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2017年7月

大学教授の「体罰」「パワハラ」の原因を考える

 教員になりたてのころ,初めて研究会に参加して知り合いになった先生が,私を後任として引っ張ってくれようとしたことがあった。当時はまだ,一本釣りで教員を確保することが可能な学校があった。

 この方が国立大学の先生になられた後,授業でふざけた態度をとった学生を投げ飛ばした,という話を人伝に聞いた。

 大学では「体罰」ではなく「暴行」と呼ぶようだが,そういうことができる先生に認められたことは嬉しく思っている。

 別の国立大学で同じようなことが起こって,すでに処分の内容も合わせて発表されている。

 マンガのように気合いが入ったセンセイなのか,ただのオッサンなのかはわからない。

 私の心配は,学生の側の問題ではなく,何かの成果を出すのを強制的に求められたり,どうでもいい書類を書かされたりしたストレスが原因ではないか,ということである。

 本当にどうでもいい事務的なことに費やされる時間が増えたのは,たいてい,「事故」のせいである。

 「事故」を防ぐために,「事故」が起こったとき以上の煩雑な手続きが必要になる。

 「事故」を防ぐためにしなければならない行動のストレスが,「事故」を生む。

 最悪の悪循環である。 

 国立大学の先生たちが今,不満たらたらであろうことが想像できる。

 でも,もしそれが原因で学生に八つ当たりしているようなら,やめていただきたい。

 また,どうしようもない学生には,単位を与えなければよいだけだ。

 公表しているポリシーに合っていない学生を取ったのが原因かもしれない。
 
 努力もせず,成果も出さずに学位がとれてしまうような大学は,国立でもつぶれた方がよい。

 停職期間中に「今の大学生はこんなだ」なんていう暴露本でも書いてくれれば,読んでみたくもある。


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つぶし役の必要性

 行き過ぎた生活指導が引き起こす問題が多く指摘されるようになっているが,

 生活指導が成立していない学校から上がってくる小学校7年生を何とかまっとうな中学生に育てるためには,たとえば,うそを平気でつき通すような習慣だけは消してあげるような「つぶす」指導が必要になってくる。

 行き過ぎた生活指導とは,子どもそのものをつぶしてしまうものを言う。

 「今の子どもたちはみんな弱い」という先入観があるために,

 多くの学校では,「及び腰の生活指導」やそもそも指導をする意欲も能力もない教師の存在が問題になっていることだろう。

 だから成長するきっかけ,自分を見つめるきっかけを得られないまま上級校に進学していく子どもが多くなっている。

 学校,学年には,「つぶし役」の教師が必要である。

 人間にではなく,行為に対して怒っていると子どもに理解させるのが「つぶし役」の役割である。

 悲しいことは,人間ごと否定してかかるセンセイがどこにも一定数存在してしまうことで,

 生活指導を傍観して,後で評論家のように偉そうなことを言ったり,

 指導の尻馬に乗ったようなかたちで余計な言葉を子どもに投げつけたりすると,

 せっかくの指導も台無しになってしまう。

 生活指導を行うときには,自分はもちろん,教師たちの特性の把握が不可欠である。

 フォロー役がいない場合は,「つぶす指導」をあきらめざるを得なくなるときもある。

 「つぶす指導」で傷つけられた自尊心を修復し,むしろ自尊心を回復させたり,生成させたりすることができる教師は欠かせない。

 学級担任とのかかわりが中心である小学校では,こういうチームプレーがやりにくいから,どうしても「個人」で完結するような指導のマニュアルばかりがはやっている。

 もちろん,一人で「つぶす指導」から「自尊心を生成させる指導」までを完結させられる教師が大勢いればよいのだが,それが難しいことは,かつて日本で当たり前のようにあった「家族」のドラマを見ればわかりやすいだろう。

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やるべきことをやりきることの難しさ

 学校の道徳がなぜ嫌いになるのか,普通の大人ならわかることでしょうが,コミュニケーション能力とか他人の感情がよく理解できない子どもが,道徳の学習に「はまって」くれるケースがあります。

 「教科書にこう書いてあるから大事だ」

 「先生が言ったことだから守らなければならない」

 こういう子どもばかりだった時代に,日本は戦争で多くの若者を失いました。

 やるべきこと,守るべきことは,生活の中から発見していく,

 そういう社会科の授業を真面目に考えている人たちに限って,

 なぜか道徳の授業がそうはならない。

 不思議なものですが,「教科書に書いてあることを教える」というのは,

 それがすべてではないとわかっている勉強家でも陥りがちな姿なのです。

 学校運営でも,おもしろい現象が起こります。

 それはやらなくてもいいこと,どうでもいいこと,というのはみんながやろうとして,

 これをやらずしてどうするという大切なことはスルーしてしまう。

 その対照がものの見事にセットになっているとき,

 教育は死んでいくのです。


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評定で「1」がつく中学生はどのくらいいるのか?

