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教師はエネルギーを誰からもらっているか

 言うまでもなく,教師は子どもたちから尽きることのないエネルギーをもらって生きています。

 教師の中に,年齢よりも若く見える人が多いのは,吸血鬼のように子どもから若さのもとになるエネルギーを吸い取っているからです。

 しかし,残念ながら,そういうエネルギーの吸収の仕方ができない教師,つまり,子どもたちとの望ましい関係が築けない教師がいます。

 「どうして先生になったの?」と真剣に考えてあげてしまいたくなりますが,子どもからエネルギーをもらえない教師は,見る見るうちにしぼんでしおれて枯れていってしまうので,その悪影響は子どもたちにも及んでいきます。

 ある人は,教師はいつも笑っているべきだと言いますが,教師はいつも笑顔でいる必要はありません。

 口元が緩むことはあるでしょうが,口は笑っていても目は笑っていない,場面場面によっては,そういう姿を見せつけるのも大人の役割です。

 ある学校が荒れ果ててどうしようもなくなったのは,注意すべき場面で教師が笑っていたのが原因だと考えられています。

 さて,夏休みに入って,元気がなくなるのも教師らしいところではないでしょうか。

 私の近くにもそういう教師が何人かいます。

 私は3年間,行政にいたのですが,その間は,エネルギーを使うだけでほとんどの時間が終わってしまいました。

 今日もある用事で役所の39階に行ったのですが,ここにあと1年か2年いたら,ミイラになっていたかもしれません。

 管理職がどことなくみんな暗く,固い雰囲気になってしまうのは,子どもとの距離が離れたからではないでしょうか。

 東京都のように,管理職の数が絶対的に足りなくなっている自治体では,子どもとの関係性が切れずに,エネルギーをもらい続けることができる仕組みが必要になってくるでしょう。

 行政が管理職を管理しようとする姿勢が強すぎれば,現状のようになることははっきりとわかっていたはずです。

 校長会や教頭会で生き生きとしていた人はいませんでした。

 残念だったのは,学校に戻っても同じような表情だった管理職がいたことです。

 抜本的な改革案をいくつか思い浮かべることができましたが,それを実現できそうなのが教育長ではなく,知事であることがとても悲しいことではあります。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より