は説明する側の子どもができるようにしなければなりません。

 ICTなどいろいろな道具を使ったり,黒板に図を書いたり,たとえ話をもってきたりして,「変換作業を行う場」が一斉指導の中で必要なのです。

 教育実習をしているときに,大学生の実習生の発問を,生徒がわかりやすく変換して,課題を焦点化したり,具体化してから,考えや答えを述べる,という場面が出てくるように指導しておくのが,教師の役割です。

 「自分がわかっていても,相手が同じような方法でわかるとは限らない」。

 一斉授業を行って,教師である自分自身の説明や,教科書の記述を例にして,これをきちんと把握させておくことが教師には求められます。

 教師はだめだが子どもが説明すれば大丈夫なんて,簡単に言ってはいけないのです。

 「何がどうわからないかがわかるというのは,相当高いレベルのこと」ということを理解した上で,学習は進めていくものです。

 ボタンのかけ違いはあとで取り返しのつかないことになりますから,ぜひぜひ注意して下さい。

 特に,「同じレベルの仲間が多いほどいい」なんて言っている連中には警戒して下さい。

 だめな人が束になって自分たちの首を絞めるのはやめましょう。

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大規模校と小規模校の違い

 私が赴任した最初の中学校は,生徒数1000人を超えるマンモス校でした。

 2校目は,どちらかというと小規模校に入るでしょう。

 指導主事のときには,極々小規模校も訪問する機会がありました。

 大規模校は生徒がたくさんいますが,先生もたくさんいます。

 この当たり前のことがよくわからない人が,ルールをつくると困ったことになります。

 管理職の先生は2人しかいませんから書類が増えて大変で仕事量が増えても,

 一般教員は,大規模校の場合,人数でナントカなる世界ですよ。

 そこにサポートする人が入っても,動きにくいでしょう。

 学校というところは,忙しいときはみんなすごく忙しい世界です。

 タイミングというものがあるんです。

 大規模校で一気に山のように仕事が襲ってくると,サポートする人が倒れてしまいます。

 だから冷静に教員の勤務実態を分析して,一般の公務員がたくさんもらっている「諸手当」を忙しい時期に増やしてあげればいいんですよ。

 小規模校ほど,一部の人に仕事が集中している実態を知らないのでしょうか。

 人が少ないということは,いくつもの仕事をかけもちしている人がいるということなんですよ。

 大規模校なら,分掌の仕事も細分化されて,自分の役割がごく限られたものになっている先生がいますが,小規模校はほぼ全員が主力になっていて,そこに学年主任や教務主任などがかぶってきて,明らかに学校内のだれから見ても事務仕事が多い人がいるはずなのです。

 もしサポートしてくれるアルバイトを投入するなら,大規模校よりむしろ小規模校の指導困難校でしょう。

 豪雨災害で大変気の毒になったある地域では,災害をきっかけに4校が1校に統合されるそうです。

 教員は余ってしまうわけですが,統合をきっかけにして,教員1人当たりの事務量は,減っていくことでしょう。

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スクール・サポート・スタッフの投入で,労働時間は増加する

 読売新聞が配信した「教員の長時間労働改善、事務作業に支援員配置へ」というニュースを読んで思ったことを率直に述べる。

 実際に事務作業員が配置されたとして,どんな仕事を頼めるか?

 私が頼みたい仕事は一つもなかった。

 また,頼みたいが頼めない仕事があった。

 事務作業員は大規模校に配置されるというが,たとえば30学級ある小学校に配置された人に,担任教師が配布物のプリントを頼んだら,どういうことになるのか。できあがりがいつになるかわからない状況が生まれるに違いない。もし事前に頼めるようなプリントは,どうしても個人でやりたくなかったら,学年や分掌組織の仕事として処理できるだろう。

 パソコンの準備が必要な教員が同じ時間に重なったら,どちらかを優先せざるを得なくなる。

 生徒の個人情報が含まれるデータの入力を,アルバイトの人に頼むのは気が引ける。データの入力ミスのチェックをする時間が必要になり,結局,労働時間が減るわけではない。

 テストの採点の補助だが,中学校は想定されていないのか。1人でどれだけの教科の採点補助が可能だろう。

 きっと現場の学校の管理職も参加して検討した制度だろうから,「意味はない」とは言わないが,どれだけ労働時間が短縮されるかというと,私は全く逆の効果を危惧する。(本来,効果は期待するものだが)

 こういう人が入りました!

 いろいろと頼めますよ!

 じゃあ,配布するプリント(宿題の量)を増やしてみよう!

 学年だよりの発行回数を増やしてみよう!

 テストの記述式の問題を増やしてみよう!

 アンケート調査の回数を増やしてみよう!

 掲示物を新たに構想しよう!

 ・・・そう,せっかくいただいた人材を無駄にしないように,

 仕事を増やすというのが,日本という国の学校現場の特色なのですよ!

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「一斉指導=黙って座って聞くもの」は時代おくれ

 総合的な学習の時間の指導を,学習指導要領に示されている目標をきちんと達成しようと真面目に取り組んできた人にとっては,通常の教科指導における「一斉指導」がいかに重要なものか,言うまでもないでしょう。子どもの主体性に依拠した学習では,「広げる」「まとめる」「深める」ことに多大な時間を要します。

 中等教育における教科指導は,初等教育のように「必ずどこかの教科で手抜きが行えるようになっている」ものとは違い,学習指導要領に示されている目標や内容が多く,計画的に進度を保っていかないと,「学習していない」=「評価できない」内容が出てきて(増えて)しまいます。現状でも,「思考力を育てる」ための指導と内容については十分に確保できない状況にあります。

 ですから,「一斉指導」のあり方も,子どもが黙って座って聞くもの,という固定観念は捨てていかなければなりません。授業の進度を考えるとき,「できる子」と「できない子」で到達するところが異なってくるのは当たり前のことで,そのために「A」「B」「C」という評価の指標が用意されているのです。

 多くの教師は,「できるだけCの子をなくす」ことに専念しており,「Aの子どもを増やそう」という方向の努力はしにくいようですが,「Aのレベルの子どもの考え」を全員に聞かせたり,「どうしたらAのレベルに達するのか」をわからせたりすることは重要です。

 要は,「一斉授業」の中で,子どもたちの発言がどれだけ活発になされ,それらに対して教師がいかに適切な整理,助言,補足,訂正等が行えているかが問われてくるわけです。

 「C」のレベルからなかなか抜け出せない子どもに,教師の言葉はもちろん,「A」や「B」など,様々なレベルの子どもの発言を聞かなくてもすむようにしむける教育のあり方は問題です。

 子どもが調べたことを発表→関連する質問を子どもが子どもにする→教師が補足→学習課題を教師が提示→子どもが調べて発表→さらなる疑問を発表→子どもが調べて発表→教師が補足→子どもがまとめる→教師がまとめる

 小学校ではそもそもこういう「一斉授業」が一般的であるはずですが,教師が適切な補足,課題提示,まとめなどができないことが前提の対処法で満足してはいけないのです。

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人との関係がどうとかいう前に,自分との関係を築かせることが大事

 人との関係をどういう場面でどのように築くのか。

 同級生との関係づくりは,子どもにとって,実は最も難しい課題である。

 それは,「同級生」だからである。

 同級生とのかかわりの比重が重くなればなるほど,不適応を起こす子どもが増えているのが実態ではないだろうか。

 放課後,先輩と一緒に部活動に励むことには抵抗がない子どもが,どうして同級生とだけ過ごさなければならない授業などの空間を苦手にするのか,理由を想像できない人はいるだろうか?