 日本の義務教育のシステムは,学校に通わなくても,あるいは,学業成績が不振でも,時間がたてば自動的に「卒業」できる仕組みになっている。

 不登校生徒の場合,担任教師が献身的に授業の記録を自宅に送ったり,教科担任の何人かがノートのやりとりをしたりする場合もあろうが,学校の教師との接触を完全に断ち切ったまま卒業を迎える子どもも少なくはない。

 非常に微妙な空気が流れる,校長室での卒業式の光景は想像できるだろうか。

 1日も登校できなかった子どもが,卒業式の日だけ,他の生徒たちが下校した後に学校にやって来て,少人数での「卒業式」を実施し,校長先生から「卒業証書」を手渡される。

 通知表など,何も書くことがないものも,形式的に渡される。

 日本の教育の課題の一端を一般の方も考えさせられる一場面ではないだろうか。

 東京都が公表している12月までの5段階評定の分布を見ると,

 評定で「1」がついている生徒の割合は,おおむね3~4%程度である。
 
 墨田区のある学校は突出して「1」がついている生徒の割合が高く,多くの教科が14%前後である。

 江東区や足立区のある学校では,数学で「1」がついた生徒の割合が17%~18%台であった。

 足立区では英語で2割の生徒が「1」である学校もある。

 おそらくは,すべてが不登校の生徒ではないだろう。

 そもそも,都立高校入試に際して,不登校の生徒のうち,評価資料がない場合は,「評定不能」として提出することが可能である。

 目標に準拠した評価になってから,5段階の評定のインフレが続き,「5」はそれほど多くなくても,「4」(十分満足)の生徒の割合が高くなっている。

 だから「1」がほとんどいない学校もあるが,何がどこまで「できない」と「1」になるかの共通した明確な指標はないため,不登校でなければ「2」がつくところも少なくないだろう。

 それでも「1」がつく中学生は相当数存在している。

 学力面の裏付けがなく,高校に進学する生徒も多いため,当然,中退率も高くなっている。

 登校しているにもかかわらず,評定が「1」になっている生徒の学力を「2」や「3」に引き上げるためには,どうしたらよいのか。

 私は社会科の教師だが,ある学校で,数学と英語を夏休み中に教えてあげたことがある。

 「2」の子どもは「3」になるが,「1」の子どもはなかなか「2」のレベルに達しない。

 当日できていたことも,次の日にはできなくなっている。

 素人の良さが生かされることもあるが,子どもも含めてやはり素人にはできない仕事がある。

 成績が良い子が教えればよいのではないか,と主張する人もいる。しかし,この方が「わかったふり」を子どもがしやすくなる傾向が強くだけでなく,教える側にかかる負担が大きい。

 「1」の生徒がいる学校で,「5」がもらえる2割の生徒が大活躍し,成績を向上させることができると豪語している人もいるが,残念ながら,教育現場はそれほど甘いところではない。

 「家庭に問題がある子どもはダメだ」なんて「例外規定」を定めている人もいる。こういう人は死ぬまで閉じた空間で議論し,役に立たない本を出版していれば,それでよい。いずれだれの記憶からも消えてなくなる。

 学校現場では,改めて,学習指導要領ではどのような内容とどのような能力を身につけさせることが示されているか,しっかりと確認する作業が必須になってくる。

 今から15年ほど前,総合的な学習の時間の実施にあたり,子どもにつけさせるべき学力をしっかりと考え,子ども自身がじっくりと学べるカリキュラムを実践することができた人には,改めて説明するまでもないだろう。

 教員になったとき,すでに総合的な学習の時間の指導が始まっていた人にとっては,教育課程づくりの根本を学ぶ機会を用意してあげるべきである。

 自分自身が総合的な学習の時間の学習をしてきて,そのねらいとする力を身につけてから教師になった人には,改めてどういう学力が大切なのかを考え直してほしい。

 評定の「1」の「重み」は,信じられないくらい「重たい」ものになってくるはずである。

 小中連携が機能するかどうか,その意味があるかどうかも問われるべき重大な課題である。

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「多様性を理解していない」と主張する人に見られる傾向

 多様性を理解していないやつらがいる,本当にダメなやつらだ,という主張を耳にする。

 こういう主張をする人間はたいてい,考えが直線的で,何か一つの大きな妄想や強迫観念にとりつかれている。

 子どもの側の思考の多様性を理解せずに,一律に,こうすると一部の子どもはこんなふうに感じる,こういうふうになる,などと決めつける。

 「成績の良い子」「悪い子」に分類して,「良い子」に責任を持たせるような考え方などは現場感覚で言えば「甘すぎる」教育観である。

 一斉授業の捉え方も非常に一面的であり,「一斉授業=悪」という印象操作を徹底して行っている。

 ある動画では,自分自身の主張していることが一般には理解されにくいことである,という趣旨のことを,ここでは書けない言葉で表現していた。自ら不適切な言葉で表現する学習方法を必死に宣伝する「一斉授業」の映像がたくさん公開されているのも興味深い。まわりが「引いている」様子がひしひしと伝わってくる。

 こういうタイプの人の一斉授業を聞いている側は,いろいろな意味で本当につらいものだろう。


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教師はエネルギーを誰からもらっているか

 言うまでもなく,教師は子どもたちから尽きることのないエネルギーをもらって生きています。

 教師の中に,年齢よりも若く見える人が多いのは,吸血鬼のように子どもから若さのもとになるエネルギーを吸い取っているからです。

 しかし,残念ながら,そういうエネルギーの吸収の仕方ができない教師,つまり,子どもたちとの望ましい関係が築けない教師がいます。

 「どうして先生になったの?」と真剣に考えてあげてしまいたくなりますが,子どもからエネルギーをもらえない教師は,見る見るうちにしぼんでしおれて枯れていってしまうので,その悪影響は子どもたちにも及んでいきます。

