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評定で「1」がつく中学生はどのくらいいるのか?

 日本の義務教育のシステムは,学校に通わなくても,あるいは,学業成績が不振でも,時間がたてば自動的に「卒業」できる仕組みになっている。

 不登校生徒の場合,担任教師が献身的に授業の記録を自宅に送ったり,教科担任の何人かがノートのやりとりをしたりする場合もあろうが,学校の教師との接触を完全に断ち切ったまま卒業を迎える子どもも少なくはない。

 非常に微妙な空気が流れる,校長室での卒業式の光景は想像できるだろうか。

 1日も登校できなかった子どもが,卒業式の日だけ,他の生徒たちが下校した後に学校にやって来て,少人数での「卒業式」を実施し,校長先生から「卒業証書」を手渡される。

 通知表など,何も書くことがないものも,形式的に渡される。

 日本の教育の課題の一端を一般の方も考えさせられる一場面ではないだろうか。

 東京都が公表している12月までの5段階評定の分布を見ると,

 評定で「1」がついている生徒の割合は,おおむね3~4%程度である。
 
 墨田区のある学校は突出して「1」がついている生徒の割合が高く,多くの教科が14%前後である。

 江東区や足立区のある学校では,数学で「1」がついた生徒の割合が17%~18%台であった。

 足立区では英語で2割の生徒が「1」である学校もある。

 おそらくは,すべてが不登校の生徒ではないだろう。

 そもそも,都立高校入試に際して,不登校の生徒のうち,評価資料がない場合は,「評定不能」として提出することが可能である。

 目標に準拠した評価になってから,5段階の評定のインフレが続き,「5」はそれほど多くなくても,「4」(十分満足)の生徒の割合が高くなっている。

 だから「1」がほとんどいない学校もあるが,何がどこまで「できない」と「1」になるかの共通した明確な指標はないため,不登校でなければ「2」がつくところも少なくないだろう。

 それでも「1」がつく中学生は相当数存在している。

 学力面の裏付けがなく,高校に進学する生徒も多いため,当然,中退率も高くなっている。

 登校しているにもかかわらず,評定が「1」になっている生徒の学力を「2」や「3」に引き上げるためには,どうしたらよいのか。

 私は社会科の教師だが,ある学校で,数学と英語を夏休み中に教えてあげたことがある。

 「2」の子どもは「3」になるが,「1」の子どもはなかなか「2」のレベルに達しない。

 当日できていたことも,次の日にはできなくなっている。

 素人の良さが生かされることもあるが,子どもも含めてやはり素人にはできない仕事がある。

 成績が良い子が教えればよいのではないか,と主張する人もいる。しかし,この方が「わかったふり」を子どもがしやすくなる傾向が強くだけでなく,教える側にかかる負担が大きい。

 「1」の生徒がいる学校で,「5」がもらえる2割の生徒が大活躍し,成績を向上させることができると豪語している人もいるが,残念ながら,教育現場はそれほど甘いところではない。

 「家庭に問題がある子どもはダメだ」なんて「例外規定」を定めている人もいる。こういう人は死ぬまで閉じた空間で議論し,役に立たない本を出版していれば,それでよい。いずれだれの記憶からも消えてなくなる。

 学校現場では,改めて,学習指導要領ではどのような内容とどのような能力を身につけさせることが示されているか,しっかりと確認する作業が必須になってくる。

 今から15年ほど前,総合的な学習の時間の実施にあたり,子どもにつけさせるべき学力をしっかりと考え,子ども自身がじっくりと学べるカリキュラムを実践することができた人には,改めて説明するまでもないだろう。

 教員になったとき,すでに総合的な学習の時間の指導が始まっていた人にとっては,教育課程づくりの根本を学ぶ機会を用意してあげるべきである。

 自分自身が総合的な学習の時間の学習をしてきて,そのねらいとする力を身につけてから教師になった人には,改めてどういう学力が大切なのかを考え直してほしい。

 評定の「1」の「重み」は,信じられないくらい「重たい」ものになってくるはずである。

 小中連携が機能するかどうか,その意味があるかどうかも問われるべき重大な課題である。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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