 教師で似た経験をするチャンスは,初任者研修をしている時期にある。

 もし,4クラスある学年の4人の担任が,全員初任者だったら(実際にはあり得ないことだが),教育活動はやりやすいか,それともやりにくいか。

 教師は「他の教師と比べられること」が常態化している毎日を,どう過ごしたいだろうか。

 1日あった課題を,放課後,毎日4人で集まって情報交換する。これを1年続けてみることを想像してほしい。

 「素晴しい経験ができる」「すごく指導力がつく」「みんな,教師になれたことを心から喜び合える」

 と自信が持てる人が,4人そろうだろうか。

 つぶれていく1人を,ほかの3人が救いきれるだろうか。

 人間は,人と対立し,協調し,喜び合い,憎しみ合い,讃え合い,生きていく。

 人と折り合いをつける力は,どうやったら育つのだろう。

 人が成長するには,大前提が必要である。

 それは,自分と折り合いをつけられるようにすることである。

 そうでないと,人間は「考える葦」ではなくなってしまう。

 教師に利用させられる葦たちが利用する葦になってしまう。

 「みんながお前のことを見捨てないぞ」というメッセージは,どういうときに必要で,

 どういうときに必要ではないかを,教師は実践を通してわかっていかなければならない。

 人間には,それぞれプライドがある。

 大学のセンセイにもあるだろうが,子どもにも子どもなりのプライドがある。

 それを傷つけることを目的とした教育で功を奏したように見えるのは,

 教師にとって都合のよい「考えない葦」に子どもがなってしまったからだろう。

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主体的でも対話的でもなく,深い学びができない「学会」

 「新学習指導要領に,こう書かれているので・・・」

 こういう話し方が「恥さらし」であることに気づけない人は悲しいのだが,今,大学のセンセイですら,こんなことを言う人がいることを,昨日と今日,参加した学会で知ることになった。

 なぜ新しい学習指導要領でそれがふれられたのか。

 「そんなこと,書かれる前からやってますよ」というのが小中学校のあるべき姿である。

 なぜなら,そうでないと,「適正な観点別学習状況の評価ができる指導がなされていなかった」証拠になってしまうからである。

 小中学校では,指導はしないくせに,評価だけは一生懸命にやろうとする人が増えているのだが,本末転倒とはこのことである。

 新しい学習指導要領は,「どうしようもない高校の教育をどうにかすること」に主眼が置かれている。

 「高校の教育をどうにかするためには,大学受験をどうにかしないといけない」ということはわかっていたから,

 「どうにかする」努力は始めたが,記述式にしたら採点に時間がかかるだけでなく,結果のすべてについて開示請求が出て比較されて,採点基準に疑義が出されたらすべてが台無しになることがわかっているので,実質的にはほとんど変化のない,信頼性を重視した従来型の試験になるだけで終わることは,だれにでもわかっていることである。

 無理矢理「ものの見方・考え方」をどの教科にもあてはめ,いかにも小中高と教育がつながっているかのように見せる仕組みに最も悩まされるのは,高校普通科かもしれない。小中の基礎ができていない高校では,見方・考え方のいろはからやり直さなければならなくなる。

 小学校から見れば,中学校や高校は別世界である。

 中学校から見ると,小学校はもちろんだが,高校も別世界である。

 高校の先生が,「四観点?なにそれ?」と言うのも無理はない。

 「思考力って何?」という質問に,納得のいく説明を用意してあげた訳だが,「それで全部?」と聞かれると,「そんなことはない」としか答えようがない。

 話を元に戻すと,学会という名前のつく組織の全国大会の発表で,内容ではなく,目標やお題目や形式だけの話で終わる「実践」とは呼べない代物はどうにかしてほしい。

 今求められるのは,小中高で異なる「常識」を,「本当にそれでいいのか?」とお互いにチェックし合うことではないか。

 学会の発表を見ていると,どこかのチェック機能が全く働いていない点が気になる。

 進行役(ファシリテーターと呼べるほどの仕事ができる時間が与えられているわけではない)がせめて,一刺ししないと,勘違いする人が増殖してしまうのではないか。

 発表者を讃えるだけのレベルの人たちの集まりが「学会」だと,日本の大学は,相変わらず受験産業が提供してくれる偏差値という数値でしか評価されない時代が続くのだろう。

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もっと子どもたちを信じてみたらどうか?

 「成績が悪い子がやる気を出せば,平均点が上がりますよ!」

 という言葉遣いが,いかに嫌らしいものか,なぜ周囲にいる人たちは本人に教えてあげないのだろう。

 「本当に教師の言うことを聞かない子どもだと,なぜあなたは言い切れるのですか?」

 という質問を,なぜしてあげないのだろう。

 特定の教育方法を信じ込ませるのではなく,もっと子どもを信じてみたらどうか?

 その教育方法は,実は多くの子どもたちを信じていないことが上手に隠されている。

 「比較的優秀な子どもが必要だ」なんていうことを平気で書いている。

 なぜ「こうすると得ができるぞ」と功利主義的に教育を語るのだろう?

 「1人見殺しにするのと,5人見殺しにするのと比べたら,1人の方がましだろう?」

 なんていう言葉を,なぜ教育の世界で「吐ける」のだろう?

 子どもたちが思い通りに動かない,と悩んでいる教師たちに,何が足りないのか,なぜ本当のことを言わずに隠して,変な信念を植え付けようとしているのか?

 教育には,倫理の専門家がいて,教科教育の専門家がいて,社会学の専門家がいて,心理学の専門家がいて,・・・専門家風の人たちはたくさんいるが,実際には教育の専門家は現場にしかいない。

 学校にプレッシャーを与える力があるのは,教育委員会と大学である。

 現場の教師にも子どもにもプレッシャーがかかった状態で何がどううまくできました,何はダメでしたね,といってみたところで,次の日から,次の週から,「いつも通り」になっていくのが教育現場である。

 自分が聞きたい人の話にしか,耳を傾けられない人間をつくろうとしている人はだれか?

 若い教師たちを,現場から引きはがそうとしている人はだれか?