 ある人は,教師はいつも笑っているべきだと言いますが,教師はいつも笑顔でいる必要はありません。

 口元が緩むことはあるでしょうが,口は笑っていても目は笑っていない,場面場面によっては,そういう姿を見せつけるのも大人の役割です。

 ある学校が荒れ果ててどうしようもなくなったのは,注意すべき場面で教師が笑っていたのが原因だと考えられています。

 さて,夏休みに入って,元気がなくなるのも教師らしいところではないでしょうか。

 私の近くにもそういう教師が何人かいます。

 私は3年間,行政にいたのですが,その間は,エネルギーを使うだけでほとんどの時間が終わってしまいました。

 今日もある用事で役所の39階に行ったのですが,ここにあと1年か2年いたら,ミイラになっていたかもしれません。

 管理職がどことなくみんな暗く,固い雰囲気になってしまうのは,子どもとの距離が離れたからではないでしょうか。

 東京都のように,管理職の数が絶対的に足りなくなっている自治体では,子どもとの関係性が切れずに,エネルギーをもらい続けることができる仕組みが必要になってくるでしょう。

 行政が管理職を管理しようとする姿勢が強すぎれば,現状のようになることははっきりとわかっていたはずです。

 校長会や教頭会で生き生きとしていた人はいませんでした。

 残念だったのは,学校に戻っても同じような表情だった管理職がいたことです。

 抜本的な改革案をいくつか思い浮かべることができましたが,それを実現できそうなのが教育長ではなく,知事であることがとても悲しいことではあります。

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子ども不在の教師教育論の無意味さ

 元小学校教師と中学校教師の対談本を読んでいるのだが,冒頭3分の1は若い教師たちへの愚痴のオンパレードであり,よくこんな本が出版できたものだと驚いている。

 お互いに同じような「商売」をしている関係からか,最も大事なことには踏み込んでおらず,だれでも感じていることを確認し合っているに過ぎないやりとりは,読者の「時間泥棒」である。

 そもそも小学校の教師と中学校の教師がガチで議論する場など,ほとんどない。

 この本への私の期待は大きかったのだが,非常に残念である。

 本を大量に購入して読んだり,セミナーや研究会に参加したりしなければ,まともな教師にはなれないことを若い教師に納得させるような効果しかもたないのではないか。

 冒頭で「偉そうに俺たちを呼ぶんじゃない」「金を準備しておけ」などと主張しておきながら,実際には自分も同じようなことをしていることを対談で暴露している。

 こういう人に影響を受けている教師たちが気の毒でならない。

 
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政権が揺らいでも,日本で揺らがないもの

 現在の政権が発足するまで,日本の内閣総理大臣はころころと変わり,まるで戦前の東条英機内閣以前の内閣のようでした。

 私は日本軍に関ヶ原の戦いの西軍のDNAが引き継がれているとは思っていませんが,

 長州の勢力には,どこか物足りなさを感じていました。

 「詰めが甘い」というか,ところどころで「本気なのか?」と感じてしまう動きがあります。

 日本は独裁国家ではないので,政権が揺らいでいるといっても,日本という国自体が揺らぐことはありませんが・・・。

 今の時代,「組織の失敗を嘘で塗り固めて隠そうとする意識」が「組織を滅ぼす」ことに気づけない人はいないはずですが,「選挙の期間」を1サイクルと見て利害を考える政治家たちを助けようと,企業のモノ真似をして短期の「成果」を求めようとする官僚たちが余計なことをして,結局は政治家の命を縮めている・・・・そういう悪循環は将来のためにはなりません。

 強い相手には弱い態度でしかいられないくせに,いったん相手が弱り始めたら強く出る・・・これが日本で揺らがない××の姿勢だ・・・なんていうのも情けないことです。

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保護者との面談は録音される時代に

 保護者が教員との面談の内容をICレコーダーなどで録音し,保護者間での情報共有の手段として利用される時代になった。

 いじめや体罰などの学校側の説明を録音する保護者も増えていくだろう。

 「飛び降りろ」発言の小学校教師と校長の謝罪の音声が,マスコミを通して公開されている。

 保護者が自らの判断で録音し,マスコミに情報提供したのか,

 マスコミがあらかじめICレコーダーを渡して,録音するように保護者に頼んだのか,

 そのあたりの事情は分からないが,こうしたやりとりは,

 たとえば保護者側が裁判を起こしたりするときの資料にする時代になっていくのだろう。

 学校の日常生活が「可聴化」されるのも時間の問題だろう。

 場合によってはカメラも設置され,「可視化」されるようになるのだろうか。

 日常的な声かけや面談の内容に関する情報をやりとりされて学校側が少しやりにくくなるのは,

 子どもの個性や現状を踏まえて,面談などの言葉を使い分けている場合である。

 ある子には「叱咤激励」し,ある子には「激励」だけする。

 「差別ではないか!」と批判されかねない。

 保護者の中には,自分の子どもに教師がかける言葉と,他人の子どもにかける言葉を比較したがる人がいる。

 過去に自分が体験した差別の経験が,子どもに対する「保護欲求」に結びついているのだろうか。

 私は面談を録音した経験がないが,「罪の意識,罪悪感を強く感じる」ことが録音しない理由である。

 会社でも,上司の言葉を部下がみんな録音する時代になることは,

 「働き方改革」にどのように寄与するのだろう。

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小学校に通わないのが当たり前の時代が来る?~英語で一流を育てる

