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胡散臭さに気づける大学生がいて安心しましたが・・・

 ある国立大学のセンセイの教え子のことが心配で,知り合いの何人かの方に状況をお聞きしたところ,さすがに国立大学に合格できる人たちはそれなりの見識をもっていることがわかり,ほっとしました。

 自分がお世話になった先生方との比較ができる年齢であることの意味も大きいのでしょう。

 現場ではできそうにもないこと,教育学部以外の人からは笑われそうなことを延々と主張されることに嫌気がさしている大学生が多いそうで,アカハラを避けるために従順なふりをしている大学生も含めれば,「支持者」がわずかであってくれるのは,とても喜ばしいことです。

 ある先生は,「最近の学生の中には,嫌に自信だけはあって,中身のないのが目立ってきている」と教えてくれましたが,それは大学のセンセイの中に,そういうタイプの人が紛れ込んでいるからなのかもしれません。

 先日,ある研究会に参加された初任者の先生は,「私は教育学部出身で,専門と言えるものがありません」と頼りなさそうにぼそっと話されていましたが,私のように現場の叩き上げの教員を見てもらって,どこを出ようが勉強するのは教員になってからでも十分,という空気を感じてもらうだけでも,参加していただいた価値があったのではないかと思っています。

 大学では,謙虚な人間と,傲慢な人間のうち,どちらの割合がどれくらい多いのでしょうか。

 傲慢な人間が語る教育は,「国産」のものではなく,「舶来品」に目がくらんでいることが多いようですが,私のように「国史」という「純国産」の学問に触れてきた身としては,どうしても胡散臭い印象がして仕方がありません。

 英語の本を日本語に訳すとき,自分の都合のいいように解釈し,自分の主張を展開するための材料として「利用」することもできるため,「捏造」とまではいかなくても,「本物」であるかどうかの判断をするためには原著を読まないとならない(けれど暇がないからできない)という限界があり,いちいち相手にしていられない,というのが論争相手の考えなのでしょうが,現場の教師にしてみれば,一読しただけで,本物かどうか,ありふれたものかどうかくらい判断がつきます。

 胡散臭い人たちに共通するのが,「論理の飛躍」というか,「目的と手段の強引な結びつき」というか,・・・一言でイメージを表現すれば,「傲慢さ」に尽きるのです。そんな方法で子どもたちを騙すなよ,と言いたくなる。

 騙されないで正気が保てる大学生たちを応援します。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より