 若い教師を無視して,現場から離れていこうとする人を増やそうとしているのはだれか?

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政治の世界で目立つ「ダメリーダー」の教育効果

 朝のニュース番組から,世界の政治の動きに関する報道が途切れることがないのは,

 主にTさんとKさんとAさんのおかげである。

 発言が二転三転し,「ああ,これがホンネなんだな」とだれでにもわかってしまう指導者もいれば,

 一貫して「自分のせいではない」と言い張る指導者もいれば,

 「弱い犬ほどよく・・・」という諺がピッタリの指導者もいる。

 3人の指導者には,他のだれかが代わりにやっていけるわけではない,という無類の強さを持っているのが共通点である。
 
 その強さの源泉は,失敗したことにあるのではなく,実績そのものにある,というリーダーもいる。

 報道では耳にできないが,Aさんがどんな仕事をしているかは,HPでしっかり報告されているから,どこかのニュース番組ではぜひ取り上げてほしい。何も,これを取り上げたから,「体制べったり」というわけではない。報道は,やはり偏りが大きすぎて,「何かもっと大事なニュースが報じられていないのでは」という危惧を国民は抱いていると思われる。

 さて,3人のうちの2人は,「支持率」と「不支持率」が示されながら批判されているので,

 ほとんど「メッタ撃ち」の状態にある。

 「支持率100%」の指導者の行き先は,歴史を学んでいるほとんどの人が知っているのだが,

 多くの人は「とばっちりが来ないか」という心配をしているわけである。

 テレビのニュース報道の特色は,「情報を送り出す側と,情報を受け取る側の双方が正義の側」という「印象操作」をしっかりと行っていることにある。

 「悪」の部分をクローズアップすることで,「そういう人たちが身近にいないでほしい」という欲求を高めてくれる。

 超優秀な反面教師をつとめているのは,もちろんリーダーだけではないが。

 だれかのおかげで,部下を恫喝したり,生徒を怒鳴ったりできる上司や教師は激減するだろう。

 その場面を録音されていて,ネットに流されでもしたら・・・。

 これはダメなことですよね,という確認があっという間に何千,何万という人たちを対象にしてできてしまう時代である。テレビではさらにケタが違う(だからいまだに日本ではテレビ広告が消えない)。

 では,「どうすればよいのか」という答えは,どこかに示されているのだろうか。

 リーダーのその言葉ではダメなら,他の言葉があるのか。

 Tさんの場合は,どうやらその「他の言葉」を言わされた後に,ホンネが出てしまったようなのだが・・・。

 Aさんの場合は,「自分が指示したことはない」というのは正しい言葉かもしれないのだが,「指示した」「指示しない」という事実が大事な国ではないことは,自分自身が一番よくわかっているはずである。

 「自分が考えていることがすべて正しいと認識する」反知性主義の動きを止める力はどこにあるのだろう。

 このまま「正義の味方」のつもりでいると,「正義の見方」がわからなくなってしまうのではないか。

 ある政党からは,どんどん人が抜けていっている。

 こういう政党ほど,「再起不能」という言葉がぴったりくる党はないように思われる。

 大小,様々な組織の「危機」を気楽に眺めているうちに,自分の首を自分でしめていた,なんてことにならないよう,足もとの危機に注意を払うべきことを胸に刻んでおきたい。

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「人生100年時代構想会議」に参加される方に読んでほしいもの

 日本経済新聞の土曜日の夕刊に,「こころ」面というものがありました。

 今年の何月かに終了してしまって非常に残念だったのですが,多様な「人生」を考える上で,中学生が読んでも有意義だと考え,道徳の教材にするために,スクラップしてあります。

 「人生100年時代構想会議」のメンバーになられる方々には,ぜひともお読みいただきたい内容がたくさんあります。

 人の生き方はまさに人それぞれです。

 何か特定のロールモデルをつくる必要はありません。

 金儲けにあくせくし,将来不安からさらにお金を使わずに貯め込む人が増えることより,

 お金を使う人を増やしたい経産省や財務省の考えはよくわかります。

 ただ,将来不安を嘘で固めて払拭したつもりにさせるような国であってはなりません。

 銀行に預けたお金は,国が借りてどんどん自由に使わせてもらう,という国でも困ります。

 投資セミナーが増えるとか,何だか先行きが想像できるのがこわい世界です。

 あまり政府が考えることを「忖度」しないタイプの「有識者」が集まった方が,会議は盛り上がるのではないでしょうか。

 できたら,小学生や中学生,高校生などのメンバーも入れてもらいたいと思います。

 人が「自由」な生き方を選べる国にするためには,教育の充実が最も重要であることは言うまでもありません。

 それこそ一部の人間が会議室でこそこそ,ひそひそやって議事録にまとめやすいような会議ではなく,議事録を作っていたら紙が大量に必要すぎて無駄だから,ペーパーレス化を徹底するなど,社会そのものの変革にもつながるような会議にしてほしいと思います。

 議員さんの事務所や役所の会議室や学校の開き教室などを開放して,構想会議がいつでもどこでも開けるようにするとか・・・。

 社会参画に子どもが実感をもって乗り出せるような環境づくりを進めていってもらいたいものです。

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後悔しない・後悔させないための教育

 子どもたちの「命の守り方」。

 教員研修では絶対に必要な内容の一つである。

 部活動の帰りに体調を崩した子どもの命が失われた事件。

 教師は「息をしている」という理由から、適切な処置をしなかったのではないかと報道されている。

 「死戦期呼吸」という言葉を知らない人は、すぐにでも救命のための講習を受けてほしい。

 AEDは、心臓の状態を判断してくれて、自動的に電気ショックが必要かどうかを教えてくれる機械でもある。

 このことを知らなかった教師は、すぐにでも機能だけは勉強しておいてほしい。

 海や山で今年も多くの命が失われている。

 救えたはずの命が救えずに後悔しないよう、常に学んでいたい。

 死なずにすんだはずの自分の命が失われたら、後悔のしようがない。

 子どもたちにも、後悔をさせないための教育を進めるべきだろう。

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「失敗から立ち直ったつもり」の誤解が最大の失敗

 「失敗から学ぶ」系の本を読んでいて,たまに見つかるのが,

 「失敗に気づいて改善した後に出てきた失敗に気づけていない」ことがわかってしまう話である。

 結局,「点数至上主義」になってしまっている実践ほど痛いものはない。

 もともと「点数至上主義」だったのだから,何も進歩していない,という証拠にもなってしまっている。

 「結果が出てれば,理解されるはずだ」というご都合主義というか,批判回避主義も失敗の原因であるが,

 こういうタイプの失敗原因は,直しようがない。

 「点数がとれれば,成果が出たことになると言える」と思うのは,

 教育の実態がわかっていない,教育行政にいる教育の素人たちだけである。

 すでに教育の世界では,「そういうテストで点数がとれたところで意味がない」ことが常識になっている。

 社会の要請に応えられない教育なのに,意味のない要請をしてきて満足してしまう人間が一部にいることが失敗を生む背景となっている。

 子どもたちが全員そろってお互いのレベルを下げまくっている実践がどういうものか,もう少しだけ実践が有名になってくれば,一般の人たちにもわかってもらえるようになるだろう。

 塾で勉強している子どもたちのおかげで,みんなができる気になったという教育実践は,いずれ,塾の宣伝にしか役に立たなくなっていくだろう。

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女性社会が男性社会に変わることが中1ギャップの最大の原因か?