>長い人生で,その単語をいま読み間違えたことは大きな問題ではありません。笑い飛ばせる余裕を持ちます。

 これは,読書編でご紹介した『英語で一流を育てる』(ダイヤモンド社)に掲載されている,「子育て完全保存版マニュアル! これだけ11のルール」のうちの一つです。  

 義務教育での本当の意味での学力向上が十分に果たせないでいる大きな原因の一つが,「知識の正確性重視」の教育です。

 「知識偏重」という表現は正しくありません。なぜなら,小学校や中学校で教える「知識」の量など,たいしたものではないからです。

 ただでさえ少ない「知識」のわずかな部分の「正解」を,大人数で確認し合うなど,愚の骨頂です。

 日本の学校教育が陥っているのは,少ない知識の「正確性」ばかりを重視する姿勢です。 

 たとえば,小学校では,送り仮名を間違えたり,漢字を書き間違えたりすると,「笑いもの」になります。

 正確な知識でないと,得点がとれず,評価されないのが日本の教育の特徴の一つです。

 表現されている内容の質よりも,表現された記述の正確性を重視するので,質が低くても,間違いがないだけで得点できてしまったりする。

 これを覆そうとすれば,「正しい教育改革」になり得ます。

 もし,改革が起こらず,「正確さ」だけを今まで通り追い求めて,漢字練習や英語のつづりの練習ばかり繰り返していることで,「頭が悪くなってしまう」ことに気づいた鋭い子どもや保護者が増えてくれば,小学校の教科の教育を受ける必要性を感じなくなっていくでしょう。

 「観点別評価」という,学力向上の妨げになる評価が,日本の教育のガンであり続けるかどうかも重要です。

 『英語で一流を育てる』で紹介されている「英語4技能」が身につく教材のように,

 4観点の学力が同時に身に付くような学習を進めていかない限り,真の学力向上はあり得ません。

 言葉は通じても,何かを間違えると笑いものにされるような環境より,

 言葉が通じなくても,何かをお互いに理解し合おうとする環境で学ぶ方が,学力が伸びる気がするのは当然のことでしょう。

 英語教育が,日本の小学校教育全体にどのような刺激を与えることができるか,今から注目です。

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「自分を変える」ことは容易なことではない

 私が学校現場から行政にうつり,そして行政の世界から「抜け出した」一つの理由は,

 「自分が正しいとは思っていないことを,学校現場にお願いすること」が精神的に苦痛だったからです。

 そこには,「変えられない自分」がいた,ということでしょう。

 学校現場に戻って,改めて感じたことは,「ここでも嘘つきがたくさんいる」ということでした。

 著書や論文で堂々と嘘を書くのは当たり前。

 「人を変える」ために,必死に極端で大げさな話を振りまき,危機感を煽る。

 「一部を切り取っての説明なのに,それが全部に当てはまるような錯覚を与える」ようなインチキ商売の手法が,教育の世界でもまかり通っていることは驚きです。

 「人を変えるのは難しいが,自分を変えることは簡単」という言葉を,

 「人を変えようとしている人」が使う理由はわかりますよね。

 「自分を変えること」だって,ものすごく難しいものです。

 ただ,詐欺師という「商売」が成り立つのは,「自分を変えられてしまう人」が一定以上いることを示しています。

 魂胆見え見えの嘘つきに騙される人は,別の意味で「自分を変えること」が必要です。

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線状降水帯出現予測は可能か~地上500mまでの空気中の水蒸気量が鍵か

 命を守るために必要な最低限の知識を伝えるのは,教育の大きな役割である。

 地理院地図などを活用して,自分が住んでいる地域,自分が学んでいる学校周辺の地域の特色を理解させる教育は,現在の小学校や中学校でもできることである。

 命を守るための教育に,教科の違いも何もない。

 地理や保健,理科の専門家しかわからない話では困るし,すべての子どもに理解させることができない指導でも困る。

 知識とは,「だれに聞けば正しい情報がわかるか」ということも含まれる。

 豪雨をもたらす線状降水帯ができるメカニズムが,少しずつわかってきているようだ。

 雨は上空から降ってくるものだが,それほど高くない,低層の大気の状態が豪雨の原因である可能性が指摘されている。

 避難行動に時間がかかる人が多い地域ほど,危険が迫っている情報が早く伝わる仕組みができるとよい。

 高い山地でなくても,冷たい空気の上に,湿った暖かい空気が乗っかっていくことで,積乱雲が続けて発生した地域もあるという。

 複雑な地形で海に囲まれている国に暮らす人間に欠かせない知識を深め,思考力を高めることができる教育を充実させる意思を,国はさらに強く示してほしい。

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「頭がいい人」とそうでない人は「別の生物」?

