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東京大学に入れなかった人間が書いている妄言

 ときどき,東京大学やそこで学ぶ学生のことを何も知らないでものを書いている人が見かけられます。

 その多くはただの妄言であり,自分の憶測を,自分がいつも言っていることの正当性を補強するために言っているだけであって,「真実」なり「実情」を知っている人間が読めば,「ああ,こいつの言っていることは嘘ばっかりだな」というのがバレてしまうのです。

 甲子園優勝監督が個人指導すれば,イチローのような選手は生まれるのか?だって・・・。

 おバカなたとえです。1年ごとに,プロ野球選手になれる人の人数と,東大に合格できる人の人数を比較してもらってもかまいません。

 イチローだって,プロになった1年目は,どんな選手だったかご存じですか?

 「育てる人はいらない」なんていう妄言は,いろいろな人に対して失礼なのです。 

 だれとは名指ししませんが,ぶろぐ村によく訪れる方,この「教育論・教育問題」に立ち寄られる方なら,妄言のぬしがだれのことか,おわかりになることでしょう。

 インターネットの掲示板のように,「同じ程度」の人が憶測だけを交換する仕組みならそれでいいと思いますが,一応,自分の名を名乗り,教育の仕事をしている,国立大学法人の関係者が,

>要領のいいやつだから東大に入れた。

>東大に入れるような子どもは,教師は何もしなくていい。ほおっておけ。

>東大に入れないレベルの人間(成績が中の上程度)には,東大に合格させられるような勉強を教えることはできない。

 なんていうことを平気で書く神経が信じられません。

 周囲にいる人間が,要領の悪いのばかりで嫌気がさしている。

 そういう人間がいくら「教える努力」をしても,無駄である,という個人的な「信念」を曲げたくない。

 そういう気持ちは理解できます。

 だからといって,いい加減なことを書いていいわけではありません。

 「お前らは頭が悪いんだから,頭がいい教師がやっているタイプの授業はするな」

 と言っているようなもの(というより,それを強要しようとしているもの)です。

 国立大学に入れるような学生は,文系でも一応,ある程度,数学ができるわけです。

 そういう学生に対しても,「お前は東大生と違って,要領が悪い。要領が悪いお前達が教えても,ろくな結果にはならない」と言うわけです。
 
 このセンセイに近づけるのは,「オレはバカだ」ということを誇りにしている殊勝な人だけということになる。

 私も,それなりに情報を集めました。

 その結果,「お前は東大生には遠く及ばない」といわれているレベルの教師が,勘違いさせられて行っている授業の多くは,子どもたちに教師の「勘違い」を伝染させています。その悪影響がいつから拡大し,常態化するかわかりませんが,それを食い止める力になっているのが,

>私にも東大に限らず,志望する大学に入れる学生を育てられる指導力を身につけることができる

 という普通の教師たちの「信念」です。

 「教える」ことへの情熱と,「学ぶ」ことへの情熱がリンクしたところに,何があるかを知りたい人が,

 「そこには何もないぞ。膨大なデータがそれを証明しているぞ」と幻滅させてくる人間に近づきたがるでしょうか。

 離れていた方が,よいでしょう。

 もちろん,「時間をかければ何となる」なんていうレベルでは,逆立ちしても東大には入れないかもしれません。

 ただ,学習指導要領に示されている目標を達成できるような授業をすれば,東大に合格するための手がかりをつかむチャンスを与えることは不可能ではないのです。

 「深い学び」を授業で展開できるような教材研究は,無駄にはならないのです。

 中学校の学習指導要領が示している歴史学習が,実は東大合格の近道であることに気づいている,東大出身ではない教師の人たちは,それなりに存在しているはずです。

 こういう教師を近づける空気を持たない大学が,いつまで存続できるかの方に私の興味はあります。

 何でも,ある制度に応募した人は,ゼロだったとか。だれの責任か,言うまでもないでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より