 中1ギャップを解消するために,さまざまな取組が行われている。

 小中一貫校の設置も,その一つだろうが,中学校1年生をナントカ学園7年生と呼んだところで,中学校の教育課程の学習についていけない生徒がいなくなるわけでもない。

 ギャップを感じにくくなる一方で,「中学生になった」という実感をもちにくいことは,子どもの成長にとってマイナスになってしまう側面が大きすぎる気もする。

 英語教育を小学校から始めるというのも,中1ギャップ解消への改革として期待される面もあるが,

 「英語教育の研修」を終えた小学校教師たちの多くが,「撃沈」して帰ってくるという話を耳にした。

 「私たちが英語を教えていいのだろうか?」という疑問というか「適性の乏しさ」を痛感してしまうというのだ。

 多くの教師に「道徳も同じでしょ」と言いたくもなるところだが,「英語があるから小学校教師にはなれない」という理由で,教師志願者が減っていくことも危惧しなければならない事態が目前に迫っている。

 制度をいじると,必ずと言っていいほど「悪い方向へ」の効果が高まっていく日本の教育界である。

 私は,中1ギャップの原因は,小学校と中学校・高等学校の教育課程,学習指導要領に示された内容にあると考えているが,もう一つ,「文化の違い」が無視できない要素であると確信している。

 小学校と中学校・高等学校の「文化の違い」は,たとえば「学習指導」や「生活指導」に顕著になって表れてくる。

 その点は何度もこのブログで取り上げているが,その他に,小学校=女性社会から,中学校・高等学校=男性社会に変わることが,非常に大きな不適用要素として直撃してしまう子どもがいると感じている。

 下の図は,東京都の中学校の男女別教員数の推移を示している。

 27

 小学校と比べると,男性教員の割合が高い。

 管理職になると,男女比はさらに男性に偏ることになる。

 少し前の記事でも書いたように,「男性」「女性」と区別する時代ではないかもしれないし,経験が10年未満の人が半数以上を占めるような小学校になってくると,今までとはまた異なった文化ができているかもしれない。

 しかし,「戦闘向き」の集団である「男性の群れ」がもつ独特な中学校の生活様式は,小学校には見られにくいのではないか。

 この文化の違いに,敏感に反応する子どもが少なからずいるはずなのである。

 別に,「女性社会」が「戦闘向き」ではない,とは言えないだろうが,子どもにとってどっちが「アットホームな感じがするか」と問われれば,もちろん例外はいくらでもあるだろうが,「男性社会」よりは「女性社会」だろう。女性の育児や家事労働がまだ多い国ならではの感じ方である。

 「中学校に行くと,先生たちはみんな怖いよ」と小学生を脅す教員がいるらしい(私の教え子たちの多くが,みんなこういう脅しを受けていたことを知っている)が,どういう人だろう?

 そもそも,なぜ小学校に女性の教員が多く,中学校では逆になっているのか。

 そこに中1ギャップの原因が潜んでいるかもしれない,という予想から,少し想像してみた。

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男性中心になってしまう教育実践の落とし穴

 ある本には,12人の現場教員の実践に関する内容が紹介されている。

 すべて仮名なのだろうが,12人中,11人が男性である。

 小学校は5人の事例が紹介されているが,女性はこの事例のうちの1人だけである。

 どうして「男性中心」の実践になってしまっているのか,私には何となく理由がわかる。

 この本に書かれた教育の特徴は,現実離れした理想を抱くことが前提とされている。

 「どういう行動をとると得なのか」を子どもにわからせようとする嫌らしい実践でもある。

 女性教員には,肌感覚として,拒否反応が強いだろうことが想像される。

 男性教員が優れているからとか,そういう意味ではない。

 むしろ,逆の意味が真である気がする。

 「二兎を追う者は一兎をも得ず」というが,

 全兎を追ったらどうなるのか?

 「一人も見捨てない」という意思は,基本的にすべての教師がもっているものだが,それを現実的に実践しようとした教師は,結果として多くの子どもを見捨ててしまうことになるジレンマを経験しているはずである。

 津波が襲ってきたときに,「全員を救う」つもりで行動した教師が,逆にほとんどの子どもを犠牲にしてしまった教訓を忘れてはならない。

 今どき,女性教員がどう,男性教員がどう,なんていう時代ではないかもしれないが,女性の割合がかなり高い小学校で実践に加わる人が少ない現状には,それなりの「真理」が隠されているはずである。

 私はそこには絶対に近づけない「オゾマシサ」を強烈に感じている。

 もともと,「テクニックでどうにかする」主義だったそうだ。

 だれから学んだのかも明らかにせず,「オレ様のやり方」をひけらかす連中が増殖している。

 柔道にしろ,合気道にしろ,テクニックは大事かもしれない。

 しかし,相手を尊重する気持ちがない「何とかファースト」は,すぐに見破られてしまうものである。

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若い先生が増えると,子どもや管理職の悩みも増える

 次の図は,東京都の小学校教員数の推移を示している。

27

 男女比はおおよそ1:2であるのが小学校の特徴である。

 学校によっては,男女比が半々くらいのところがあったり,男性教員がごくわずかしかいないところもある。

 小学校の管理職の悩みの一つに,女性教員がご懐妊され,産休に入ることにある。

 日本全体から見れば,とても歓迎すべきことだが,こと人事管理という点や指導の一貫性という観点から言うと,とにかく人を探してこなければならない,しかし,適材がなかなか見つからない,という点で,管理職にとっては非常に頭の痛いところである。学級担任がほとんどすべてを仕切る小学校教育のシステムを変えない限り,この難問の解決は難しい。

 ある地域では,住民(保護者)と学校(行政)との対立の図式を生んだりもする。

 何と,教員がほぼ男性だけで,若い女性がいない,という異常な小学校が存在するのは,教育委員会事務局が住民の要望を受け入れているからである。

 希望しないへき地の学校に赴任すると,異動前は予定はしていなかった妊活に取り組む人がいるというのだ。

 少子化が止まらない日本で,もっと寛容にできないのか,と疑問に思われる方も多いかもしれないが,こと自分の子どもの担任がコロコロ変わり(小学校の6年間で,ほとんど毎年,担任が産休に入っていくという学級もあったらしい),学級が落ち着かなかったり荒れてしまったりいじめが蔓延するようになると,黙っていられなくなり,果ては「産休に入りそうな女性教員を担任にすえた管理職の責任」がクローズアップされてしまう。