 教師を長年やっていると,同僚たちをはじめとして,教育関係者や保護者たちが,どんな基準で人間を区別・差別しているかを実感できる機会が多くなる。

 多くの場合,「頭がいい」「頭が悪い」「学習成績がよい」「学習成績が悪い」で人を区別しようとする人が多く,それが差別的言動になって表面化してくる。

 差別扱いされるのは,どちらか一方とは限らない。

 指導力のない教師の場合は,自分の言うことを素直に聞く人間と,聞かない人間に区別する。

 この場合は,言うことを聞かない人間は差別される。

 クラス替えのときに,露骨に「この子の担任はやりたくない」などというタイプの教師もいた。

 人は,生まれてから死ぬまで,本当に多くの人間から様々な影響を受けて生きていく。

 人間を区別したり,差別したりすることは,だれを通して学習するのだろうか。

 それはたいてい,指導力のない教師や会社の上司が元凶ではないか。

 そうでない教師や上司に出会えた人は,そう簡単に人間を差別しない。

 子どもにも差別をしない人間に育つよう,教育できるはずである。

 高校や大学レベルになると,もともと差別化され,選抜された人間が教育対象になるからか,小学校や中学校よりも露骨な差別を浴びる機会が増えるようだ。

 そういう環境で教師になるための勉強をした人は,教育現場に悪しき風習を持ち込まないように,注意してほしい。


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学生に向かって「可愛い」と表現する気色悪い教員の始末

 地方によって,標準語でもそのニュアンスが異なるのは,仕方がないことだと思われるが,

 たとえば東京では,学生に向かって「可愛い」と表現すれば,当然セクハラになる。

 こういう気色悪い言葉を使う教員のいる教員養成系の大学では,どういう教員が養成できているのだろうか。ぜひ,セクハラで処分された教員たちの出身大学別累計を公表してもらって,誤解を払拭してほしい。

 一昔前に,ある女性教員から,「私の田舎では,セクハラなんて日常茶飯事」と耳にしたことがあるが,今でも同じなのだろうか。

 丙午の私にとって,両親や祖母からの刷り込みで,「女性(同級生)とは恐ろしいもの」という先入観があり,差別するどころの話ではなく,怒らせるとどうなるかわからない,という恐怖心の方が強い。

 敬っているように誤解してくれればその方がよい。実際にはいかに怒らせないですむかを必死に考えているのである。

 生理的に拒絶したい人間が,教員だった場合,学生や子どもはどうしたらいいのだろうか。

 どうして大風呂敷を広げさせようとしているのか。

 私は,生理的に拒絶したい人間を,拒絶しないですむために,必死に自分で暗示をかけている人間たちのように思えて仕方がない。いずれにしても教師失格なのだが。

 
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女性の機嫌の直し方

 女性の「ヒステリー」(これはもう死語?)にはどう対処したらいいのか,穏やかな女性とばかり接してきた人にはわからない話かもしれません。

 そういう意味では,脳科学に頼るのもいいですが,経験が物を言う場合もあります。

 ラジオで『女の機嫌の直し方』という本が話題になっていて,その要旨が一部紹介されているのを読みました。

 女性が読むと,少しムッとするような内容かもしれません。

 この著者の方は,ご自分の近くに「機嫌が悪い女性」がいつもいることにストレスを感じているタイプなのではないかと思ってしまいます。

 「機嫌が悪い女性」を思い浮かべることが難しい方は,まずは,

 母親が子どもを前にして機嫌を悪くする理由を想像してみてもらえばよいかもしれません。

 言うことを聞かない子どもに対して機嫌が悪くなっていることもあるのですが,

 それを増幅させて,「機嫌が悪い」と見た目でわかる,あるいは暴言を吐くレベルまでいってしまうのは,

 「共感してくれる人がその場にいない」ことが大きな原因です。

 その場に人が(父親が)いるのに,自分の機嫌の悪さを感じ取って共感してくれないと判断される場合は,さらに気分を悪化させる原因になります。

 小中学生の女子の会話を聞いていると・・・・話の中身を聞かなくても,様子を見ていると・・・・お互いに共感し合える関係にあることが,友達の条件のような雰囲気が漂っています。

 「でも,あんたにもこれこれこういう理由で問題があるよ」などと論理的に迫ってくる人は,仲間の輪に入れてもらえません。

 だから,言葉で納得させようとする下手くそな道徳の授業を繰り返すと,子どもにますますストレスがたまり,いじめや問題行動を起こしやすくする原因になるのです。

 すぐに機嫌を損ねる女性教師の扱いをとてもよく心得ている子どもたちがいることを何年か前に知りました。

 先輩からきちんと「技」を伝授されて,「無駄な時間を省く」工夫をしている子どもたちがいるのです。

 その技とは・・・。子どもを守るために秘密にしておきます。

 「女性脳」とか「男性脳」という命名は,本当に正しいのでしょうか。

 著者は女性のようなので,「女性は自分の理解したいように理解する」というご自分の理論をご自分で証明されているとすると・・・。


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東京大学に入れなかった人間が書いている妄言

 ときどき,東京大学やそこで学ぶ学生のことを何も知らないでものを書いている人が見かけられます。

 その多くはただの妄言であり,自分の憶測を,自分がいつも言っていることの正当性を補強するために言っているだけであって,「真実」なり「実情」を知っている人間が読めば,「ああ,こいつの言っていることは嘘ばっかりだな」というのがバレてしまうのです。

 甲子園優勝監督が個人指導すれば,イチローのような選手は生まれるのか?だって・・・。

 おバカなたとえです。1年ごとに,プロ野球選手になれる人の人数と,東大に合格できる人の人数を比較してもらってもかまいません。

 イチローだって,プロになった1年目は,どんな選手だったかご存じですか?