 私が知っている管理職にも,この理不尽な責任追及に辟易してしまっている人が少なくない(中学校ですら,そういう責任が問われてくる)。

 いっそのこと,子どもが減って空き教室が増えている小学校内に託児所を設置してしまうという政策もありかと思われるが,「家でゆっくり育児したい」という教員の希望ももちろん重視すべきであろう。

 行政として最も力を入れるべきなのは「自宅研修システム」で,できれば一定の業務も在宅でできるような仕組みをつくるべきではないだろうか。

 育児をしたことがある人はわかるだろうが,自分の子どもの育児は基本的に24時間「営業」である。

 そんなゆとりはない,そもそも育児「休暇」をとっているんだ,という当たり前の声に対して,

 「学校の危機」「子どもの危機」「保護者の危機」を背景に何かしらの手を打たないと,それこそ小学校の学校経営が「成立しない」ほど,苦境に立たされるところが続出するおそれがある。

 同僚間の人間関係がよくない小学校では,さらに関係が悪化し,産休→異動→産休→異動というパターンになりかねない。

  「自分の子どもと,担任をしていた子どもたちと,どっちが大事なの?」なんて質問はもちろん論外だが,教員でなくても,「育児から解放されたい」という欲求がわき起こるときがかならずあることも念頭においておきたい。

 男性教員で産休をとっている人がどれいくらいいるかは,よくわからない。

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「セオリー化」による思考停止がもたらす弊害

 子どもたちを相手とする教育という仕事に「セオリー化」を持ち出すと,どうしても「見捨てしまう人」が出てきます。

 「主体性を重んじたいから,勝手にやらせておく」という方法にも,課題が生じる場合があります。

 複数の人間の話し声がすると,頭が混乱してものを考えられなくなる子どもがいたら,どのようなことに気をつけて授業をしますか? どんな活動ができなくなりますか?

 授業で扱われる内容が決まっている通常の授業というのは,子どもにとって,どうしても「受け身」の学習にならざるを得ません。

 反転学習は,一見すると「主体性を引き出す」ようなものに見えるかもしれませんが,家では強制的に映像などを見させられているので,そこから自分がどんな考えを抱き,学校でそれを発表したとしても,「やらされ感」は払拭できないでしょう。

 プリントを与えられて,さあ,やれ,と指示されるような,「自習」とほぼ同じ学習も,監視がついている以上,家畜と似たような環境になります。

 一斉授業には何が欠けているかを一生懸命に主張している人がいますが,学習というのは,基本的に何が欠けているかを考えるよりも,だれが何をどれだけ習得し,活用できたかを考えるべきでしょう。

 子どもに学習内容の選択の余地があるのは,総合的な学習の時間です。

 教科の授業では,授業をする人が学習上の諸課題を意識しながら,計画を柱にしながら臨機応変に対応していくことが大切です。
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子どもは各授業で,だれに感謝しているのか?

 子どもは各授業で,だれに感謝の気持ちを抱けるような学習活動を行っているのだろうか。

 感謝される対象はだれ?

 わからない問題の解き方を教えてくれた生徒たちか?

 他の教科の宿題をやっていても気づかれないような授業をしてくれた先生か?

 すぐに終わる課題だけを提示してくれて,後は何もしなくてもよい楽な授業をしてくれた先生か?

 塾で問題だけ解いても何の意味も感じなかったのに,そもそもなぜこういう学習をしているのか,学ぶ意義に気づかせてくれた先生か?

 ほんのわずかなつぶやきを,取り上げて話のつなぎにしてくれた先生か?

 集中して考えるべきときに,騒がしい教室を落ち着かせてくれた先生か?

 他の生徒が何を考えているかを知りたいと思ったちょうどいいタイミングで,発表の時間を設けてくれた先生と発表してくれた生徒か?

 あとちょっとでわかるというぎりぎりのところまで,さまざまな角度からのヒントを出し続けてくれた生徒や先生か?

 自分とは異なる考えが,どういう思考経路で導き出されてきたのか,わかりやすく図にして示してくれた先生か?

 自分に対する反論を,しっかりとした根拠をあげながら説明してくれた先生や生徒か?

 教科書や資料集には掲載されていない資料を紹介して,出来事の背景をより深く理解させてくれた先生か?

 ちょっと集中力が散漫になったときに,我に返るような話をしてくれた先生か?

 
 教師は,別に子どもに感謝されることを目的として授業をしているわけではない。

 子どもたちが習得しなければならない知識や技能がある。それらの中には,繰り返し扱うことで何とか定着できるようなものもあるし,しっかりと資料を使って考えることで,応用可能な「使える知識」になるものもある。

 「意味がわかった」「関係がわかった」「使えることがわかった」「意義がわかった」・・・だから,私はこう考える・・・とゴールに近いところに多くの生徒を到達させていくのが教師の仕事である。

 評価が3段階あるのは,それぞれの状態に置かれる子どもがいることが,想定されているからである。

 できれば全員を「B」(おおむね満足)以上の状態にもっていきたい。

 しかし,目標が低くない分,「C」(努力を要する)の状態を脱せない子どもがいるのも事実である。

 本人も自覚している場合がある。

 教師は,このような生徒からは目を離せない。

 「わかる瞬間」を見逃さないようにするために。

 本人が自覚せず,「わかったつもり」になっている場合も多い。

 こういうとき,「気づかせ役」はだれであるべきか。

 生徒にその任務を負わせるのは少々酷だろう。

 「わかっていない」のに,「わかったつもり」になっている生徒に対して,「わかっていないことがわかる」質問なり問題なりを,教師たちは苦労しながら考え,生徒に提示し,反応を観察する習慣を持たなければならない。

 教師はどういう意図でこの時間の自分たちを鍛えようとしてくれたのか,すぐにではなく,後でじわっとわかってくるような授業もしたいものである。

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教師は各授業で,だれに感謝しているか?

 できない生徒にわかるまで教えてくれた2割の生徒たちか?

 できない,わからないままで終わったのに,苦情を言わない生徒たちか?

 教師は生徒の発表をただ聞いていただけなのに,まともな評価をしてくれると信じている生徒たちか?

 わかる生徒の説明を熱心に聞いていた生徒たちか?

 他の生徒が盛り上がるような答えを発表してくれたムードメーカーの生徒たちか?

 教師の発問に対して,様々なレベルの解答を述べてくれた生徒たちか?

 教師の「代役」となって,板書をしてくれた生徒たちか?

 各生徒の発言をメモして,記録に残してくれた生徒たちか?

 資料の読み取りに際して,新しい視点を提供してくれた生徒たちか?

 授業で役立ちそうな資料を貸してくれた同僚の先生か?

 授業の計画を変更せざるを得ないような,鋭い指摘をしてくれた生徒たちか?

 これら生徒が理解できれば,おおむね他の生徒たちも理解できていることがわかるような生徒たちか?

 授業の感想や,わからなかったこと,新たに調べてみたいことを書いてくれた生徒たちか?

 自分とは異なるものの捉え方,理解の仕方をしていることをわからせてくれた生徒たちか?

 脱線した話を,順を追って元のポイントに戻してくれる生徒たちか?

 脱線するきっかけを作ってくれた生徒たちか?

 「感謝のリスト」をつくり出すと,きりがない。

 生徒の側から,「感謝のリスト」をつくるとどうなるだろうか。

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教師目線でしかない「授業論」を元暴走族が読んだらどう思うか?

 「授業」という枠組みだけで教師の仕事を考えたり話したりすることが許されるのは,採用試験に受かっていない人か,初任者くらいのものでしょう。

 「授業研究」をしている教師たちが本当に楽しみにしているのは,「授業」ではないことを,多くの経験者は知っています。

 教師目線での「授業研究」にしがみついているうちは,子どものことは何もわからないでしょう。

 勉強が好きな子どものことも,嫌いな子どものことも。もちろん,大学のセンセイが「暴走族」のレッテルを貼った少年少女たちのことも。

 教師の立場で「授業」をどう考えるかを語るのは,もちろん無駄なことではありませんし,それを語ってお金をとることも,いけないことではないと思います。

 でも,子どもの立場になってみて,唯我独尊的でわがままな「授業論」を語っている自分を眺めてみたときに,何が子どもの目に映っているのか,想像してみてほしいと思います。

 「おれのせいではない」と言いたいことが,子どもたち全員に伝わっていると思います。

 肌感覚で,「お前じゃだめだ」と子どもの目が言っていることがわかると思います。

 自分勝手に否定している授業が成立していることを,徹底して否定しなければ気がすまないような人間を,子どもは本当の「教師」という立場で見てくれるでしょうか。

 子どもたちを騙すのは,簡単ではありませんよ。

 子どもたちは胡散臭い人間をかぎ分ける最低限の能力を持っていると思います。

 新しい方法にすぐに飛びつきたくなる「軽い」人間たちが,次々に失敗し,

 「失敗しないプロセス」を紹介してくれているのに,それも否定する。

 大前提にしているはずの「お題目」が,本当に白けて見えるのは,だれのせいなのでしょうか。

 コピーに失敗するのは,相手のせいではありません。

 しっかり写し取れないでいること自体は,正常な結果なのです。

 それが今の子どもたちにとっては,大いなる救いになっています。

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正直で無責任な政治家は,好感度を保てる?

 内閣を構成する大臣たちの資質が疑われるとき,首相の任命責任も同時に問われるのだが,今の時代,子どもでも大臣の中には,「官僚の作文を読む人」「官僚のアドバイスがないと話せない人」がいることを,国会中継などを通して見抜いてしまっている。

 「自分にはその力がない」「担当する業務の内容に詳しくない」と自分から表明している人に,だれが期待をかけるのだろう。そもそも,すでに「大臣」に期待をかけるという感覚は日本では失われているのだろうか。

 野党から総攻撃を受けても,さすがに就任後すぐの失言で罷免したとあっては,任命者である首相の立場がない。

 「大臣は飾りに過ぎない」という子どもたちの印象を,どうやったら払拭できるのだろうか。

 今や,「あの大臣は,無知で無責任だけど,正直で好感が持てる」という人もいそうである。

 「嘘をつかない政治家」という姿が,とても新鮮な印象を与えている。

 公的な場では,「言い間違い」ではすまされないことが多々ある。

 だから,「書かれたものをシッカリ読む」ことも大事である。

 ただ,国民の多くは,政治家の「建前」は聞き飽きている。

 もっと「本音の言葉」を聞かせてくれる政治家の出現を待ちわびているのではないか。

 「医療費を削減するために,もっと皆さん,運動して健康な体を作りましょう!」なんていって,

 「運動しすぎて病気になったから,責任取ってくれ」と批判されたらたいへんだ・・・なんて思う人ばかりでは,だれも何も言えなくなってしまう。

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琵琶湖に流れる河川の様子(8月7日22時10分現在)

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 気象庁のHPで「洪水警報の危険度分布」の地図を見ると,現在のところ,琵琶湖周辺の河川が危険な状態になっているようだ。

 下の図は,犬上川の上流当たりだろうか。「極めて危険」な状態にある。

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 彦根市のハザードマップには,上流地域の危険度は示されていない。

 地理院地図を見ると,犬上川が「極めて危険」な状態にある地域には,集落があるようだ。

 地域の方々は,避難されているのだろうか。

 台風の進路に当たるなど,雨が強まっている地域にインターネットが使える小中学生,高校生がいたら,気象庁のHPで,「洪水警報の危険度分布」をチェックしてほしい。

20170807221002

 合わせて,地理院地図ではベースマップの上手に,色別標高図を重ねてみてほしい。

 危険な箇所がある程度,想像できる。

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 氾濫危険情報が出されている鈴鹿川の流域で,多くの河川が合流しているのが次の地域である。

 低地と台地の土地利用の様子がよくわかる。住宅の多くは台地上にあるが,一部,低地にある住宅が気になる。

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美味しくなってきたペットボトルのお茶

 10年以上にわたって,ある地域の茶農家さんから,生徒とともにお茶づくりのことを学ばせていただいているが,かつては「ペットボトルのお茶はお茶ではない」とどの方も口を揃えておっしゃっていたのが,最近は,「ペットボトルのお茶も侮れなくなってきている」という表現に変わってきている。

 私自身も,毎年ペットボトルのお茶の新製品が出るとチェックしてきたが,ここに来て「見た目」より「味」にこだわる製品が出てきて,味もなかなかなものになってきていることを実感している。

 日々,研究が重ねられているのだろう。

 粉末茶の品質も向上してきて,夏などはペットボトルに水を入れ,粉末を混ぜていただくような習慣が定着している地域もあるようだ。

 水道水を使えば,ペットボトル1本分で10円程度で飲めてしまう。

 砂糖が大量に入った飲み物を子どもたちはどんどん飲んでいるが,それほど肥満体型が増えないのが日本の不思議なところである。

 健康な食生活を子ども時代から教えていけば,将来の医療費の削減が期待できるかもしれない。

 20年や30年,50年先のことを考えて,そのころにしっかりとした効果が出せるような教育をこつこつと積み上げていきたいものである。


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「結果を出すためには何でもする」哀しき学校現場

 全国学力調査の「成績」を上げるために,過去問をたくさん解かせたり,各自治体で似たようなテストを実施することが当たり前になってきたようだ。

 このテストのために,本来行われるべき教育ができなくなっていることはみんなスルーして,とにかく「結果を出す」ためにみんなで邁進している。

 学力面だけではない。

 体力テストの結果が芳しくないから,テストの本実施の時期を少しでも遅らせようとする自治体もあるようだ。

 「体力テスト」の種目の練習をする,という学校まであるらしい。

 結果至上主義は,こういう弊害を学校現場にもたらしている。

 このことの何が問題かがわかっていない人間は教育委員会の事務局にもいないはずだが,

 「数字がすべて」という「宗教」は,行政の世界にもずいぶんと浸透しているようだ。

 すべてが劣化に向かっていく社会で,まともな神経を何とか保って,子どもを成長させてあげることができるのは,やはり現場しかないのだが・・・。

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成功したことにしなければならない仕事に求められる「自分に嘘をつかない」力