 「育てる人はいらない」なんていう妄言は,いろいろな人に対して失礼なのです。 

 だれとは名指ししませんが,ぶろぐ村によく訪れる方,この「教育論・教育問題」に立ち寄られる方なら,妄言のぬしがだれのことか,おわかりになることでしょう。

 インターネットの掲示板のように,「同じ程度」の人が憶測だけを交換する仕組みならそれでいいと思いますが,一応,自分の名を名乗り,教育の仕事をしている,国立大学法人の関係者が,

>要領のいいやつだから東大に入れた。

>東大に入れるような子どもは,教師は何もしなくていい。ほおっておけ。

>東大に入れないレベルの人間(成績が中の上程度)には,東大に合格させられるような勉強を教えることはできない。

 なんていうことを平気で書く神経が信じられません。

 周囲にいる人間が,要領の悪いのばかりで嫌気がさしている。

 そういう人間がいくら「教える努力」をしても,無駄である,という個人的な「信念」を曲げたくない。

 そういう気持ちは理解できます。

 だからといって,いい加減なことを書いていいわけではありません。

 「お前らは頭が悪いんだから,頭がいい教師がやっているタイプの授業はするな」

 と言っているようなもの(というより,それを強要しようとしているもの)です。

 国立大学に入れるような学生は,文系でも一応,ある程度,数学ができるわけです。

 そういう学生に対しても,「お前は東大生と違って,要領が悪い。要領が悪いお前達が教えても,ろくな結果にはならない」と言うわけです。
 
 このセンセイに近づけるのは,「オレはバカだ」ということを誇りにしている殊勝な人だけということになる。

 私も,それなりに情報を集めました。

 その結果,「お前は東大生には遠く及ばない」といわれているレベルの教師が,勘違いさせられて行っている授業の多くは,子どもたちに教師の「勘違い」を伝染させています。その悪影響がいつから拡大し,常態化するかわかりませんが,それを食い止める力になっているのが,

>私にも東大に限らず,志望する大学に入れる学生を育てられる指導力を身につけることができる

 という普通の教師たちの「信念」です。

 「教える」ことへの情熱と,「学ぶ」ことへの情熱がリンクしたところに,何があるかを知りたい人が,

 「そこには何もないぞ。膨大なデータがそれを証明しているぞ」と幻滅させてくる人間に近づきたがるでしょうか。

 離れていた方が,よいでしょう。

 もちろん,「時間をかければ何となる」なんていうレベルでは,逆立ちしても東大には入れないかもしれません。

 ただ,学習指導要領に示されている目標を達成できるような授業をすれば,東大に合格するための手がかりをつかむチャンスを与えることは不可能ではないのです。

 「深い学び」を授業で展開できるような教材研究は,無駄にはならないのです。

 中学校の学習指導要領が示している歴史学習が,実は東大合格の近道であることに気づいている,東大出身ではない教師の人たちは,それなりに存在しているはずです。

 こういう教師を近づける空気を持たない大学が,いつまで存続できるかの方に私の興味はあります。

 何でも,ある制度に応募した人は,ゼロだったとか。だれの責任か,言うまでもないでしょう。

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無責任体質の伝染力のバロメーターとなる国税庁長官人事

 国税庁長官人事が発表されて,「喜んでいる人たちがいる」との指摘をしている人がいる。

 「絶対にないとおかしい書類はなかったことにできる」

 「税金はいくらでもごまかせる」というムードになるから,だという。

 官僚は,官邸の意向に沿うように仕事をする。

 企業の財務担当者は,社長の意向に沿うように仕事をする。

 国民や株主は重視されない,そういう雰囲気がさらに高まるだろう・・・という趣旨の指摘である。

 日本には,信用されない人がトップに立っても,機能できてしまう組織とそうでない組織がある。

 政府のトップから信用されている人と,国民から信用されている人のうち,

 国税庁という組織のトップには,どちらがふさわしいだろうか。

 日本は,自分が信用しない人がトップに立った場合,

 信用されるべき行動を自ら放棄する国民性をもっているのか,

 それとも国民こそが,国のために尽くし,信用されるような人間であるべきだと考える国民性をもっているのか。

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挨拶をさせられている子どもたちが痛々しい

 「挨拶運動」という取り組みをしている学校や,

 「挨拶をしよう」というスローガンを掲げている学校がある。

 中学校で歴史を教えている私には,「国民精神総動員運動」を連想させられる。

 「挨拶」をすることを生徒に呼びかけるのはかまわない。

 「挨拶」をしてほしい人が,自分から「挨拶」をすればよいわけだから。

 ただ,日本の道徳教育には,「儒教」の精神が紛れ込んでおり,「挨拶」は上下関係を基本にした「型」を強要される傾向もある。

 「お客様」に対する「挨拶」と,仮にも人間性の尊さを教える教育の場での「挨拶」は区別して考えるべきことだろう。

 「お客様」に対する「挨拶」をみっちりと仕込まれている客室乗務員のトレーニング風景を想像してみてほしい。

 あれを学校でやられたら,「人間性の尊さ」どころの話ではない。

 「人間性」や「人格」を無視した教育が,「道徳」という名のもとで大手を振って歩くことに,強い危惧を感じている。

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「おもてなし」精神をなくすと失業率が上がる?