 教育にも政治にも,「目に見える成果」が求められる時代になった。

 「すぐに成果が出ない政策」に価値がおかれないようになると,

 「すぐに成果が出たことにできる政策」ばかりを宣伝することになる。

 また,「成果が出たことにする」という習慣がついていく。

 「成果が出ていないもの」「成果が疑わしいもの」「成果が不十分なもの」への真摯な態度が失われていく。

 「改善」「改善」「改善」・・・しかないのだが,

 「計画のずさんさ」を指摘されたくない人たちは,問題に目を向けず,とにかく「成功している」と強弁するための材料を探してしまう。

 広範囲で大規模な「地盤沈下」が起こったときには遅い。

 本当のチェック機能を果たせる人が,組織から閉め出されることは,組織にとって損失だったということに気づいたときには遅い。

 いずれ,前を向いても後ろを向いても,右や左を見ても嘘つきだらけ,というある時代の日本に後戻りしていたことに気づいたときには遅い。

 失敗に気づけることに価値をおく教育を捨てないことで,同じような価値を大事にする政治を守っていける国になることにつながってほしい。

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おいしいコメント

 久しぶりに,「舐めとんのか老害」さんという方から手厳しいコメントをいただきました。

 教師のコンピテンシーを考える上で,とても参考になるコメントです。

 部活と成績処理,学級経営の3点セットが例示されているあたり,中学校らしい感じがします。何も大阪府の特徴とは限りません。

>雑務は雑務だろw何様だよwww
>部活にしろ成績処理にしろ学級経営にしろやる事溢れかえってるのに、
>やれ手書きにしろ仕事を能率化するなとか頭大丈夫か?
>怨霊云々は老害テメーだよとっととくたばれボケナス
>あと日和ってねぇで米欄はよ開示しろハゲ

 大阪に限らず,この程度の言葉遣いは,教師の日常レベルの一般的な会話で発せられるものであるかもしれません。ただ,あの議員さんの言葉がネットで泳ぎだしている今,少々現場でも意識せざるを得なくなってきていますね。

 こういう言葉遣いの人間に教師がつとまるのか?という批判がしたい人にとっては,願ってもない「おいしい」サンプルになってしまっています。

 子どもがICレコーダーをどこかの雑誌記者に持たせられて,特定の教師が標的になりかねない時代になってきました。お互いに気をつけたいものです。

 さて,もとになっている記事を読み返すと,書いた当時の私の感覚は,今でも変わっていない気がします。

 学校の教師も多忙感がありますが,それよりはるかに忙しく,しかもある教師から見れば「雑務」でしかないことだけをしなければならない,という仕事はいくらでもあるわけです。

 教師がしている「雑務」にあたるものは,実は子どもはもちろん,教師自身を「守る」ために役に立つものが多いのです。

 一見して「くらだない」と思われるような文書も,いざというときに発揮する威力はとてつもなく大きかったりします。

 たとえば,いじめの聞き取りをした内容は,時系列や個別にきちんとまとめて,整理して教員間で共有化をしますよね。

 これがあるのとないのとでは,ある特定の場面では,決定的な違いになってきます。

 情報共有のための文書化などは,ある人から見れば「雑務」でしょうが,

 別の人から見れば「命綱」になる可能性があります。

 教員も公務員であり,文書主義という行政の大原則が適用される法的空間の住人です。

 「俺の頭の中に入っている」では,第三者には何もわかりません。

 みんな,心の中では同じようなことを思っているわけでしょうが,

 「いざ」という場面を経験した人と,未経験の人とでは,「雑務」の捉え方に雲泥の差があることをご理解下さい。

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向かうところ,敵なし

 「1強」と呼ばれる立場になれるのは,どうしてか。

 「他より圧倒的に強い」と言えるのは,原因ではなくて,結果に過ぎない場合もある。

 他が圧倒的に「弱い」ときに,自分が強くなくても,「1強」になれる可能性がある。

 プロ野球で最下位の球団でも,高校野球の大会に出たら,優勝がのぞめるに違いない。

 「強弱」とは相対的なものであり,パイの取り合いでは,

 「他がダメだから結局は自分のものになる」という結果が起こる。

 その典型を政治に見ることができた。

 教育の世界でも,似たようなことが起きている様子を目にすることができる。

 信じられない粗悪な実践事例が書籍化されているのだが,今の時代は粗悪品だから出版できるという事情があるようだ。

 何の準備もいらない授業実践が可能であるならば,飛びつきたいという教師が多いからである。

 最も大きな問題は,「適正な自己評価」の能力が欠けていることにある。

 ある政党もそうだし,他からの批判をまともに受けることができない人たち全てに共通するのがこれである。

 向かうところ,敵なし。

 良い意味ではなく,「学ぶ友なし」という「孤独」の意味を感じさせたい言葉である。

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やはり,「一人も見捨てない」という言葉の正しい意味は,「俺以外の人間が見捨ててきた子どもは,俺は一人も見捨てない」という意味だった

 現在の教育システムは早く崩壊した方がよい,と主張する大学のセンセイがいます。

 退職が近づくにつれ,嫌気が指している今の大学やその同僚たちへの悪態の口数も,さらに増えてくるのでしょう。

 成績が上位2割と下位2割の子どもに,今の教育システムは対応していない。

 だから,崩壊してしまえ。

 この薬は,6割の人にしか効果がないから,捨ててしまえ。

 その代わりに,今まで薬が効かなかった4割の人に,もっと運動をさせろ。

 薬は使わない。

 ・・・薬をたとえに使うと,どこか「良さそうな感じ」もしてきますね。医療費の削減を大前提に考えるのであれば,6割の人を救ってきたものを廃棄して,救われなかった人たちには「自己責任」を押しつけてしまうという方法がとても魅力的に感じます。

 教育研究の専門家が怠ってきたというか,能力がなくて開発できなかったのは,

 「お金をかけて教育の成果を出す」という仕組みの提案です。

 タブレットを導入すれば,成績が上がる,などというのはただの幻想ですし,
 
 電子黒板を使えるのが,限られた教師の限られた授業では,意味をなさないでしょう。

 私が使ってみた感想から言えば,電子教科書も,今のシステムでは,現場ではほとんど機能しないでしょう。

 なぜなら,電子教科書は教師が使うことを前提に作られているからです。

 子どもが使うことを前提として電子教科書を作らないのは,なぜでしょうか。

 教科書会社の生命が脅かされるからでしょうか。

 紙の教科書は貸し出し方式にして,学校に備え付けにする。

 電子化された教科書に,アンダーラインを引いたり,自分で問題集化してしまったり,課題の答えを記入していったりするなど,「学習履歴」の電子データが逐一集まる仕組みをつくれば,本人確認さえしっかりできていれば,評価の手間も相当省けます。

 しかし,そういう提案を実現できる力のある政治家がいない。

 教員養成の仕事をしている人たちがやっていることは何でしょう。

 教材作成能力が鍛えられない教員養成系大学を出ても,現場の教師として役に立たないのです。

 社会学のまとめのプレゼンを頑張った人,歴史学の現地調査のレポートを上手に仕上げた人,統計学の課題を毎時間きちんとこなしていた人たちが,現場で活躍できるのです。

 これからの教育はこうでなくてはならない,一斉授業はこうだからだめだ,なんていう理想論を延々と一斉授業で聞いてきただけの人間は,現場では本当に役に立たないのです。

 私がかかわってきた優秀な教師たちはなぜか,教育学部以外の学部の出身の人ばかりです。

 そして,逆に,この人,ダメだな,現場では使いものにならないな,と感じる大学のセンセイは,みんな,教育学部の出身の人ばかりです。

 教育学部というところに,本質的な問題があることは,私の個人的な感覚からは明らかすぎることで,実はその世界に入って検証することが可能なチャンスがあったのですが,今ではそれが実現できないかったことにほっとしている次第です。関係者の方には,多大なご迷惑をおかけいたしました。心よりお詫び申し上げます。


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代休がとれない

 一昨日まで,8日間連続の出張となった。

 前半に4泊5日の宿泊行事の引率があり,帰って日帰り出張があって,そのあと1泊2日の出張。

 今週末には3日間の出張がまっている(宿泊はなし)。

 教育現場にいなければ(行政にとどまっていれば),こんなに出張が続くことはなかった。

 私が指導主事の仕事なんて,「激務」とは言えない,と書いている理由の一つがこれである。

 どこかの研修会に出張したとしても,本番は2時間半程度で,後は報告書をまとめるだけ。

 もちろん研修で出張している間に,処理しなければならない書類はたまっていくが,1m以上の山になることはないだろう。

 学校現場では,生徒から作品やノートを集めたりすると,1日で1m以上の山ができてしまう。
 
 夏休み中の仕事の代休が夏休み中にとれないほどでも文句を言わないくらい,日本の教師は学校と子どもが好きなのである。

 本を読む時間を,1日3時間は確保できるのが,夏休みのよいところか。

 「夏休みがあるから教師になりたい」と思っている人には,一考をうながしたい。

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観点別評価の「C」とは,「努力を要する」という意味で,評定の「1」とは,「一層の努力を要する」という意味です。

 通知表(学期の終わりに,担任の先生から手渡される,子ども本人や保護者に向けての学習や生活に関する「評価」の「お知らせ」)の記載は,あくまでも「仮」のもの。

 「本物」は,学年が終わるときに作成される「指導要録」である。

 学期の途中では,まだ学習指導要領に示された目標と内容の「一部」しか実施していないわけだから,「途中経過」としての「評価」や「評定」が知らされるわけである。

 評定の「1」については,どのようなメッセージが込められているのか。

 数字が気になるのなら,「一層の努力を要する」と言葉で表現してあげればよい。

 「一層の努力を要する」必要があることに気づけない子どもはいないから,納得するしかないだろう。

 この「評定」は,「観点別学習状況の評価」をもとにつけられることになっており,

 すべての観点で「C」=「努力を要する」という評価がついた場合には,

 評定は「2」=「努力を要する」か,「1」=「一層の努力を要する」のどちらかとなる。

 保護者に理解が得られにくいのは,すべて「A」なのに「5」がつかないケース。
 
 「A」はあくまでも「4」という評定と同じ意味の評価(「十分満足」)だということが理解されにくい。

 だから「4」をつけたい生徒には,わざわざどれか1つの観点だけ「B」にしてしまうという学校もある。

 こういう「措置」は「苦情を避けるため」だけのものであって,もし本当だったら「不正な操作」である。

 こうした評価や評定の説明は,入学時や,学期の始めに保護者と子ども本人の両方に伝えておくのがよいだろう。

 中学校の全課程を修了したときに示される「評価」や「評定」は実は存在しないの(第3学年の「評価」「評定」として出されるのみ)だが,各学年の推移を見れば,だいたいわかる。

 自分自身の学校生活をふり返って,子どもでも自分の「評定」がだいたいわかる,という教育をすることが,「教師」と「子ども」がつながっている学校だったという証拠になるだろう。

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夢をもてる人間をなくすための教育法

 夢を叶えることは,難しいものである。

 簡単に叶えられてしまうようなことは,「夢」ではなかった,ということになる。

 大学教授になる,という「夢」を持つ子どもはいなくてもよいのだろうか。

 「高い地位はなれる人が限られており,競争に勝たないといけないから,そんな夢は持ってはいけません」と説得する教育者がいたら,どう思うだろう。

 「気がついたら大学教授になっていた」という人はいない。

 「気がついたら富士山の山頂に立っていた」という人がいないように。

 ほとんど身内しか読まない論文を大量生産して,やっと頂上まで上がれる人間はごく一部である。

 ポストがあくまで,低所得で我慢し続けなければならない立場の人が大学にはたくさんいる。

 ポストがあいても,自分が必ずそこに立てるとは限らない。

 「全員の夢を叶える」という発想自体がおろかな例は他にいくらでもあるだろう。

 「全員に夢を持たせる」ことはできる。

 しかし,そういう発想自体を持っていない人がいる。

 「全員を見捨てない」(実際には「オレの主張に賛同する人の子どもだけ」いう意味なのだが)という発想は,実際には「全員に夢を持たせないようにする」という意味となる。

 「1番になる」という夢は持たせない。

 「Aくんに勝つ」という夢も持たせない。

 「ここで優勝する」という夢も持たせない。

 競争=悪という思想を植え付ける。

 いまでもイデオロギーの亡霊が大学にさまよっているのは,

 ごく少数の「勝者」の側に立てた人間が,

 最後に残された承認欲求を満たそうと躍起になっているからである。

 共産主義の本場に行って,自分の教育法が通用するか,試してみてほしい。

 「自分のクラスの生徒だけを見捨てない」という発想の人間には,考えつきもしないことだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より