 日本人は,余計な仕事を自分で増やしているから,労働時間が長くなるんだ,という指摘があります。

 相手を思いやる気持ちが,一手間,二手間増やす結果になり,仕事が増えるのだと。

 慢性的に仕事が多いという状況は,逆に言うと,人手が不足する,という環境をつくり,

 失業率を押し下げる効果があると・・・・。

 公務員ですら,一手間,二手間をかけていく人が多いのは,教師の仕事ぶりを見ていればわかるでしょう。

 学級便りや学年便りなどを,毎日出している人は,それだけ家庭とのつながりを強く維持しようとしている。

 子どものとの面談の数を増やして,教材の準備を後回しにしたり。

 ただ検印を押して返してあげればいい子どものノートに,コメントをたくさん書き込んだり。

 「余計な仕事をしたくない」という教師は,教師としての使命感に欠ける,教育への情熱が足りない,

 などと見られる傾向があるので,「やらざるを得ないからやる」という気の毒な人も多いかもしれません。

 初任給が高い外資系企業を選ぶ優秀な人達が増えているようですが,

 こうした日本的な伝統がない世界は,もしかしたらとても過ごしやすい環境なのかもしれません。

 ネット注文の買い物に,わざわざ手書きの礼状を入れる必要なんてないのに・・・と思う購入者が増えていくかもしれません。

 災害で苦しんでいる人のために,何ができるかを考えられる人が多い国と,そうでない国の文化の違いを子どもに考えさせてみたいと思っています。

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記録的な豪雨による被害が起こっている地域を地理院地図で調べてみる

 福岡県朝倉市と大分県日田市で猛烈な雨が続く・・・積乱雲が帯状に連なる「線状降水帯」が現われ,被害が広がっています。

 地理院地図を用いた次のような地図から,どういう地域が危険であるか,予想できるでしょうか。

290706
             (地理院地図を用いて作成)

 異常(=長時間+局地的)な豪雨が続いているメカニズムは,専門家によると,海水温が高く,海上の水蒸気量が増大しており,それが九州北部に流れ込んでいることが原因のようです。

 今まで,九州の地理学習で「筑紫山地」を確認させたことはありましたが,福岡県と佐賀県の県境になっている「脊振山地」を教えたことはありませんでした。それほど高い山ではありませんが,今回の局地的豪雨の原因として考えられているようです。

Photo
             (地理院地図より)

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働きアリの法則を教育にあてはめると何が起きるか?

 有名な「働きアリの法則」と,経済学者の「パレートの法則」は,

 2割と8割(2割と6割と2割)に分類して,それぞれの特徴を説明するものです。

 経験上,多くのことに当てはまるので,「法則」として人間を理解するときにも使われることがあります。

 ただし,「学級は2割の子どもが動かす」などという話が出てきたとたん,

 まともな教師なら憤慨することになるでしょう。

 私もこれを批判する記事を何度か書いたことがあります。

 これほど子どもたちの理解に対して,悪しき先入観を与える話はありません。

 自分自身の気を紛らわせるために20:80という「分類」をすることは勝手です。

 自由に「分類」,「レッテル貼り」して遊んでいればよい。

 でも,子どもたちは「アリ」ではありません。

 理科の教師に限った話ではありませんが,
 
 ときどき昆虫と人間を「同一」に扱う人がいます。

 気をつけた方がいいですね。

 でも,「同志」のうちの2割が,8割の成果を上げている,という捉え方は正しいのかもしれません。

 経験則と法則の区別はしっかりとしておくべきでしょうし,

 「法則に合わせるように教育していく」ことの問題は,だれの目から見ても

 ・・・・少なくとも8割の側からすると,迷惑どころの話ではないでしょう。


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子どもが学んだり成長したりするチャンスを奪う親・教師・社会

 タイトルの「子ども」の部分は,「親」や「教師」,「社会人」をあてはめて考えることもできる。

 成長のチャンスを奪われているのは,「子ども」だけとは限らない。

 学んだり成長したりするときに,欠かせないものは何か。

 それは「良質な失敗」である。

 アクティブラーニングの失敗事例は,下記の報告で示されたものが有名である。

>『アクティブラーニング失敗事例 ハンドブック』 文部科学省「産業界ニーズに対応した教育改善・充実体制整備事業」中部圏の地域・産業界との連携を通した教育改革力の強化 平成26年度 東海 A(教育力)チーム成果物(参加校:愛知産業大学、椙山女学園大学、中部大学、豊橋創造大学、豊橋創造大学短期大学部、名古屋商科大学、三重大学)

 教員の過剰介入と介入不足,学生の雑談,浅薄な議論,独断選考などは,「グループワーク」を無機能化させる失敗原因として示されている。

 どこからどこまでを教えるか,どこから考えさせるか,これは,グループを構成するメンバーの学力に左右されることは当然である。

 一般的な教育のプログラムは,「学力があまり高くない」子どもは実は基準として想定されていない。

 現実問題として,中学校の教科書が読めない小学校7年生がたくさんいる。

 定員割れしている大学の学生の学力は測定不能である。

 だから,アクティブラーニングそのものを成立させようとすると,学力が高い小学生がやっているレベルのことをどうにかこうにか大学生がこなせる,などといった課題が生じるのは当たり前のことである。

 学部生より大学院生の方が学力が低い気がするから,大学院生より中学生の方がよい活動をするというケースも多々あるだろう。

 アクティブ・ラーニングをした方が,しない方よりも成果物の質が高くなるという保証はどこにもないことは明らかで,『学び合い』でも集団が10人以下では適用できないと言っているそうである。

 アクティブ・ラーニングそのものが,子どもが学んだり成長したりするためのチャンスを奪う機会になる可能性があることを,教師なら誰でも知っているが,そうでない人たちへの注意喚起ができる著名人がたくさん現れてほしい。

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成果を上げる教師の10の性質

 読書編で取り上げた『世界最高の学級経営』(原著のタイトルは『学級開き』)では,「成果を上げる教師の10の性質」=教師が果たすべきリーダーシップ(当たり前のものばかりですが)が紹介されています。

>1 達成のビジョンがある。

>2 いいお手本となる。

>3 同僚を導く対人関係のスキルを持つ

>4 共通のゴールに向かって人を動機付け,鼓舞する

>5 ゴールに集中する

>6 締め切りを決め,中間目標を達成する

>7 個人同士,グループ同士の対立を仲裁する

>8 きちんとした知識や技術が重要だと考え,トレーニングを推進する

>9 情報を共有し,若く経験が少ないチーム・メンバーのメンターとなる

>10 準備が万全で,情熱的かつ粘り強い

 学校という「組織」では,学年の会議や,教科の会議がいかに重要かがわかるでしょう。

 リーダーがリーダーシップを発揮するための時間をおろそかにして,連絡だけの職員会議を長々とやっている学校では「成果を上げる教師」が生まれにくくなることもわかるでしょう。

 公立学校では,「教科別の会議?そんなものはないよ」というところがほとんどでしょう。

 残念ながら,教育界に限らず,受験競争が厳しい日本には,「学び合う」文化が根付いていません。

 「自分がよければ」という発想で,わざわざ自腹を切って組織の外に学びにいく。そして,その成果を共有化しようとしない。

 こういう文化の国だから,「お前らにこんなこといっても,わからないだろうな」「お前等は同志じゃないんだよ」なんていう人間が上にしがみついたりしている。偉そうなことを言っても,学校の管理職などには逆立ちしてもなれないような人間が,「既得権」としての教育を金をとって語っている。

 「成果を上げる教師」を増やそうとしているのか,そんなつもりはないのか,わからないような連中が「オレの方を向け」なんていう態度で本を出している。

 恥を知れ。

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「常識」が受け継がれないことの危険性

 「当たり前」のことが「当たり前」でなくなる。

 経験の多い教師なら,学校が荒れ始める前の様々な兆候を見逃すことはないはずである。

 今日は,野球の試合があったのだが,雨の中の試合になることがわかっていたにもかかわらず,下級生のだれ一人として,濡れたボールを拭くためのぞうきんを持っていなかった。私がそのことを予想して,家にあったものをバックに入れておいたので実害はなかったが,都大会への出場を目前にしたチームの状況としては考えられない事態であった。

 私も「悪い親」の一員であることには変わりはない。

 親が何でも準備してくれて,「考える力」「予想する力」「備える力」を子どもたちは失ってきている。

 親は子に,上級生は下級生に,教師は生徒に,

 大切なことを伝えていないのか。

 学校という職場に限らず,

 一般企業においても,同じような「劣化」は見られるのだろうか。

 ナントカ大臣のように,国政では個人の能力の劣化が課題ということもあろうが,

 「組織」の中の「常識」が受け継がれない事態には,やはり危機感を強く抱いてしまう。

 人工知能が人間の活動を助けるような時代になると,人間は,いつの間にか,だれも「考えずにすむ」日常にどっぷりと浸かっていくことになりかねないのではないか。

 「人間の知能の劣化を防ぐための人工知能」の開発も欠かせないはずである。

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「働き方改革」の前に必要な「学び方改革」

 新聞には中立・公正原則はない。

 表現の自由に基づき,独自の主張を展開できる。

 だから,政権に近かろうが,政権批判を重視しようが,新聞社の自由である。

 私たちは,歴史教育を受けることで,戦時中の政府と新聞社の関係,新聞が嘘の報道を続けていたことを知ることができる。

 政権に近い新聞を読むメリットは何だろうか。

 総理大臣の考えがわかりやすく説明されていることか。

 政権しか知らない特ダネを早く,たくさん知ることができることか。

 どのような「学び方」をすることが,私たちの人生を豊かにしてくれるのだろう。

 
 学校現場で進めなければならないのは,「学び方改革」である。

 今までに,成功したことがある「教育改革」はあるのだろうか。

 東京都の場合は,受験倍率が少しだけ上がったり,東大合格者が増えたりすることを

 「改革の成果」としてカウントしようとしているが,

 「頭の良い子」をたくさん確保して,その子たちの成果がどう出ようが,「私には関係ない」という教師や子ども,学校が多ければ,やはり「教育改革」とは呼べないだろう。

 「大コケ」の「教育改革」と言えば,「生きる力」(今日,たまたま発見したのだが,日中戦争が起こった1937年2月の東京朝日新聞の一面に,「生きる力」というキャッチフレーズが使われた雑誌の宣伝が載っていた)を育もうとした約20年前の改革である。

 次なる「大コケ」の最有力候補は,「主体的・対話的で深い学び」をキャッチコピーとした次の学習指導要領だろうか。

 「自分一人ではなく,何人かで力を合わせて何かをつくりあげる」という「学び方」がいつの間にか紛れ込んできて,「カンニングのすすめ」が教育現場に広がる恐れがある。

 自分の頭ではなく,人が考えたことを写すだけで,わかったりふり,できたふりにする子どもが大量に発生する危険性がある。

 「学び方改革」でこういう子どもが増えると,やがて,どのような「働き方」が目立つようになるか,想像するだけでも寒気がする。

 「働き方改革」とは,だれの何のための改革なのか。

 ある人が嘆いていた。

 「働き方改革」についてのわけのわからない議論の時間がなければ,

 もっといい仕事がたくさんできるのに・・・。

 「話し合い」だけで何も得られない「学び方」を変えなければ,まともな「働き方」などできるわけがない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より